第Ⅱ節/温かい温もりが、すぐ側に
昨夜の襲撃の後、気を引き締め、二度目があるかもしれないと夜通し待ち構えていたがまったくなかった。
眠い目を擦りながら風飛は弁当の仕上げに掛かる。
先程欠伸を三連発した事から、かなり睡眠不足なようだ。
――これは授業中に寝るな。
確固たる確信を持ってそう思えた。
さすがに昼間や一目のある場所での襲撃は無いだろうから、安心して眠れる。
他に問題あるだろ。と言う意見は却下。
眠いんだから仕方がない。
こういう青年が将来社会をダメにするんだろうな……
何故か朝から自傷気味な思考を振り切って作業を続け、弁当箱におかずを詰めた。
それから暫くして、朝日、麗奈がやってきて、珍しく三人での食事になった。
「ルナさん体調悪いんですかね……」
怪訝そうに麗奈が顔を顰める。
「わかんないけど、ルナなら大丈夫だろ」
「大丈夫じゃないと困りますよ」
「ん、まあそうだな」
朝のニュースを見ながら、箸を進める。
本日の運勢。天気予報。可愛い子犬特集、とかであまり気になる内容は無かった。
と言うか、子犬本当に可愛いな。――――猫派だが。
画面には白くてもふもふしたちっこい犬が映っている。
朝日が先程から黙っているのは目を輝かせ、涎を垂らしそうになりながらもふもふしているシーンを想像……いや妄想しているのだろう。
「朝日、涎」
「はぅっ……」
朝日はいそいそとティッシュで涎を拭う。
「ったく、仕方ねえヤツだな」
「えへへ〜」
三人共笑っていた。
そうして、一人欠けた朝は過ぎていくのだった。
†
学校に辿り着き、下駄箱で靴を履き替えていた。
「おはよう神田、瀬良」
「応」
「おはようございます」
道行く同学年の生徒が声をかけてきた。
名字呼びは余所余所しくてあまり好きではないのだが仕方あるまい。
結月だって名字呼びだし。
その時、すっと、銀色が目の前を過ぎ去った。
「ルナ、さん……?」
麗奈が徐に口を開いた。
「おはよう、麗奈、風飛。すまない、今日は行けんかった。暫く朝は行けないかもしれん」
「お、応。そうか」
待っているのだ。
ルナは、自分が謝罪するのを待っているのだ。
「では、またな」
ルナはつかつかと歩み去っていった。
「ふうくん、ルナさんと喧嘩でもしたの?」
「ん、ああ、いや、ちょっとごたごたしててな」
「そうなんだ……何かあったら話してね?」
「ああ、わかってる」
そんな会話を交わしながら、二人で教室を目指す。
麗奈を《こちら側》の問題に巻き込みたくはないから話すワケにはいかない。
麗奈や朝日、結月達には絶対に秘密にしなければいけない。
大切な、護りたいモノを自ら危険に晒すようなものだ。
†
授業は丸々睡眠時間に費やした。
途中、教師に小突かれたりはしたが、眠りまくれた筈だ。
目覚めはスッキリとはしていないが、次第にいつもの調子が戻ってきた。
「風飛、今日ずっと寝てたな」
「眠かったからなぁ」
自分はともかく、愛樹も同じ方向、つまりは二人で狭霧町へ向かっている。
「愛樹は何でこっちなんだ?」
「ちょっと病院に見舞いにな」
愛樹は照れ臭そうに頬を掻いている。
「うん?もしかして愛樹、彼女とか出来たのか?」
羨ましいヤツめ〜、と肘で愛樹をつつく。
「そ、そんなんじゃねえっての」
愛樹は照れながら応答した。
「で、実際誰なんだ?」
「ん、大分前に風邪引いた時に逢った子なんだ」
「へぇ、で、惚れたと」
「な、何言ってんだ!?」
愛樹は明らかに挙動不審、大当たりのようだ。
「ま、今度紹介しろよ?」
「ん、ああ。じゃ、俺はここで、またな!」
愛樹は駆け足で去っていった。
「うーむ、アイツの事だ、金髪巨乳かもしれん」
長い付き合いだ。愛樹の好みはわかっている。
「さて、バイト頑張るかね!」
気を引き締めて、バイトに向かった。
†
バイトが終わり、休憩室で五歌の淹れてくれた紅茶を戴き休憩していた。
