第十話 嘘と疑問 -2-
「真野くん。そこの本取って貰って良いかな?」
「あっ、えっ? うん。これ……かな?」
すぐ近くのテーブルに置かれていた本を手に取ると河原に手渡す。とてもスムーズに見えたその行動だったが、多少のぎこちなさに河原が気付く。
「もうどうしちゃったの? 急にボーッとしちゃって? まさか昨日夜遅くまで起きてて寝不足なんじゃないの? ちゃんと寝ないとダメだよ! 幾ら若いからって睡眠削ってると、そのうち倒れちゃうんだからね!」
上から覗き込む様な感じで河原が真野の顔を見てきていた。
急激な成長によりそこまで身長差が出来てしまったという訳では無い。ただ単に河原が踏み台の上に立っていたからである。本棚の一番高い所の整理をしようとしていたのである。
すぐ目の前まで近付いてきた顔に驚いてしまった真野。しかし河原はそんな事を気にする様子もなく言った。
「それにしても真野くんがバイトをするなんて正直びっくりしちゃったよ。いつも家に真っ直ぐ帰っていたのに一体どういう風の吹き回しかしらね。もしかして私と一緒に居たいからバイトしたの?」
「えっ? 別にそういう訳じゃないよ。ただ……本が好きだから幻逝膏文堂でバイトしたら、そこにたまたま河原が居たっていうだけだよ」
「何かそれ酷くない? たまたまって言うけど、私の方が先にバイトしてたんだから居る事を知ってた上で来たんでしょ? 全然たまたまじゃないよね。寧ろそれを狙って来たんだ! って言われた方が気持ちいいくらいだよ」
「狙うって……それじゃ俺が本に全く興味が無いみたいに聞こえるじゃん。ただ、河原と一緒にバイトするのが目的みたいじゃん」
「だって真野くんが本を読んでるところ一度も教室で見た事無いよ。それどころか教科書は開いているだけで視線を向ける事も無いよね。だから私はずっと真野くんの事を本が大っ嫌いな人間だと思ってたよ」
「何言ってるんだよ! 俺は読むよ! 読み上げるよ! 読み尽くして既にこの世に読める本が無いくらいになっていて困っているくらいなんだからな!」
「じゃあこれまでの芥川作家の名前を古い順に言ってみてよ!」
「……俺が読んでいるのは作品の内容だ。誰が書いてるかなんて興味が無いね! 売れていて賞を取っているからと言って、それが面白いとは限らない。どっちかと言えば、まだ売れてなくて埋もれている作家の方が情熱ややる気が感じられるから読み甲斐があるんだよ。表紙に名前なんて要らない! 作品名が書かれていれば充分なんだよ!」
言い放った真野。自分の中では最高に名言的な事を言ってしまったのではないかと自画自賛してしまいそうな勢いだった。だが、しかし言葉が止まってしまったのは束の間、決定的な事を言われてしまう。
「じゃあ、今まで読んで面白かった小説の題名を十個言ってみてくれる? でも、これまで沢山読んでいるなら十個なんて少な過ぎると思うけどね」
(何か今日の河原は、豪く突っ込んでくるな。とはいえ普段がどんな感じなのかは知らないんだけど。もしかして凄い負けず嫌いなのか? はたまた本を語らせてはいけない様な要注意人物だったのかな? 兎に角俺が本を好きなのは紛れも無い事実なんだから、ここは簡単に答えて黙らせてやるしかねぇな!)
