第Ⅲ節/振り翳す奇跡の刃
翌日午前十時。
神田風飛は雛和篝と共に、指定の場所に来ていた。
本来ならば、一人で来るつもりだったが「これはケジメよ。お願い」と言う篝の懇願に折れ、危なくなったら篝は退くと言う条件付きで連れてきたのだ。
五歌は右腕を痛めているので流石に連れてこれなかった。
今、自分達がいる地点からは、サハラハの姿は見えない。
だが、ここには結界が張られている。
まず間違いなくサハラハはここにいるし、感知されている。
魔術師同士の《決闘》は清い。
お互いが合意したなら、余程の事でもない限り、すっぽかすことはまずない。
だから、一歩を踏み出す。
共闘者の顔を見ずに、一言も語り合わずに。
べつに、篝が自分を嫌がっているから、とかそう言う意味合いではなく、《これから決闘に向かう、覚悟は決めた》の体だ。
作戦は、ない。
ただ戦い、ただ勝つ。
負けはしない。負けられない。
何故なら、大切なモノを護るためにも、いなくなれない。
そしてまた一歩。
決意を胸に秘めながら、いざ決闘へ。
無論学校はすっぽかした。
篝は、元から登校拒否だったらしい。
そして、とうとう見えた。
「ようボロ雑巾、調子はどうだい?」
「まずまずと最高の間だ」
「……最悪よ」
「そうかそうか、死ぬ覚悟は出来てるんだろうなァ?」
「する必要がねえよ」
「珍しく同感よ、負けてボロ雑巾より汚い恰好で逃げ帰るのは貴方だもの」
剣呑な空気の中、意味のないやり取りが続く。
互いが勝利を確信(自分の場合は勝たなければならない)している。
故に、いくら話そうと無駄なのだ。
どちらも、今更退けない。いや、退かない。
「ま、話しても仕方ねェよなァ。貴様らもウズウズしてんだろ?戦いたくてよォ」
「しねえよ、出来るなら穏便がいい」
「嘘こけ、ま、いいけどな」
そうしてサハラハが姿勢を低くして構える。
さながら、獣のようでもあった。
そして、自分の隣では篝が右手を翳し、
「十五の力がいざ廻る(Fifteen force fire.ice.thunder.)!!」
あの光の爆弾が撃ち出される。
流石の十聖導師でもこれには驚――
「ケッ、しょっぺえしょっぺえ」
言うと、サハラハの足元から黒い何かが伸び、光の爆弾に絡みつき、押し潰した。
「な……!?」
そのまま黒い何かは伸び、篝の眼前へ。
「伏せろ!!」
「わかってるわよ!」
篝は横っ飛びをし、ゴロゴロと転がり丈の長い白い服を汚す。
それは、美しく可憐な彼女が、見た目を投げ打ってでも戦う。と言う大きな意志にも思えた。
だから、自分も死に物狂いで戦う。
戦って戦って、大切なものを護る。そう決めた。
一時的な相方は心配だが、今は気にせず疾駆する。
「剣の方舟(sword of ark)!!」
刹那、振り翳した(かざ)右手に仄かな光が灯り、数瞬後には剣が握られていた。
対して、サハラハの手中では黒と灰色が混沌とし、渦巻いている。
「オレ様の力を思い知れ、ボロ雑巾ヤロウ」
液状の、そう、《泥》のような黒が鞭状にしなり、蠢く(うごめ)。
両手で剣を握り直し、踏み込む。
「うおおおっ!!」
気合いの一振りは、空を切ってサハラハの身体を狙う。
「貴様、オレ様と《相性悪すぎるぜェ》じゃんけんで言やァチョキがグーに挑むようなモンだぜっとォ」
刀身に液状の黒がぬめりとぶつかる。
大丈夫、液状なら楽に斬――
《さらさらと散った》。
「え?」
散ったのは剣の刀身だった。
咄嗟に身を退いて体勢を立て直す。
まさか、ヤツの魔術は、《そう言う》魔術なのか?