「五歌、いつもありがとな」
「お礼などよいのでございますよ〜」
ニコニコと可愛らしく微笑む五歌を見ているとこちらも自然と笑顔になる。
おそらく今夜もあるであろう夜襲の前にリラックス出来る、ような感じだろうか。
「ん?」
「どうなさいました?」
「いや、エプロンがちっと破けてる、って言うか、切れてるぜ?」
「ありゃりゃ、いつこんな有り様になったのでございましょうか」
五歌の着けているメイドさん御用達エプロンは、僅かだが《刃物で切られた》ような痕があった。
五歌はその痕を怪訝そうに見つめていた。
「ゴミ捨ての時に硝子片のようなもので切ったのでございましょうか……」
うーん、と唸りながら五歌は思案しているようだった。
「五歌、紅茶はまだかしら?」
その時、篝が休憩室の入り口からひょこっと顔を出した。
「あら糞蟲、相変わらず汚いわね」
「どこがだよ」
「全てよ」
「即答ですか!?」
おそらくはどこがだよ、のだぐらいから言っていたな。
「お二人は仲がよいのでございますね」
「「どこが」」
まさしく阿吽の呼吸。
ハモリにハモった。
「声を揃えないでくれるかしら、私の品格が疑われるわ」
「酷すぎるいいようだな」
「まあまあ風飛さん、篝さんはそこまで悪い御方ではないのでございますよ?」
「余計な事を言わないでくれるかしら」
篝はつかつかと五歌のそばに歩いてくると、その頬をむにーんと引っ張った。
「い、いひゃ、いひゃいのれごらいまふ〜」
「お仕置きだから当然よ」
可愛いお仕置きなのだが、地味にめちゃくちゃ痛そうだ。
「五歌、理解したかしら?」
「は、はひ〜」
五歌がふるふると首を縦に振り首肯する。
すると、篝は意外にすんなり頬を離した。
最後に一捻り入れてくると思ったのだが。
「はぅぅ……」
五歌は涙目で、赤くなった頬を優しくさすっている。
「あら?糞蟲、何を視ているのかしら、視姦しないでくれるかしら?」
「してねえ!!」
渾身のツッコミを入れるが、それも煙たそうにあしらわれる。
「さて、糞蟲は放っておいてお茶にしま――」
「篝さん?」
篝は一点を凝視していた。
テーブルに置かれているティーセットだ。
「私をほっぽってこんな糞蟲の紅茶を淹れていた、と」
「こんなではないのでございます、風飛さんは大切な御方でございますよ」
「そう、なら私もここに呼ぶなりすればいいじゃない」
膨れた篝はソファーに不貞不貞しく座り、さも不機嫌そうに言った。
「ああ、なんか悪い」
「当然よ糞蟲、貴方以外誰が悪いのか知りたいところだわ」
(もうちょっと愛想良く出来ないのかね)
などと思うが言わない。いや、言えない。
言った瞬間に殴られそうなので。
「早く」
「は、はい〜」
五歌は目にも留まらぬ速さでズダダダダダとティーセットを持って駆けていった。
「…………」
「…………」
――――気まずい。
話題なんて持ち合わせていないし、このまま何も話さないのも気まずい。
いや、そもそも篝は自分と話す気がないからかもしれない。
「空気が腐敗してるわね」
――そうでもなかったようだ。
「何故だ!?」
「糞蟲が呼吸と言うなの環境汚染をしているからよ。汚い」
「それは最早地球の敵だ!!」
「そうよ、撲滅すべきよ。汚い」
「その語尾は固定なのか!?」
「汚い唾を吐き散らさないで、テーブルが溶けるわよ?」
「強酸性!?」
ダメだ。疲れる。
喋っているだけでツッコミが止まらない。
多分、これ以上ないぐらい受けない漫才コンビになれるだろう。
本気で罵倒し、本能でツッコミを入れているのだから。
「それにしても、どうしてそんなに汚いのかしら?」
「いやいや、清潔なつもりですが!?」
「ゴミ捨て場にいたらカムフラージュの達人になれるわね」
「なりたかねえよ!!」
「ごめんなさい……」
「へ?」
妙に申し訳なさそうにしている。が、本気で謝っている……?
