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午前十時を知らせる重苦しい鐘の音と共に、トキヤ・カンザキの意識は覚醒した。
硬いベッドから身を起こせば、まどろみとは違った厚ぼったいモヤのような感覚が頭の上にのしかかっている。
「…………」
額に手をやり、うつむく。
――その「朝の憂鬱」とはどの程度の付き合いになるだろう。
朝に目覚めるとき、必ず。とてつもなく憂鬱な気分が体全体を支配し、何をする気にもなれなくなる。調子を取り戻すには五分か十分。ひどい時にはそれ以上の時間を要した。
別段、体に異常があるわけでもない。事実一度調子を取り戻すことさえできれば、まるで「朝の憂鬱」などなかったかのように振る舞うことができる。
原因は謎だった。ただ、寝ている間に何か想像もつかないような「体験」をしている気がした。
眠っている間の奇妙な体験。夢―― 悪夢か。
トキヤは毎度、重い頭に必死に血を巡らせて夢の内容を思い出そうとするのだが、あいにく何も思い出すことはなかった。そうして自分を苦しめる憂鬱のタネに思いを馳せている間に、大概調子はいつものそれに戻ってしまっている。結局答えが出ないまま、トキヤは日々の営みを開始するのだった。
※
「……そうだった。時計、取りに行かなければ」
図らずも新大陸風となってしまった珈琲を啜りながら、トキヤは呟いた。
本日はも事務所は開店休業状態で特に予定もないと思っていた。普段よりも遅い起床に慌てることもなく、ゆったりと余裕を持ってブランチの用意をし、食後の珈琲を愉しんでいるところだった。
時計仕掛式の陸橋が蒸気を吹き上げる音と機構のうなり声を上げたことをきっかけに、トキヤは現時刻を確認しようと時計の所在を探した。
つい先日までサイド・ボードの上に置かれていた小型の置き時計の姿はない。それを認めてようやく、トキヤは自分が何をすべきかを思い出した。
現在トキヤの住まうこの都市―― シュト市と呼ばれる極東の海岸線にに位置する街は、諸外国の文化流入を受けて急速発展した弊害により、ここ数十年で世界有数の【汚染都市】と化していた。
ねんがら上空を覆う濁った灰色の雲は太陽の光を隠し、灰と煤を絶え間なく降らせている。市街は昼夜問わず常に薄暗く、この街に住む限り時間の感覚はどんどん狂っていく。
そんな街に暮らすからこそ、時計は重要な意味を成す。特にトキヤのように信頼を売りにしているような職業に就く者にとっては、己の体内時計を矯正するためにも、時計は必要不可欠なものだ。
そんなトキヤが手持ちの時計をまとめて失ってしまったのには、数日前のちょっとした事件が影響している。結果だけを述べてしまえば、トキヤは所持していたふたつの時計―― 置き時計と懐中時計―― をいずれも自分の手で壊してしまっていた。
そのうち懐中時計は、開業祝いに叔父から譲り受けたものだ。大変値の張る貴重な逸品であるため、トキヤの手持ちの費用では修繕に出すことすらままならなかった。
本当なら持ち運びのできる懐中時計を優先したいところであったが、費用が足りないのではどうしようもない。かといって時計がないまま暮らすのも不便…… というわけで、比較的安価な置き時計の方をようやく修繕に出したのである。
それが三日前のことだ。
仕上がりは今日の午後十二時半。そう聞かされていたのをようやく思い出した。
(最近仕事が無いからって、ぼんやりしすぎているな。もっとしっかりしなければ)
トキヤの仕事は依頼人が居なければ成立しない。彼は叔父から『待つこともまた仕事なり』と教えられていたが、待ち続けることが仕事になるのは一流の腕を持つ連中だけの話だろうとも思っている。
事実、独立してから一年のトキヤの元には、依頼人はほとんどやってこない。なんとか口に糊する程度は稼げているものの、この生活が長く続くとはとうてい思えなかった。
ままならないものだ、とひとりごちつつ、朝食の後片付けを済ませる。
行儀悪く目の前に広げてあった本は、事務所さえ圧迫している大量の書架の一角に戻すことになった。……読書はいつでもできる。幸か不幸か、時間を取られるような予定はないのだし。
やることが決まればトキヤの行動は早い。クロゼットから取り出したロング・コートに袖を通すと、皮の手袋を着用する。タイで襟元を引き締めれば、やたらに露出の少ない外出時の決まりきった格好が出来上がった。
(危うく忘れるところだった。彼は時間にはうるさいからな)
早朝六時から夕方十八時まで、二時間おきに鳴りひびく鐘の音はまだ一度しか耳にしていなかったし、一日に数度決まった時間に貨物を通すために作動する陸橋の仕掛けが作動したことから、時刻は午前十一時三十五分を少し回ったころであると推測できた。今から向かえばちょうどいい頃合いに着くだろう。
最後に特別に誂えた少々無骨なイメージのする傘を手に、トキヤは煤烟る街へと繰り出していった。