予測する。篝の魔術を容易く押し潰した、剣を灰と化した、灰黒で液状の物質を生み出し使役するサハラハの魔術。
魔力への干渉、可能。
無生物へのダメージ、深刻、おそらくは無生物は灰と化す。
人体へのダメージ、不明。
これを踏まえ、作戦を練る。
無生物に圧倒的アドバンテージが取れる魔術。
自身の肉体を鍛えていたサハラハ。
そこから察するに、人体へのダメージは僅かな可能性が高い。
ならば、強行突破も一つの手だ。
あの俊敏性と量の上では篝はまず戦力にならないだろう。
なら、自分がやる他ない。
篝だって護りたい人だ。
だから、必ず。
「どうだ?ボロ雑巾ヤロウ。解ったな?圧倒的力の差ってヤツをよォ」
「ああ、理解した。でもな、負けられねえ理由があるんだよ」
「そうかい、ま、興味ねェからいいけどなァ」
「お前はどうして戦う」
「オレ様がテメェを《殺す》のに理由なんざねェ」
「ああ、そうか、なら行くぜ」
「来いよ、ボロ雑巾ヤロウ!!」
疾駆する。しかし今度は徒手空拳だ。
「さあ、ゴミはゴミらしく――」
サハラハの足元が蠢く。
――速く。もっと速く。
あと一〇メートル。
「――屑籠逝きだァッ!!」
黒い槍。液状かはたまた固形化したかは知らない。
だが、越える。越えねば始まらない。
次の踏み出しは真横。
ほぼ直角に方向転換。
そこから更に直角移動。
槍の横を素通りしていく。
「ぎッ……!?」
サハラハの胸に右手で掌底を打ち出した。
「はっ!?」
サハラハが大きく息を吐き出す。
これがいかなる武術かはサハラハには理解不能だろう。
更に、サミングの形になった指でサハラハの襟を掴み、距離を取る事を許さない。
「魔術師が殴り合いするかよッ!?」
「生憎俺はそう言う魔術師だ!!」
続けて左フック。右足を引き戻してからの右アッパー。更には右足の踵を使って顔面に回し蹴りをお見舞いしてやる。
「がぎゃァァァ!!?」
サハラハの身体が大きく吹き飛びピクピクと震えている。
よく失神しないものだ。と賞賛したいが、敵は十聖導師。まだまだこれからだろう。
「キ、サマ……」
サハラハがふらふらとした足取りで立ち上がりこちらを睨み付ける。
「どうしたよ、十聖導師サン」
今まで散々やってくれたお返しだ。と言わんばかりに挑発した。
「ボロ雑巾が、頭に乗るなァァァァァ!!」
案の定。キレた。
「いいぜェ、ああ侮っていた。予想外だよ神田風飛。貴様がここまでやる魔術師だったのはよォ。
だから、その力に敬意を評して、今までの前戯、廃工場と貴様の家の庭での襲撃について教えてやるよ」
廃工場。ルナを疑ってしまった一件。
ある程度の予測はついていたが、答え合わせをしてくれるのならこの上ない。
「まず、廃工場の方だが貴様にメールを送ったのは獅子道の旦那だ」
獅子道の旦那。つまりは、やはりルナの父親か。
「次に、鉄骨落としたのはそこの女だ」
サハラハが篝を指差す。
「私……」
「大丈夫、赦すさ」
篝は申し訳なさそうに黙り込んでしまった。
何故なら、次の実行犯も彼女で相違ないからだ。
「ま、貴様の家の庭の件は言うまでもないが……聞くか?」
「いや、いい」
「…………」
「大丈夫だって」
少しはマシになるか、と思い篝の頭を撫でてやる。
「……ふん、糞蟲、もし次やったら足先からシュレッダーに掛けて火山口に撒いてあげるわ」