「ゴミ捨て場のゴミに失礼だったわね」
「うおおおい!!」
完全に人を罵倒する事しか考えていない。
間違いなく最近出逢った人間で最も疲れる。
「だから、汚いから憤らないでちょうだい」
「お前の所為だろ!?」
「糞蟲の分際で人の所為にしないでくれるかしら」
「俺は人間だ!」
「うわ……紫色の液体が……」
「出てねえよ!」
「だから、あまり叫ばないで」
人間として見られていない気がする。
――いや、糞蟲確かだったか。
「遅いわね五歌……いつまで私をこんな糞蟲・オブ・糞蟲と同じ空間に二人切りで置いておく気かしら……陵辱されたらどうするのよ……」
「俺はそこまで信用ないか!?」
「ないわね」
「ないのか……」
「落ち込む姿もまた気持ち悪いわね」
「もうイジメだろ!?」
ここまで止め処なくバリエーション豊富に人間を罵倒出来る吃驚仰天人間がいたとは、まさしく想像を絶していた。
「遅れて申し訳ございませんでした〜」
五歌がティーセットを抱えてとてとてと走ってくる。
「遅いわよ、おかげで糞蟲に視姦され続けたわ」
「したのでございますか?」
「してねえよ!!」
五歌は慣れた手付きでティーカップに紅茶を注ぎ、篝に差し出した。
「風飛さん、お代わりいかがでございますか?」
「うーん、貰うわ」
そして今度は空いたティーカップに紅茶を注ぎ入れる。
「五歌、砂糖」
「あ、只今〜」
五歌はさっとエプロンのポケットから角砂糖の入った瓶を取り出し、ティースプーンで一つ、二つと掬って篝の紅茶に入れられ、ポチャンと言う音が立った。
「風飛さんはストレート派でございましたよね?」
「ああ、必要な時は言うから」
砂糖やミルクが必要、と言うのもおかしな話だが。
「五歌は飲まないのか?」
「私はメイドでございますから〜」
メイドは紅茶飲まないのか、なんて解釈はしないが。
多分配給する側が配給される側の前で休憩するのは無礼、とかそんな感じだろう。
気にせず休めばいいのに。
「五歌、偶には休んでもいいんじゃないか?」
「駄目でございますよ。私は年中無休二十四時間体制メイドなのでございますから」
「なんだそのシフトに穴無し的発言は」
「その発言の意味が解せないわ。流石は糞蟲」
成る程。何を言っても糞蟲で固定らしい。
何とかマトモに呼んでもらえないモノか。
「まあとにかく、偶には休んだ方がいいぜ?」
「そうでございますね。偶には、休養を取ります、その内」
その内、は大抵やらないで終わるのだが、これ以上他人がとやかく言っても仕方がない。
「そろそろお暇するわ。またな五歌――と篝」
「またでございます〜」
「次は貴方の墓での対面を願っているわ」
「対面じゃねえ!?」
「墓石蹴ってあげるわ」
「無礼にも程がある!!」
その後、帰る時間が少し延期されたのは言うまでもない。
†
その日の深夜。
やはり夜襲はあった。
昨夜の闇色のコートだった。
その右手にはやはり大鎌。
そして左手にはサブマシンガン。
「なあ、あんたに訊きたい事があるんだ」
「…………」
やはり、応えない。
大鎌がゆっくりと持ち上げられる。
「やっぱりダメ、か……」
こちらも剣を構える。
戦い方は前回と同じ方法をして様子を見るとしよう。
ジリジリとお互いにじり寄る。
その距離は僅かだが、次第に距離は詰まり――――
高らかな銃声と共に発砲。
姿勢を低くし、闇色のコートの周りを円を描くように走る。
並みの運動神経では捉えられてぶち抜かれる。
だが、自分に関してはそんな心配は微塵もなかった。
足元や首の後ろなどを弾丸が通り過ぎていく。
庭が広くてよかった。と久しぶりに思った。
後片付けが大変な事に違いはないが。
後は、弾丸が家に被害を与えないように動かなければ。
そして弾切れ。
空かさず突撃し一撃をくれてやる――!
