#7
甘かった。
トキヤは後悔した。もっと念入りに、釘を差しておくべきだったと。
オオトミとトキヤに正式な契約が結ばれた日の翌日、午後十六時過ぎのことである。午前と昼の時間を目いっぱいに使って一仕事を終えたトキヤは、オオトミから預かった借家の鍵束を手に、二十七番地区に降り立った。
二十七番地区には街の入口から中心地区へと、一直線に大路が横たわっており、住宅地区扱いを受けてはいるものの、大路沿いに商店や宿泊施設が多く存在しているため、独特の雰囲気を持っている。
住んでいる人間多くは、そういった商店やその他施設に勤める人間であるが、一部区画―― 中心地への足掛かりである大橋近くには、学生向けの集合住宅などの借家が集中している。
この特殊な区画にある借家は、カレッジと契約を結んだ管理者によって維持されている。要するに、この区画全体が擬似的な「学生寮」として機能しているのだった。
本来の学生寮は無論、カレッジの敷地内に存在している。学生寮はカレッジ設立当初の見込みでは十分な規模と考えられていたが、予想はよくも悪くも裏切られることとなった。
地方からの入学希望者が飽和したのである。
国内において、設備の充実性や教員の質等、シュトのカレッジを上回る大学校は他に存在しない。故に、金のある家の若者たちは、こぞってカレッジに通いたがった。
カレッジ側は少しでも「学ぶ意思」のある若者を受け入れようと、潤沢な資金でもって学業のための施設を拡充し、専門家の増員も行った。その結果―― 肝心の地方からの学生を受け入れるための学生寮の増設が後回しとなり、現在もその問題は解決しきっていない。市街の一部に準・学生寮が生まれたのは、そういった経緯がある。
オオオトミもまた、この特殊な区画の借家に住んでいる―― と言うわけではなかった。これは非常に特殊なケースである。
オオトミの実家は一般的な階級から見れば確かに「資産家」であったが、カレッジにて跡取り息子を余裕を持って学ばせるほどの財力はなかったのである。
したがって、オオトミ自身の生活は優雅なものであるとはいえなかった。
他の学生に比べて著しく生活レベルが落ち込んでいるというわけではないにしろ、何か―― 例えば"友人との交流"であるとか―― を優先しようとすると、他の何かを切り詰めなければならない。彼がその「節約」の対象に選んだのが、所謂「家賃」であったのだ。――それが事の発端である。
オオトミの借家は、学生たちが多く住んでいる区画からやや離れた場所に建っていた。
カレッジへの道程はそこそこといったところか。例の区画と比べれば距離が空いているものの、通うに不便ではないだろうと思われた。
立地が良くて"格安"である。オオトミはこの家を見つけた時、たいそう喜んだことだろう。
見た目も悪くない。建てられてから十数年といったところ。それほど広くはない土地にあって、小さな前庭を備えた小洒落た屋敷である。
規模で言えば、最近トキヤが訪れることとなった―― 火災によって焼け落ちてしまったため、比較対象としては相応しくないが―― マミヤ邸に比べれば幾分か小ぶりである。予め手に入れた見取り図によれば、各施設を除き、一回には二部屋、二階には件の寝室や「開かずの間」を含む六部屋がある。
探索にはさほど苦労はしないだろうが、確かに一人暮らしをするには広すぎる家であると言えよう。このような物件が、苦学生でも借りられるような値段で借り出されているとは信じがたい。
「――それで、どうしてあなたたちがこの場所に?」
現・オオトミ邸に着き、外観を見渡したあと、前庭に足を踏み入れたトキヤは、エントランスの庇の下に座り込む人影を目の当たりにし、前日の自分の迂闊さを呪った。
よく見知った顔の少女が二人、肩を寄せあっていた。おそらく長いこと同じ姿勢で居たのだろう。すっぽりと全体を覆う外套の袖や肩部分には、庇で防ぎきれない煤と灰が積もっていた。
「あら、それをわざわざあなたに言う必要があるのかしら?」
近づいて嘆息混じりに訊ねてみれば、挑戦的な言葉が返ってきた。
ご存知、レイカ・アカギリである。妹のフウカは例のごとく姉に振り回されているだけなのだろう。トキヤの視線が向くと、両手を合わせて謝るようなしぐさをして見せた。彼女には自主的に姉の行動を制限する力はないのである。
「ボクにあなたがたの行動に対して口出しをする権利があるとは思っていませんが、参考までにお聞かせいただけませんか」
「そうねえ。……あなたがどうしてここに来たのか、それを教えてくれたなら、私たちも話そうとおもうのだけど」
「仕事です。この建物の中に用事があります」
「あら、"偶然"ね。私たちもこの建物の中に用事があるのよ。――言っておくけど、家主に許可はもらっているから」
次ぐトキヤの言葉を予想したのか、レイカはそんなことを言い出すのだった。ここでトキヤは二度目の後悔をする。釘を差すべき相手を間違えた―― と。世間知らずの学生は、探偵に家の鍵を預けるということについて、あまり深く考えようとしなかったようだ。
「偶然、ですか」
「そうよ、偶然」