「今回はいいんだな」
「そ、そうよ、思う存分ヤればいいじゃない」
「それじゃ、アイツをブッ飛ばしてくるぜ」
「いい?全力よ!全力!」
篝の綺麗な髪から手を離して再びサハラハを見据える。
「――じゃあ、本気出すわ」
そして、空気に罅が入ったかのような静寂。
「風が――風が、光が満ちる。足りる。一度の静寂は二度の喧騒を呼ぶ」
まずは事前準備。足元から上昇気流のように、だが弱々しく風が吹く。
「剣の方舟(sword of ark)――解」
刹那。億を超える真っ白な羽が大空を舞う。
これは羽。求める意志。
これは剣。戦いの意志。
これは光。輝く世界への希望。
故に、剣は羽に。羽は剣に。
――そして、剣は光に。
魔術には詠唱と言うものが存在する。
魔術のカタチを口で表し、自己暗示を掛け、発動速度や威力に補正を掛ける技術だ。
そして、長さにより簡易詠唱と主要詠唱に分類分けされる。
このどちらでもない詠唱もあるらしいが、自分の既知ではない。
いつも発している魔術名の詠唱は簡易詠唱だ。
そして、これから謡うのが主要詠唱だ。
「我が歩む道、人道の底。
灯り(ひかり)も何もないそこをひたすらに歩く。
意味の無い人生。
存在理由も何も無い。
魂の欠片さえそれを赦さない。
なら、この身はただ他を救う為だけに在る。
それは意味も無く救い続けた。」
「へェ、そこまで主要詠唱後の魔術に自信があるのかよォ」
返答はしない。
目の当たりにさせる。
「剣の方舟(sword of ark)――光(Ray)!!」
待っていた剣が、白く、そしてその力を溢れさせんとする波打つ光へと変貌した。
光は、剣の形を執る。
「な……にィ……?」
サハラハが身構え、その周囲にあの黒が再び現る。
「ならばオレ様も相応の力で迎え撃ってやろう――泥炭(charcoal)!!」
「炭……?」
「そう、オレ様の魔術は泥炭。無生物を灰にする魔術だ」
「なら光もか?」
「試してみろよ」
両者が身構え、睨み合う。
「全剣、掃射!!」
「溶かし穿てェェェ!!」
激しくぶつかる白と黒の波。
これは最早どちらが魔術師として上かの戦いだ。
「十五の力がいざ廻る(Fifteen force fast.fast.fast.)!!」
その時、一筋の光、凄まじい速度でサハラハに接近する光の弾丸。
流石のサハラハも、反応が間に合わず。
「ぎ!がァァァァァ!!キサマァァァァァ!!」
サハラハがくいと指を動かし泥炭の方向を篝に移す。
光とのぶつかり合いで大半が喪われていた。
そして、行き場を失った光は爆ぜて消える。
わかっていた筈だった。
泥炭は人体にほぼ攻撃力はない、と。
だが、勘が、単純な勘が働いた。
――それを篝に接触させるな。
無意識の内に走り出していた。
間に合うか、いや、間に合わせる。
――届く!
左手を伸ばした。
「あーあー、やっちまったなァ」
何をいつやってしまった。
大丈夫、何もおかしくはない。
きっと大丈夫。
どこも痛くはない。
痛くは、いた、い?
「う、そ……」
篝が目を丸くして、ペタンと座り込むのが見えた。
急激に、左腕の二の腕と、右脚の脹ら脛が熱くなる。
熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い!