が、それはサブマシンガンに弾かれ、首元に鎌が迫る。
――が、予想通り。
スライディングでそれを躱し更に接近する。
「っ…………!!」
驚愕は闇色のコートのものだ。
そして、そのコートを切り裂く一撃を放った。
「な……に?」
「……ごめんなさいなのでございます」
闇色のコートの下は、《メイド服》だった。
「《五歌、お前がどうしてそれを着てここにいる》」
「それは……」
「大丈夫だ、信じてるよ」
ルナにも、こう言えていれば……
すると、五歌は何かを諦めたかのようにふうと息を吐いて、
「風飛さん、私は、魔術に関する組織の一つのメンバーなのでございます」
「協会ではないんだな?」
「はい。そして、協会に悟られてはならぬ存在なのでございます」
「どんな組織だ?」
「貴方の《お師匠様》がおるのでございます。……これで解るでございますよね?」
「《師匠》か……そうだな、信憑性が増したし、何がしてえのかも解った」
師匠――魔術と言うよりは、戦い方の先生だった人生で二人目の師匠のことだろう。今もどこかで飲んだくれているに違いない。
「じゃあ、味方なんだな?」
「はい、私は風飛さんの味方でございます。夜襲をしたのは、今の風飛さんの実力を見て来い、との話でございまして」
「成る程な」
五歌は鉄骨の件とは無関係だろう。
なら状況は変わらない。
「状況進歩せず。だな」
「もしや、今竜胆に来ている《協会の使い》の事でございますか?」
「何か知ってるのか?」
「私が知っているのは、《魔女狩り》を執行する者……つまりは《十聖導師》が来ている、と言う事だけでございます」
「最悪の状況だな……」
魔道協会極刑執行部・十聖導師。
彼らは魔道協会に刃向かうと言う大罪を犯した者達。
十人で構成されたそれは、魔道協会長を除けば、上から十人。
つまりは、自分は魔道協会内で最強に近しき者を相手にしなければならない。
それだけではない。
魔女狩りは、つまり、神田一家を襲撃し、滅ぼし、親父を――殺した。
神田一家の生き残りたる自分も滅ぼさんと言うことだろう。
「風飛さん、私も極力助力致します。だから、どうかご無事であってほしいのでございます」
「ああ……」
嘘偽りなど間違いなくない。
真摯で、真っ直ぐにこちらを見つめている瞳が揺らいだ。
ああ、《護りたい》。
絶対に手放してはいけない、そう、絶対に。
だから、自分がいなくなるのもいけない。
だから、必ず、十聖導師を追い返す。
「絶対に大丈夫だ。俺は、負けたりしねえよ」
「はい、信じております。私は、風飛さんを、お慕いしているのでございますから」
「お、応」
お慕いとして一瞬どきっとする。
……そんな訳がないのに。
その時、涼やかな鈴の音のような声が響く。
「これも何かの運命ね。私が幕を引けるなんて」
そこにいたのは紛れもなく――
「おいおい、こんなのアリか?」
「なしでございます。《篝さんがここにいる》理由はお察し出来ますが、今は私も風飛さんの味方でございますよ」
威圧するような、しかしまだ猶予を与えるような、そんな声で五歌は静かに語り掛けた。――篝に。
「まあいいわ、殺らなきゃ私が殺られる。だから貴方を殺す。理に適っているでしょう?」
篝はそれに合わせてさっと右腕を上げる。
二対一、まして二人とも前衛タイプなのに華奢で儚げなそれで何が出来ると言うのか。
