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「……はぁ」
『最近ため息が多いな』
シュト市二十四番地区・カンザキ探偵事務所。
市内でも有数の富豪―― 所謂雲の上の人物からもたらされた波乱の依頼が一区切りを迎えてから、すでに五日が経過していた。
探偵事務所の所長であり、唯一の構成員でもある青年トキヤ・カンザキは、書架に囲まれた薄暗い事務所の中で、未だ午前中にも関わらず、本日十数度目の重々しいため息をついた。
例の一件から、当初トキヤが警戒していたような事態は起こっていない。災いの火種を抱え込んでいるワリには、穏やかな日々が続いていた。それ自体は喜ばしいことであるのだが、いかんせん探偵という商売は「事件」を食い物にしなければいけない、業深い商売なのだ。
探偵にとって、平和という事実は由々しきものである。
トキヤの嘆息には、じつに様々な苦悩が含まれているが、その最たるものが「生活費不足」であった。
名が知られていないのに加えて商売ベタ。儲けは非常に少ない。先の事件の「調査費」としてそれなりに纏まった金額を受け取りはしたものの、すでに諸々の経費のおかげで、財布の中身は干上がっている。
本日の朝食も黒パンと薄切りのハムと貧相なものだった。トキヤは特別食事に頓着する質の人間ではないが、こうも質素な生活が続くと気も滅入ろうというものだ。
「今すぐどうにかなるということはないのですが、最近生活環境があまりよろしくないもので」
『なら、仕事をすればよいだろう』
「仕事がないんですよ」
『ないならないで自分を売り込むしかあるまい。そのままぼうっとしていたら、ミイラになってしまうぞ』
珍しくこぼした愚痴は、にべもない言葉で叩き伏せられた。
容赦のない言葉を紡ぐのは、先の一見で「預かり」となった人格を有した呪具―― 久しく呼び名がなく、トキヤの故郷で「智慧」を顕す「ソフィア」という女性名を与えられた―― である。彼女はもっともなことを言うが、意識はすっかり目の前に広げられた本のほうに向けられているようだった。呪具である彼女には糧が必要ないので、トキヤの悩みはまさに他人事なのである。
「売り込みをかければ仕事がもらえるというわけでもありませんよ。都合よくボクらが受けられるような仕事があるとは限りませんし」
『それでもじっとしているよりはマシだろう?』
「それはまぁ、確かに。けれど、探偵業の売り込みですか。どうやったものか見当もつきませんねえ」
トキヤがあまり能動的ではないのには、本人の性格の他にも理由がある。探偵という職業の性質上、なにがしかの「事件」が起きなければ、そもそも仕事にならない。
「新聞に広告を出すのにもお金が要りますし、さてどうしたものか」
探偵卿と呼ばれる叔父スメラ・カンザキによれば、待つこともまた仕事であるらしい。が、待っているだけでは肝心の金は手に入らない。大いなる叔父にもトキヤのような見習いの時期があったはずなのだが、参考にしようと思ってみても、その時期のことを本人が話したがらないのだった。
『商売ごとはわらわも詳しくないしな。いっそ、あの娘たちに相談してみてはどうだ?』
「ボクが独りで考えているよりは建設的でしょうけど。……しかし」
ソフィアの言う「娘たち」とは、先の事件の依頼者であるところの令嬢姉妹のことである。この国の貿易事業の黎明期を支えた大企業、【赤桐】。代々女性が実権を握ってきた女傑一族の直系ともなれば、本来ならトキヤのような平民が目通りするだけでも難しいような人種だ。
何をどうまかりまちがったものか、未だ探偵として未熟者であるトキヤが彼女たちの依頼を受けることになり―― 事件はどうしようもなく説明が難しい展開を迎え、最終的な決着は未だ訪れていない。
依頼が完了していない現在、彼女たちとの付き合いはまだ続いている。ただ、この微妙な「関係」にもごく最近、驚くような変化が訪れている。それがトキヤの頭を悩ませている「問題」のうちのひとつなのであった。
『何を悩むことがある。もはや会おうと思えば"すぐにでも会える"だろうが』
「そうは言いますがね。彼女たちはボクの身内でもなんでもないのですから……」
