#12
オオトミ家でこの世のものとは思えない体験をした翌日のことである。
まだ人の行き交いも活発になりきらぬ午前中の早い時間に帰宅したトキヤは、憔悴しきっていた。普段なら欠かすことのないコートの手入れさえも怠り、時間を惜しんで軽い食事を取り、睡眠をとった。
ここ最近気を抜いて過ごすことがなかったため、疲れの蓄積もあったのだろう。ベッドに倒れこむやいなや、トキヤは深い眠りに落ちた。
その甲斐あってか、次に目覚めた時―― 時刻はすでに日暮れ前になっていた―― には、気分はだいぶ落ち着いていた。就寝前の自分は、どうやら相当興奮していたらしい。それに気がつくと、深い溜息が自然とこぼれ落ちた。
無理もない―― とは思う。あんなことは、魔術と無関係ではなくともめったに経験するものではない。確かに一番強い感情は「恐怖」であったろうが、その中にさまざまな感情の要素が含まれていたことは否めないだろう。
ともあれ、ソフィアと話し合わなければならない。トキヤは平素から、彼女とはなるべくフラットな気持ちで語り合うべきだと考えている。なりふり構わず睡眠をとったことは正解だったかもしれない。今の状態ならば、言葉に余計な感情が籠ることもなさそうだ。
寝乱れた姿を整え、階下に向かう。
結局置き場所がなく―― 倉庫のようになっている三階はイヤだと本人が拒絶したためであるが―― ソフィアの入った鳥籠は、布を掛けた状態で事務所に放置してある。
薄暗い室内にトキヤの持つランプの光が差すと、
『ようやく起きたのか』
ずっとトキヤが来ることを待っていたとでもいうように、ソフィアが言葉を飛ばして寄越した。
最近ではすっかり慣れてしまっているが、この「脳に直接言葉が焼き付いてくる」というソフィアの魔術は、寝起きに経験するとどうにも気分が優れなくなる。反射的に額を抑え、定位置となる椅子に腰掛けるトキヤ。
『……おい、このまま話し合おうというのか?』
「ああ、すみません。まだ本調子じゃなくて」
鳥籠の布を取り払うことを忘れていた。
声を使ってコミュニケーションするわけではないので、どうしても忘れがちなのだが、相手の顔が見えないまま話を始めるというのは、たしかに失礼な話ではある。
布を丁寧につまみ上げて取り上げると、西洋のお伽話に出てきそうな、妖精じみた容姿の人形が姿を現す。精緻な美貌はいつ見ても見事な細工だと簡単するが、呪具としての人格であるところのソフィアはそのあたりに頓着がないらしく、その所作は感情に富む。
――仁王立ちして睨みつけてくる妖精、か。とても絵本や挿絵には出来んな。
ぼんやりとそんなことを考えていると、瑠璃色の瞳が怪しむようにトキヤの瞳を覗き返してきた。
『なんだ。わらわに何か、言いたいことでもあるのか?』
「もちろん、ありますよ。そのために昨日はひどい目にあった来たのですからね」
『……うまい言い逃れだ。まぁよい。くだらない追求などよりも、今はそちらの話のほうが重要であるからな』
なぜだか女性との会話は横道に"それがち"である。だからこそ、ソフィアとの会話は簡潔で気分が良いと感じることもある。実のところ、トキヤは自分が無意識のうちに会話に交えている皮肉めいた言葉がコミュニケーションの迷路を生むことが多々あるということに気がついていないのであった。
『して、どうであった? わらわが言ったことは試したのであろ?』
「もちろん、実行しましたよ。扉のムコウの"彼"は、「契約を完了せよ」…… と言っていました。ボクの聞き違いでなければ、これで間違いないでしょう」
声にしながら、トキヤはこの言葉を聞いた瞬間のことを思い出していた。
感情がささくれだっていた。なにせこの言葉によって、扉のムコウに居た「何か」とそれを呼び出した、あるいは閉じ込めた「誰か」がなんらかの契約を結んでいたことが確定してしまったのだ。それがどのような意味を持つかまでは不明である。しかし、ロクなことではないだろうとトキヤは確信していた。珍しくも裏書のない、経験上からくる直感であった。
『……やはり、契約が最後まで遂行されておらぬのか。最悪ではないが、ちと面倒な状態であると言えるな』
「あなたは"あれ"がなんであるのか、ご存知なんですね?」
『うむ。本来ならば主様のような魔術師でもない人間に教えてやるものではないのだが、呼び出す方法を教えるわけではないから、まぁよいだろう。……あれはな、【真実の輩】であるとか、あるいは【ナゥム・ハ=ジグの使者】と呼ばれる、この世の理から外れた生物よ。――否、この世に生きるものを"生物"であるとするのなら、あれは"生物ではない"ということになるのか』