――答えは考えるまでもなく、一つだった。
「十五の力がいざ廻る(Fifteen force fire.ice.thunder.)」
翳された(かざ)篝の手から煌々と輝く魔法陣が十五重に展開される。
色は、赤、青、緑、など様々だ。
内側から順々にバチバチと火花を散らし、光の玉のような何かが魔法陣を通過していく。
光の玉が魔法陣を一つ通過する度にどんどん大きさと纏った色が変化し、四つ目からは火を纏い、九つ目からは氷を纏い、十三つ目からは雷を纏った。
光の玉――いや、光の爆弾は地面を抉り取りながら突き進む。こちらへと。
「な……!?」
それは、予想を遥かに超える魔術だった。
魔法陣の十五重展開など十聖導師でも、協会長でも不可能かもしれないからだ。
「ここは私にお任せくださいませ」
光の爆弾に五歌が大鎌を振り下ろした。
ガギィィィンと、激しい轟音。まるで、金属の鋸が金属の板を削るような、音。
五歌は押されながら、腕を震わせながらも呟いた。
「我、破却する。故に祖に帰られよ!!」
その刹那、光の爆弾が割れるように消滅する。
おそらく、純銀の大鎌と、聖言の詠唱による魔の破戒。
聖言とは、聖人に伝わる魔を破戒する呪文。
言わば、発動した魔術の魔力を消滅させて無力化させる感じだ。
五歌がさあ行けと言わんばかりに首を振って指し示す。
それに合わせて首を振り駆け出す。
「っ……!!」
篝がたじろいだ瞬間、一気に疾駆し距離を詰める。
「十五の力がいざ廻る(Fifteen force wind.slash.fire.)!!」
再び篝が詠唱をした。
思わず立ち止まり、右に飛び退く。
五歌には悪いがもう一度任せる事にしよう。
「ま、またでございますか!?我、破却する。故に祖に帰られよ!!」
また、十五重の光の爆弾は砕け散った。
だが、五歌は無傷、とはいかないようだ。
右腕を左手で押さえている。
ひょっとしたら折れているかもしれない。
長期戦は間違いなくマズい。
「五歌、後何発いける?」
「数発でございます。できるだけ少ない方がよいのでございますが……」
「そうか、なら、できるだけ早く決める。それまで、頼む」
「話は纏まったようね」
そして再び篝がその手を翳し、
「十五の力がいざ廻る(Fifteen force blast.slash.fire.)!!」
再び光の爆弾が唸りをあげる。
そちらは五歌に任せてとにかく疾駆し距離を詰める。
「十五の力がいざ廻る(Fifteen force clash.slash.break.)!!」
更に一撃を躱し疾駆。
その距離はもう射程内だ。
「っ……」
篝が悔しげに目を閉じた。
千載一遇のチャンスだ。
今手に握った剣を振り下ろせばこの戦いは終わる。
だが、風飛は剣を羽へ還した。
《振り下ろす意味などない》。
自分の右腕を伸ばし、篝の左腕を掴み引き寄せる。
「え……?」
「お前は自分の意志でこんな事したのか?」
「は、離しなさい!汚い!汚い!汚いぃぃ!!」
「苦手なんだろ?男が」
薄々感づいていた。
篝は目尻に僅かな涙を浮かべている。
「そうよ!苦手よ!!だから離して……離してください……」
ペタンと左腕を握られたまま篝は尻餅をついた。
「大丈夫だ、絶対大丈夫だ。協会の十聖導師にそのネタで使われたんだろ?」