この手のやりとりは、何も本日に限って行われたものではない。先の一件でソフィアが事務所に置かれてからというもの、この建設的でないやりとりは幾度と無く繰り返されてきた。
そのうち本に夢中になったソフィアが勝手に会話を切り上げてしまうので、トキヤは再び堂々巡りの思考に身を沈めていくのだが――。
ノックの音が響く。
トキヤの自宅件事務所のエントランスには、「要件があればご自由にお入りください」という掛札とともに、ドアベルが設置されている。本来ならわざわざドアをノックする必要はないのだが、最近はむしろ、来訪者がドアをノックしなかった事のほうが珍しい。つまるところ、敢えてドアをノックするような"決まりきった"来訪者が存在するわけであった。
『この国には、ウワサをすればなんとやらという格言のようなものがあるらしいが』
「ウワサをすれば影がさす、というやつですね」
『……なぜ、"影がさす"のであろうな?』
「さあ。由来までは知りませんよ。ボクも叔父から教わっただけですので」
トキヤはたいぎそうに立ち上がると、事務机の隅のほうにに畳んで置いてあった掛布を無造作に広げ、ソフィアの入れられた鳥籠に被せた。ソフィアは世間に晒すことができない存在である。これが普通の来訪者であれば、二階の私室やキッチンにでも鳥籠ごと隠してしまうところだが、トキヤには来訪者の正体がわかりきっていたので、万が一の自体を避けるために、布を被せる程度にとどめておいた。
「一応、本は閉じておいてくださいよ」
『布を被せたあとに言うではないわ、馬鹿者』
小さな手が布をかき分け、本を閉じようと必死な様子で蠢いている。
もっともなことだと思ったトキヤは、本を閉じてやってからエントランスへと向かった。
トキヤが扉に手をかけるとほぼ同時に、外から「いないの?」と女性の声が聞こえてきた。聞き覚えのある声である。トキヤはそれに「今、開けます」と返事をしてから、ゆっくりと扉を開いた。
「ごきげんよう」
扉の内側にトキヤの姿を認めた来訪者は、微笑を讃えてそう言った。
レイカ・アカギリ。大企業【赤桐】の正当な継承者である、正真正銘の貴種の女性だ。
本来ならまかり間違ってもこのような平民街を歩くべき人間ではないが、トキヤはついにそのことについて苦言を呈することをやめた。
理由は二つある。レイカの行動を制限することが出来そうにもないことと、彼女がトキヤの苦言をある程度受け入れ、護衛を連れ歩くようになったからだ。
レイカのとなりには、当然のようにその妹であるフウカが居る。ここ最近顔を合わせる機会が多くなり、やや警戒心が薄れてきたのか、あれほど遠巻きにされていた頃に比べ、彼女のトキヤに対する態度はだいぶ改善されているように思えた。視線を向けても怯えるようなことはなく、控えめな会釈が返ってきた。
その令嬢二人の背後には、背の高い極東人の男が控えている。トキヤは彼のことはよく知らない。レイカとフウカの護衛であるということと、「シノ」と呼ばれていることだけは、会話のさなかで察していた。
シノは極東人には珍しい百八十センチを越す大男であるが、巨漢という印象はない。どちらかと言えば痩躯であり、手足が長い。
貧相な体をしているのかと問われれば、そうでもない。特徴の無い厚手のコートの内側には、無駄なく鍛え上げられた肉体が隠されている。見た目で判断することは難しいが、トキヤにはひと目で察しがついていた。叔父が似たような体型の持ち主だからである。
なんらかの武道を修めていることは確かであった。通常の鍛え方では、まずそのような肉体にはならない。足音がまったくせず、気配も見た目の威圧感とは裏腹に稀薄であるので、その雰囲気は護衛というよりはお抱えの"仕事人"というような風情だが、護衛として申し分ない人材ではありそうなので、特別な口出しはするまでもないだろう。
予想通りの来訪者三人を順繰りに見渡したあとに挨拶を交わし、トキヤはすぐに全員を屋内へと迎え入れた。エントランスの扉を開けたまま立ち話をするべきではない。今日も今日とて、シュトには灰と煤が降り注いでいるのだから。
今後の更新予定は未定です。生存報告がてら、一話のみ。
現在の二章進捗状況は約四分の一ほどになります。これが二分の一程度になったら、普段通りのペースで公開していく予定ですので、もうしばらくお待ち下さい。