「そのわりには、ここで随分と時間を過ごされたようですが」
「仕方がないじゃない、鍵がなくて入れないことに、"さっき気づいた"んだもの」
トキヤはあくまでも、探偵として依頼を受けただけの民間人である。調査の邪魔になるからといって、個人的な思惑を持って行動している他人を排除することは出来ない。物件の現所有者であるオオトミが許可さえしていなければ、許可を得ている立場のトキヤが立ち退きを勧告することも出来ただろう。しかし、
(この調子なら、ほんとうに許可はとっているのだろうな)
事務所に連れ立って現れた時の様子から、レイカとオオトミの力関係は見え透いている。それに加えてレイカは口が達者であるので、すっかり丸め込まれて気軽に許可を口にするオオトミの姿が容易に想像できた。
(叔父さんくらいの権威が在ればなんとかなったかもしれないが…… やれやれ、これもボクの未熟さが招いた展開か)
最近は、女性に振り回されてばかりだ。心中で大いに嘆きつつ、ため息混じりの言葉を紡ぐ。
「……具体的にどのような用事かは、教えていただけないんですね」
「それはお互い様でしょう?」
「ボクは―― 仕事ですから」
「そう頑なにならなくともいいのに。この件に関して、あなたが不利になるようなことは決してないわ。書面に認めてもよくてよ?」
実際、レイカたちが関わってトキヤに個人的な不都合が生じるとすれば、依頼人との関係がこじれることくらいなものだが、無論彼はそんなことばかりを心配しているわけではない。
「ボクの心配事は何も、自分のことばかりではないのですが」
心配の種は、仕事に関するものや日常的なものに留まらないのだ。
もはや共通のものとなってしまった「敵対者」がどれだけ現状を把握しているのかはわからないが、トキヤと姉妹が頻繁に行動をともにすることは、好ましいことではない。誰にとっても不利につながりかねない情報を身にまとって歩き回るようなものである。
しかし、この手の主張は何度も繰り返してきた。そのたびあの手この手でかわされてしまっているので、この時点ですでにトキヤは諦念に支配されていた。
「心配性ねえ。前にも言ったけど、そうそう滅多なことは起こらないわ。今の私は家出娘だけれど、"お忍び"というわけではないもの」
レイカの視線の先―― あまり背の高くない庭木の影に、窮屈そうに長身をおさめているシノの姿がある。姉妹の直接的な護衛は彼だけということだったが、レイカの言うことが正しければ、トキヤが察知できる範囲の外にも監視員が居るのだろう。レイカの考えもよくわからないが、アカギリ現当主である姉妹の祖母の考えも、トキヤには推し量ることが出来なかった。そもそも、喧嘩の理由すら曖昧なのである。レイカは何度訊ねられても「理解を得られなかった」、「認識の齟齬」等としか語らない。
「どうしてそこまで首を突っ込みたがるのですか?」
最後の抵抗とばかりに、常々からの疑問を口にする。
「興味があるからよ」
レイカは笑顔で応えた。彼女はわざと表情に含みを持たせることが多いが、その笑顔からはとくに何も感ぜられなかった。それが却ってトキヤを不安にさせる。
「理解できないって顔ね。……まぁいいわ。でも、これは冗談ではないのよ? 建前でもない、本音」
「ボクは興味と危険性を、そもそも天秤にかけることすらしませんからね」
「私にとって「興味」は重要なことだわ。今のうちに色々なものを見ておきたいの。それがたとえ、自分の身の危険や他人の迷惑につながったとしてもね」
トキヤは少し前にレイカが言った、『こんな状況、いつまでも続くわけではないのだから』という言葉を思い返していた。具合の悪いことに、それについて野暮な推察を始めると、レイカの無茶な要求に対して、少しくらいは目溢しをしても構わにかという気分になってしまう。少なくともレイカのストレートな物言いは、建前を見抜くだけの眼力を備えているトキヤに対して有効であった。
絆されてゆく自身に呆れ、ため息をつく。トキヤの動きに合わせて傾いだ傘から、降り積もった灰と煤が滑り落ちて舞う。実際それほどの時間は経っていないが、ずいぶんと長いこと問答を続けていたような気分になった。
「……わかりました。お気が済むようにされると良いでしょう。ただし、最低限ボクの言には従ってください。その条件が呑めないと仰るなら――」
「あなたがこのなかで"一番冴えている"のはわかっているわ。あなたがその認識を覆さないかぎり、私とフウカはあなたに従う。私の従者はその限りではないけれど、私の意思が働く限りは勝手なことはさせない。それで良いかしら?」
「――結構です」
あくまでも判断基準は"人"なのだな、と。レイカにとって、地位や肩書はそれほど重要なものではないようだ。スメラ・カンザキのように、「スメラ・カンザキ」という個人と「シュト一の探偵」という地位が一体化しているケースを除いて。
(ボクもせめて、「探偵のトキヤ・カンザキ」くらいにはなりたいものだ)
妙に惨めな気分のまま、トキヤはオオトミから預かってきた鍵を、エントランスの扉に差し込むのであった。