聞き慣れない単語とともに、気になることが語られた。トキヤはどう質問してよいか迷い、
「その、【真実の輩】というのは、どういった存在なのですか」
『ふむ。それを説明するにはまず、彼奴らがどういう"括り"で語られているかを言わなければならないだろう』
ソフィアの説明は以下のとおりである。
トキヤは知らなかったようだが、ある程度知識を深めた魔術師にとっては、そのような生物―― 便宜上【魔物】とする―― はある程度認知された存在であり、この世に人知れず生きているものもあれば、まったく別の次元に生息しており、魔術の講師によってこの世に呼び出すことで、ようやく姿を現すものがあるという。
魔物たちは基本的に、人間と生命維持のプロセスが違っている。
人間は呼吸をし、食事などによって必要な物質を取り込むことによって生命を維持しているが、魔物においてはその限りではないということだ。生命に関する常識が通じない相手であるので、その多くは人間の手に負えるものではない。"特別な"要件がなければ、積極的に遭遇したい存在であるとはいえないだろう。
『一口に魔物と言っても、実に多彩なものが居る。単純に力の強いものから弱いものまで。おそらく、わらわのなかにもすべての魔物の知識は収まってはいまい。そもそも、情報があまり多くはないのだ。未知との遭遇というのは、非常にリスクを伴うからな』
「それで、その【真実の輩】というのも、魔物のうちのひとつということで間違いないですね? どんな特徴を持っているのですか」
『まあ、そう急くな。……よいか。彼奴らは魔物の中でも特に危険で、大いなる力を持つ魔物――"神"の称号を持つ存在に仕えるものたちなのだ』
「……ナゥム・ハ=ジグ?」
さきほどのソフィアの言葉に出てきた、気になる名詞のようなもの。それをトキヤが口にすると、ソフィアは玄妙な面持ちで深く頷いた。
『【真実の瞳】、【久遠見つめし者】。実に様々な呼び名があるが、誰もその姿を見たものはないという、謎めいた神よ。ナゥム・ハ=ジグは【真実】そのものであるとされている。よって、その姿や存在を知覚しただけでも、矮小な人間の精神などは簡単に崩壊してしまうのだそうだ』
「作り話のような話ですね。真実そのものとは……」
『そう思うのも無理はなかろう。ナゥム・ハ=ジグに関する記録はほとんど存在しない。そもそもおいそれと呼び寄せることの出来るものではないし、よしんば呼び仰せたとしても、術者は無事では居られないであろうからな』
「それなら、どうして少しでも記録があるのですか?」
『ナゥム・ハ=ジグそのものはどうすることが出来ずとも、その眷属―― 仕えるものたちであれば、なんとか御することも可能であろう、と。そう考えたものが居て、実際にやってのけたからだ』
「なるほど。それが【真実の輩】」
『左様。ナゥム・ハ=ジグの眷属たちを閉じ込める方法や、契約によって利を引き出すための方法については、それなりの数の記録が残っている。そしてその性質ゆえに、多少なりとも主である神の記録もまた、存在しているのだ』
「その、性質というのは?」
『真実の使徒どもは、特別な方法によって捕らえることが出来る。その仔細を話してやることは出来ぬが、彼奴らは"光があればどこにでも姿を表すことが出来る"ので、"鍵穴"を除くすべての隙間を埋めて暗闇の閉ざした部屋を用意して、その中に閉じ込めてしまうのだ』
「――そのまま例の【開かずの間】の状況というわけですね」
『使者を捕獲することに成功した術者は、解放を条件に、"この世におけるひとつの真実"を聞き出すことが出来る。……もっとも、彼奴らは嘘こそつかぬとされるが、その言葉は謎めいたものであることがほとんどだ。彼奴らの言葉を正しく理解できるかどうかは、まったく別問題であるということだな』
「つまり、何者かが何事か"真実"を聞き出すために、あの部屋に【真実の輩】を捕らえておいた、と?」
『そうなるな。……だが具合の悪いことに、術者は使徒を開放していない。主様が聞いてきた言葉通りなら、すでに例の場所に閉じ込められている使徒は、"その契約を全うした"はずなのだ。本来なら開放されなくてはならない。あるべき場所に戻ってゆかねばならない。それがなされていないというのは、どうにも拙い状況だと言えるだろう』