「ひ……そうです。すいません、何でもします。だから、だから、離してぇぇぇ!!!」
朝日が目を覚まさないか心配になる程に大きく、悲痛な叫び。
「赦して……赦して……」
篝はガタガタと身体を震わせて、懇願するように、呟き続ける。
「《赦すさ、だから俺を信じろ》」
そして、篝を抱き締めた。
自分でもどうしてそうしたのか不思議で仕方がなかった。
でも、《救ってあげたい》。
あるのは、ただ、それだけだった。
「あ……あぁ……」
温かい。今自分を包んでいるのは、人の、優しい人の温もり。
泣いてしまった。
今自分を包んでいるのは、大嫌いな、糞蟲と罵った男なのに。
でも、何か違う。
自分を虐待した叔父とも、何も知らない父とも、自分の見た目だけを見て媚び諂う(へつら)無能な男共とも。
ああ、《本当に自分を》心配してくれているんだ。
彼は中身を見て、それがどんなモノであろうと優しく包む。
彼は入れ物で、自分は中身なのだ。
嬉しい。初めての感覚。
初めての温もり。
初めての安心感。
初めての――――
――――昂ぶり。
これが何なのか、分からなかった。
「大丈夫か?」
抱き締めていた篝に問いた。
「ええ……もう、大丈夫よ。貴方は畏れる程の糞蟲でないとわかったもの」
微かに赤くなった目と頬が見えた。
「泣かせちまったか?」
「ええ、あまりの気持ち悪さに不覚にも」
「ったく、仕方ねえな」
篝を離し、微笑んだ。
「もう大丈夫だ、十聖導師のヤツに脅されても俺が護ってやる、俺が救ってやる」
「……そう、要はパシりね」
「いや、違うだろ」
「いいわ、護られて、救われてあげる。――その後見事晴れやかに死んでもらうけど」
「死ぬのか!?」
「そうよ」
そうだ、一番重要な事を訊かねばならない。
「なあ、お前を使ったのはどんなヤツだ?」
「そうね、糞蟲を体現したような男よ。詳しく言えば――」
「こーんな、ヤツだよなァ?」
「な……!?」
一同が聞き覚えのない声に振り返る。
いや、篝にはあるのか。
袖をワイルドに破きタンクトップのようになったカーキ色のサファリジャケット(肩章にはパンクな髑髏が描かれている)を着ている男が塀に立っていた。
サファリジャケットの前面はサファリジャケットであるにも関わらず開けっぴろげになっており、ベルトがぶらぶらと揺れている。
ズボンは迷彩柄のジーンズを履いている。
肌は蒼白く、長身痩躯だが、鍛え抜かれた本物の筋肉が見えていた。
くすんだ黒い双眸がギラギラとこちらを睨みつけている。
「しょっぺェ三文劇だったぜェ」
「テメェが十聖導師だな」
「そうさ、オレ様が、貴様らのようなボロ雑巾とは格の違う、十聖導師だ」
長身痩躯の男は親指を立てて自分を指差した。
「名はサハラは・バンギ。神田風飛、貴様に《正式》に決闘を申し込んでやるよ」
「なに……?」
「場所は狭霧町の今度ビルが建つ空き地。時間はそうだな……明日の午前十時でどうだ?」
コクリと頷いた。
少なくともここで決闘を行うよりはマシだろう。
「貴様が勝ったらオレ様はおとなしく退散する。オレ様が勝ったら――」
誰もが息を呑んだだろう。
サハラハを除いて。
そして、続けた。
「死ね。神田風飛」
サハラハはケタケタと薄気味悪く笑うと「すっぽかしたら場所も時間も関係なく殺すッ!!」と言い残して去っていった。
ただただ立ち尽くす。
――あまりの威圧感に何もできなかった。