「わ、分かったよ。いくぞ。まず一つ目が……一つ目が……あれ? 何だったっけ? えっと、喉のここまでは出てるのに。あんなに沢山読んできたのに何でたった十個どころか一つさえも答えられないんだ?」
「それはですね。真野くんが本当は本が好きじゃないからですよ」
河原からの質問を答える為、苦悩していた真野に対してそんな言葉が突然飛んできた。ふいに声の方に向かって振り返るとそこに居たのは本屋だった。
「これはこれは真野くん。こんなにも早くまた会えるなんて私は嬉しいですよ」
「あ、お帰りなさい本屋さん」
「ただいまです河原さん。私が居ない間に何も問題などは起きませんでしたか?」
「はい。大丈夫です。お客さんは一人も来てませんから」
「そうですか。なかなかこのお店も繁盛しませんねぇ。何かいいアイデアはありませんかね真野くん」
「あの……俺が本当は本が好きじゃないって一体どういう事なんですか? 今まで数え切れない本を読んできたのは事実なんですよ」
「う~ん? まだそんな事を気にしていらしたのですか? 本当に困った人ですねぇ真野くんは。自分が何なのか。何を今の今までやっていたのか。分からなくなってしまっているんですから、本当に困った人を通り越して呆れ果ててしまいますよ」
「俺が何なのかって……俺は俺自身の他には無いですよ。真野奏太。それが俺の名前じゃないですか!」
「へぇ~真野くんって奏太っていう名前だったんだ。初めて知ったよ。これでまた一つ真野くんの事について詳しくなる事が出来ましたよ」
「何を言っているんですか? そんなの誰もが知っている事じゃないですか? 最低でも俺は此処にバイトの面接に来た時に出した履歴書に書いてあった筈ですよ。だから本屋さんは知っている筈です」
「ううん。知らないよ。だって真野くんは此処でバイトをしているどころか面接にも来てないんですからね」
「えっ? ど、どうしてそんな嘘を付くんですか? 俺は来たじゃないですか……今年の春、三年になったのを機にバイトを始めようと思って履歴書を書いて幻逝膏文堂に電話を掛けた後に本屋さんに履歴書を持って行って面接してくれたじゃないですか? だから今こうして俺が居るんじゃないですか?」
「それは全て真野くん自身の思い込みに過ぎないんですよ。じゃあ聞いてみますか? 河原さん!」
「は、はい!」
「真野くんがこう言ってますけど、確か河原さんは真野くんよりも先に此処でバイトをしていましたよね?」
「そうですけど……」
「じゃあ真野くんはいつから一緒に働いていましたっけ? そして実際の真野くんは今日何をしていたんでしたっけ?」
途轍もなくその投げ掛けた質問は、嫌味な質問であった。明らかな悪意が篭っている様にしか感じる事が出来なかった。しかし、それは質問をされた河原自身では無く、その横に居る真野に対してだった。
躊躇しているかの様に言葉を詰まらせる河原だった。横目でちらちらと真野を気にしている仕草を見せていた。
「どうしたのですか河原さん? ちゃんと言ってあげないと真野くんが可哀想じゃないですか。自分が此処に居る事が当たり前だと思い込んでしまっているんですから、ちゃんと本当の事を教えてあげないとダメですよ」
なかなか答えようとしない河原を急かすかの様に本屋が言う。普段から浮かべている笑い顔が今はただ嘲笑っているようにしか見えなかった。
未だ言えずに立ち尽くしている河原は、唇を強く噛み締めていた。そして同時に目も強く閉じる。自分の中で葛藤が繰り広げられていたのだった。暫くその状態でいたが、ゆっくりと目を開くと言い始めた。
「今日です! 真野くんが此処で働いているのはついさっきです! 元々私一人だけが此処のバイトをしているので、真野くんがバイトをしているのは可笑しいんです。これは勝手に思い込んだ事が現実になろうとしているだけなんです。でも、それは決して現実では無いんです。現実になっちゃいけないんです。だってこれは真野くんが望んだ事かも知れないけど、実際には自分ではやろうとしていない事だから……あくまで夢の延長線上の世界でしかないんですから。そして真野くんは本当は今日、金曜日に起こった学校の出来事と何故か家の机の上に置かれていた真っ白い本の事について、此処で本屋さんから真野くん自身に起こった不思議な出来事が一体何だったのかを教えて貰う為に来ていました。けど、話す前に帰ってしまったけど……だから真野くん! 今思い出して! 今日の事。そして本屋さんから事実を聞かせて貰って欲しいの。じゃないと……真野くんは……真野くんは……」