「あ、がぁぁぁぁぁ!?」
悲鳴は他の誰のモノでもなく、自分のモノだった。
地面に惨めに叩き付けられた自分の身体を見やる。
――左腕の二の腕と、右脚の脹ら脛が、焼け、焦げ、溶けて、その下の白いモノが露見していた。
「ヒハハ、綺麗にイったな」
「あ……ああ」
軋む右脚に鞭を打って立ち上がる。
「貴様は侮ったな?ああ侮ったな。オレ様の魔術は、生物を溶かし焦がし穿つ魔術でもある。その傷じゃもう勝機はねェかなァ」
先程、大半の剣は使い切った。
再使用にはまだ時間が足りない。
何より、片手片足を動かす度に、気を失いそうになるほどの激痛が襲う。
「負けを認めて死ぬかァ?」
「ふ、ざけんな……」
手足からはボタボタと血が垂れている。
自分が倒れていた場所に血溜まりを作っていた。
最早、勝ち目は《一つしかない》。
震える手、今にも崩れ落ちそうな脚。
ならば、壊れる前に勝負を決めるしかない。
「う、ぁぁぁぁぁ!!」
一気に疾駆する。
愚行にしか見えないかもしれない。
馬鹿だと嘲笑われるかもしれない。
だが、勝機はここに、在る。
「バカがァッ!!幕を下ろしてやるぜェ!!」
再構築された泥炭が唸りを上げる。
頬や脇腹に掠りながらも必死に歩みを進める。
極力躱す。掠ってしまうのは仕方がない。
だが、直撃は避けなければならない。
「おぉぉぉぉぉ!!」
激痛に耐えながら全速力で走る。
「しぶといな!嫌いじゃねェ!!」
更に、泥炭が放たれる。
躱す。躱す。掠る。躱す。躱す。躱す。掠る。掠る。
そして、とうとう、サハラハが眼前に見えた。
が、脚も限界だった。
崩れ落ちた。
右腕を伸ばしたまま、前のめりに倒れている。
――身体の胸、特に《左側》そう、確か、心の臓が、在った――
そこに、無慈悲に熱さと衝撃が、達した。
「――――ぁ」
機能停止とは良く出来た言葉だなぁ。
†
「あ、そんな……嘘よ、嘘よ……」
尻餅をついて後退っていた彼女は、その動作にガタガタ震える、と言う動作を追加した。
震える唇、手、脚、身体、目尻――こころ。
彼の心臓の辺りを、太く黒い液状の泥炭が貫いていた。
血液が混じって黒から赤が滴っている。
だが、泥炭は止まらない。
――何故?
決まっている。
その先にまだ《殺す相手》がいるからだ。
眼前に迫り来た泥炭を見て恐怖する。
死にたくない。
「や……」
目を瞑り、歯を食い縛った。
――しかし、何秒経っても泥炭は到達しない。
恐る恐る目を開いた。
目の前には、美しい金の光が煌々と輝いていて――
泥炭はボロボロと崩れ去っていて――
彼が、彼が――――
†
本当にコンマ数秒の戦いだった。
あと数瞬遅れていたら死んでいた。
だが、正直これも賭けなのは違いない。
今、自分の手には《黄金の鞘》が握られている。
無論、鞘なのだから、剣は入っている。
だが、重要なのは《鞘そのもの》だ。
この鞘は、所有者のあらゆる傷を癒やし、あらゆる破損部位さえも再生する。
そう、心臓さえ。
そして、かなり高度な《神聖》を纏っているため、治癒中に付近の魔術は破戒される。
ここまでだと、万能にして無敵な装備だが、幾つかの制約がある。
一――所有者以外の傷は癒せない。
一――所有者が致死量のダメージを受けた瞬間または部位欠損をした瞬間にのみ治癒が行われる。
等だ。
正直、このシチュエーションには打って付けだ。
そして、その鞘の神聖によって、サハラハの魔術は破戒された。
今は無傷も同然。
つまり、チャンスは今しかない。
「貴様……何故……!?」
「奇跡さ、人の身では起こせない程のな」
間違った事は言っていない。
驚嘆しているサハラハを倒すために、その鞘に納まっていた《聖剣》を引き抜き、両手で握り、振り翳す。
鞘の豪奢さに比べて、その《聖剣》は、普通の剣よりも美しい、程でしかない。
刀身は黄金だが、鞘にの方が美しい。
やはり、《入れ物》と《中身》の違いだろう。
「まさか……まさかァッ!!」
「そうだ、そのまさかさ」
振り翳した剣が、周囲のありとあらゆる《光》を吸収し、黄金の光を纏っていく。
この《聖剣》が吸収する光は多種多様だ。
蛍光灯の人工光も、太陽の自然光も、果てはヒトの《こころの光》でさえ。
糧とし、力に変え、敵を討つ。
それこそがこの《聖剣》の力。
これは、いつか……王が振り翳していた最強の《聖剣》。
その名を、人はこう呼んだ――
「エクスカリバーァァァァァ!!!!」
纏った黄金の光を振り下ろす。
――サハラハの左腕に。
「ぎぃぁぁぁぁぁ!?」
サハラハの左腕は消え失せ、身体も後方に転げ飛ぶ。
溜めた希望の光を解き放った《聖剣・エクスカリバー》はフッと輝きを無くした。
舞い散る黄金の光の残滓の中、きっと勝敗は決着した。
だが、まだサハラハは立ち上がった。
「ひ、ひ……まさか、まさかなァ。スゲェよ神田風飛。認めてやるよ、貴様は強い、だがな、ここで退ける程オレ様も落ちぶれちゃいねェ!!