「もう大丈夫ですよ河原さん。何か無理な事をさせてしまって申し訳無いです。しかし、こうでもしないと真野くんは話を聞いて貰えないですからね。何てったって今回作り出した『幻実世界』は河原さんと一緒に、と言うのが願いらしいですからね。だから本人に言って貰うのが一番効果があるんですよ。っで、真野くんはどうですか? 何か思い出す事が出来ましたか?」
小刻みに体を震わせながら、立っている真野の目は瞳孔が開き切っていた。自分の置かれた立場が一体どういう状況なのか理解出来ずにいたのだ。
「な、何を言ってるんだよ……河原……本屋さんまで……二人して俺を騙そうとするなんてあんまりじゃないですか。ずっと三人一緒に過ごしてきたじゃないですか。俺ちゃんと覚えてるんですよ。今まで過ごしてきた時間を……本屋さんがよく仕事終わりに御飯に連れて行ってくれたり、河原とは学校であった出来事をよく此処で話してたじゃないか。いやぁ~本当にこんなドッキリを仕掛けてくるなんて驚きでしたよ。でも、実際にあった出来事が嘘だなんて、あまりにも無理矢理過ぎてバレバレのドッキリになってしまいましたね」
気の抜けた笑いを浮かべながらそう話してくる真野を本屋は険しそうな表情で、河原は困惑した表情で見詰めていた。
「はぁ~参りましたねぇ」
大きな溜息を吐きながら、本屋はすぐ傍にあった椅子に腰を掛ける。そして体を前に傾け、肘を太ももに置くと手を組んだ体勢になって言う。
「良いですか真野くん。今目の前に広がっている世界は、確かに現実ですよ。時間の流れも同じですから、今は十一月十五日昼の三時四十七分で間違いでは無いです。ですが、真野くんは本当に今日一日朝からたった今の時間まで此処でバイトをしていたと思っているんですよね?」
「いるも何も実際朝から此処に居る事を本屋さんと河原が知っているじゃないですか?」
「いいや! 知らないですよそんな事。何故なら真野くんはさっき河原さんが説明してくれたように此処までの道さえも分からずに私から話を聞く為に来てくれたんですよ。そして話を聞かないまま帰って行った。それが大体、今から二時間程前になります。まぁ、きっとまた来るとは思っていましたけど、こんな形で来るとは思いませんでしたよ」
「一体何を言っているんですか? 俺にはさっぱり分かりませんよ。二人共どうしちゃったんですか? さっきから言ってる事が意味不明ですよ!」
「そういうところが真野くんの悪いところなのでしょうね。今回のような事になってしまった原因と言って良いでしょうね。じゃあ、いつまでもこんな状態のまま話をしていてもラチが明きませんので少し手荒な事をしますけど我慢して下さい」
前に倒していた体を起こし、そのまま立ち上がると真野の方に近付いて来る。その時の本屋の表情からは笑顔は一切消えており、一瞬にして背筋が凍ってしまう程の異様な雰囲気だった。
条件反射的に真野は、足を一歩下がらせてしまった。
(何だよこれ……身体が動かない……自分の意思が無くなってしまったかのようだ。本屋さんに対して今までこんな感じになった事無かったのに……とても怖い……)
気が付くと本屋は、既に目の前に居た。そして右手で真野の両目を覆うように頭を掴むと突然激しい痛みが襲ってきた。
「うあああぁぁ!!」
思わず声を上げてしまう真野。次第に意識が遠くに飛ばされて行くような感覚に陥った。まるでそれは学校の下駄箱で感じたものと似ていた。
本屋の手によって覆い被された目の前は真っ暗であった。深い深い闇の中に落ちて行き、果てしない闇の中の更に闇へと吸い込まれていく様な感覚になる。そしていつしか辺り一面暗闇であった筈が真っ白な光の中へと変わっていた。自分が何をしていて、どうなってしまっていたのかも分からなくなっていた時、声が聞こえて来る。
「お兄ちゃん! ねぇお兄ちゃんってば! ねぇねぇ……お兄ちゃ~ん!」