殺すなら殺せ!全力で迎え撃ってやる!」
サハラハは、左腕のあった場所に腕の形をした泥炭を纏いながら叫んだ。
「もし、《たまたま》あの一撃が左に逸れていたなら。
もし、《たまたま》あの一撃が最大出力でなかったなら。
お前はまだ戦うか?サハラハ」
人生最大のハッタリだった。
二撃目は、撃てない。
「おうともよ!強者に殺されるならばそれこそが誉れだ!貴様は強い!ならば尋常に決着は決するッ!」
マズい。その《決闘》の申し出こそは嬉しいものだが、勝機は薄い。
「いくぜェ?」
サハラハが右腕を振りかぶり、そして――
「――それまで。《魔道協会十聖導師の名》を以て、その戦いを禁ずる」
その嗄れた(しわが)主の見えない声が響いた瞬間、身体に凄まじい衝撃が伝わった。
だが、ダメージはほとんどない。
サハラハも同じようだ。
そして、更に言えば自分からは剣が、サハラハからは左腕の代わりとしていた泥炭が消えていた。
「邪魔するなァ!!ジジィッ!!」
「ふむ、それは出来ない相談だ、と言う奴だのう」
嗄れた声の通り、サハラハの言った「ジジィ」と言う言葉の通り、声の主は老人だった。
禿げた頭に灰色の髭を蓄えた大柄な老人。
それが声の主であり、戦いに終止符を打った人物であった。
「ジジィッ!!テメっ……」
サハラハの鳩尾にジジィと呼ばれた老人の手がめり込み、サハラハが倒れる。
「若い命が摘まれるのは目覚めが悪くなって仕方がない、故の行動だ」
老人はサハラハを担ぎ上げ、こちらに向き直ると続けた。
「いずれまた逢い見える(まみ)だろうが、それが双方にとって幸運な出逢いであれと願って、今回は退かせてもらう」
そう言って、老人は踵を返して去っていった。
「終わったな、篝」
後方で尻餅をついていた篝に手を差し出した。
が、篝はそれを掌で払い、自力で立ち上がる。
「…………」
何故か、篝はスカートをぎゅっと掴んで、微かに紅潮した頬で、
「あ、ありがと」
と一言だけ言って、そっぽを向いてしまった。
「どう致しまして、俺さ、《二カ所》寄る場所があるんだけど、一人で帰れるか?」
「大丈夫よ、馬鹿にしないでちょうだい、糞蟲のくせに」
篝はそう言って歩き去っていった。
自然と頬が緩んだ理由は、言うまでもない。
†
「すいませんでした!!俺が悪かったです!!
申し訳ありませんでした!!」
土下座。
もう完璧な土下座だ。
「お、おおう……」
珍しくルナがキョドっている。
なにしろ、チャイムを鳴らして出てきた瞬間に土下座をしたのだから仕方がない。
「もう何を言っても赦してもらえない気がするが、スマン!」
「む、むう……とりあえず、土下座は、ほら、皆が見ておるし、な?」
「いや、もうこれはこうする他ない」
「わ、わかった、赦す!
デート、今度デートをするなら赦す!」
「ほ、本当か?」
思わず顔を上げる。
そこに、大人っぽい赤と黒の布切れが。
「ほ、本当じゃ」
「そうか……」
ホッとして、立ち上がる。
ルナもホッと息を吐いていた。
「それより、私の方が謝らねばならん」
「え?」
「実は、その、サハラハが来るのは知っておった。
あ、勘違いするでないぞ?ただ、来ると知っておっただけじゃからな!?」
「そうか、まあ、謝る程じゃねえと思うぜ?」
「む、そうか」
ルナは口元に手を当てて考えるようにした後、
「まあ、今後も十聖導師は来るじゃろうが、次からは必ず助力しよう」
「それは助かるんだが、いいのか?」
「うむ、私は風飛が好きじゃからな」
「ん、そうか……」
言われすぎて慣れていた筈が、少し照れる。
「答えはいつでも受け付けてるからな?」
「お、応」
気恥ずかしくなって頬を掻いた。
「風飛はこれからどうするんじゃ?」
「そうだな、ちょっと報告に行ってくる」
「そうか、久しぶりに水入らずでゆっくり話すとよい。では、待たな、風飛」
「応、朝飯食いに来いよ?」
「無論じゃ」
振り向かず、大きく右手を振ってルナの家を立ち去った。
†
私立白菊学園の理事長室の前に風飛はいた。
「失礼します」
コンコンと扉をノックする。
「どうぞ〜」
聞き慣れた懐かしい声が応答をしてくれた。
扉を開けて中に入る。
理事長室の中は、西洋的で豪奢な飾りや、高そうな絨毯、鹿の頭部的な飾り(鹿が可哀想だから作り物らしい)などの正に豪勢な部屋だ。
「久しぶり、元気だった?」
相手の女性――金髪で美人な理事長が嬉しそうに問い掛けてくる。
「まあ、色々あったな」
豪華なソファーに座って答えた。
「十聖導師、来たのね」
「ああ、今回はなんとか退けられた」
「さっすが風飛、信じてたわ〜」
ニコニコと、陽気に理事長が答える。
「あのな、ヤバかったんだぞ?そっちで調べとか付かなかったのか?」
「付かなかったわねん」
即答ですか。まあ仕方ないか。
「体育祭とか近いからさ、学園に被害とかないようにしねえとさ」
「そうねん、考えておくわ」
そう言って理事長は立ち上がり、
「さて、と」
「どうした?」
下品にも書類の乗った机を踏み台に大ジャンプして抱き付いてくる。
「お、おわっと!?」
「風飛〜、私寂しかった〜ん。全然逢いに来てくれないんだも〜ん」
「い、いや、だからってこれは……」
さっきから理事長の胸やら何やらがぎゅうぎゅう押し付けられている。
「だって〜、愛する《息子》だもーん」
「だから、スキンシップの度合いがヤバいって、《母さん》」
そう、この人――白菊学園理事長の神田エリーは、自分の母親です。
若々しい見た目に若々しい中身、まあ、よく姉弟に間違えられた記憶がある。
「風飛〜愛してる〜」
「あ、愛してるってちょっ、まっ!?」
親子のスキンシップとは、大変なものですね。
――それでも、大切な家族に変わりはないが。
†
風飛は家の縁側で夕暮れる空を見上げていた。
美しい色彩に染まる空、とても綺麗で、届かないモノなのだと思う。
だが、人は空を目指す。
それが、希望であり絶望である。
剣の方舟(sword of ark)の羽は、自分のソレだ。
ああ、届かない。
でも、届きかける。
いつか、この手で空と言う夢に――