8話
マリアと別れてから、いつも利用している宿屋に向かって商店街を歩いた。
地下迷宮に入って安全地帯で魔法の小屋で休むことも考えたが、誰も居ない部屋に戻りたくなかった。
マリアのことを考えながら歩いた。目の前にマリアの笑顔がちらついている。何気に神聖協会のネットワークでマリアの情報を検索した。
マリア・エーデルワイズ、ハイエルフ族、女性、367歳、エルフ族の聖地オフェーリア出身、魔術師学院の名誉顧問、特級魔術師の資格、…………。
マリア自身は論文を出していないようだが、魔術師学院のデータベースに協力者にマリアの名前が入った論文がいくつも見つかった。遺跡や古代文明に関する論文が多い。
どの情報もマリアが提案した内容を裏付けており、今のところは騙された兆候は全く無いが、マリアを信じたいと思う気持ちが大きく膨れ上がっていることに気づいた。
「アリス」
「はい。マスター」
「魅了の魔法を掛けられたり、あるいは、俺の意識が操作されたような痕跡はないか?」
「査定します。…………魅了の魔法の形跡も、意識を操作された痕跡もありません」
「俺がマリアに魅了の魔法に掛けられる可能性はどれぐらいあるんだ?」
「殆どありません。マリアさんはマスターの抵抗力を上回る強制力を持っていません。私が外部からの影響を遮断しますので、マスターが他人に意識を操作される可能性はありません」
「俺の意識を操作したり、魅了の魔法を掛けたりされる可能性はあるのか?」
「0ではありませんが、極めて低いでしょう。マスタの抵抗力を上回るほどの強制力を持つ者は殆ど存在していないと思われます」
アリスが断言するのならマリアが俺に魅了の魔法を掛けた訳ではないのだろう。しかし、今の俺は普段の自分ではないと思う。アリスに不審な点があれば警告するように命令しておいた。
赤白の派手な両開きの開戸を開けて中に入ると、カウンターの奥にシャム猫の顔をしたトントンが座っていた。
「トントン、こんにちは」
「こんにちは、リオンさん」
「個室は空いている?」
「空いているにゃ」
「一晩で頼むよ」
俺は、財布から7シルクを取り出して、カウンターに置いた。
トントンは銀貨をしまってから、カウンターの下から鍵を取り出して立ち上がった。
「案内はいいよ。鍵を渡してくれ」
「まいど、ありがとうにゃ、部屋の番号は203だにゃ」
トントンが鍵を差し出したので、俺は鍵を受け取って、2階に上がった。
「ふぅー!」
カウンター席で夕食を食べ終えて、ビールを飲んで溜息をついた。
マリアの依頼を安易に引き受けても良かったのだろうかと、いつもまでも、グチグチと考え込んでいた。
「あら、リオンちゃん。恋をした顔をしてるわよ。何なら相談に乗ろうか?」
再び、ビールをあおって盛大な溜息をついた所でラーニャに話しかけられた。
隣を振り向くとラーニャが嬉しそうな顔で見ていた。
最初はどんな表情をしているのか良く分からなかったが、今なら、鼻にしわを寄せて目じりが下がっているので、人間に例えれば、にやついた顔つきをしていることが分かる。
「ラーニャさん。こんばんは。仕事は良いの?」
「えぇ、大丈夫よ。リオンちゃんの話を聞かなきゃ、仕事にならないもの」
「僕の話ですか? 何も無いですよ」
「あらあら、隠そうとしても駄目よ。今のリオンちゃんは人間族の男性が恋をした状態にしか見えないわよ。リオンちゃんの相手はどんな女性なのか、とっても興味があるわ。
どんな人なのか、詳しく話しなさい。勿論、誰にも言わないわよ。
まぁ、夫と家族は別だけどね。
話をするだけでも、随分と楽になるそうじゃない。私なら種族が違うから恥ずかしくないでしょう」
今までの長い人生で、初めての経験がないので分からないのだが、俺はマリアに恋をしたのだろうか?
つまり、一目惚れと言うやつなのかもしれないが、しかし、これが一目惚れだとするなら、考えを改めなくてはいけない。
一目惚れがこんなに強烈なものだとは予想外だ。
しかし、60にもなって一目惚れとは、我ながら情け無いと言うか、恥ずかしいと言うか、なんとも複雑な気分だ。
たぶん、理想的な美女が気になっているだけで、時間が経てば気にならなくなるはずだ。
「別に恋をした訳では無いよ。ちょっと気になる女性に会っただけだよ」
「うふふ……。ちょっと気なる女性と言うところが、恋をした証拠ね。
それで、どんな女性なの?」
ラーニャが完全に話しを聞く体勢になった。ある程度は話さないと解放して貰えないだろう。
「恋じゃないよ。これでも冒険者だからね。護衛に仕事を依頼されただけさ。
相手はハイエルフ族の女性だよ。
黒髪に魅力的な黒目をした女性さ。見た目は若いけど僕よりも遥かに年上だよ」
「あら、ハイエルフの女性とは、流石はリオンちゃんね。
エルフ族でさえも人間族がものにするのは難しいらしいし、ハイエルフの女性となると絶望的かもしれないわね。
でも、リオンちゃんならきっと大丈夫よ。リオンちゃんはエルフ族のような人間離れした顔をしているもの。
そうねぇ、…………とにかく、諦めたらだめよ。押して、押して、押しまくって、例え、嫌がられても、食らいついて離さない根性が必要よ。
足で蹴られても、諦めないで抱きつくのよ。男は誰だって女性に抱きつかれたら喜ぶのよ。本心では喜んでいるはずだわ。
少なくとも、私は根性で、オルモンドをものにしたわ」
最初からラーニャに期待していなかったが、いつの間にやらラーニャの惚気話になっている。女性なら大丈夫でも、男性が無理やり抱きついたら犯罪だ。
「オルモンドさんが足で蹴ったんですか? とてもそんな風には見えませんよ」
「そうなのよ。私のために無理したのよ。
私って人間族で言えば、王族の血筋でね。
オルモンドったら、私では身分が違いすぎるからと心を鬼にして私を嫌っている素振りをしたのよ、でも、ちゃんと私には分かっていたわ。オルモンドは私のことを愛しているってね。
それで、私の方から積極的に抱きついてあげたの。それはもう。死ぬ気でがんばったわ」
ラーニャは嬉しそうな顔をした。
「それは、随分と苦労したんですね。仲が良くてお似合いの夫婦だと思ってましたが、そんな裏があったんですか?」
「お似合いの夫婦だなんて、嬉しいことを言うわね」
ラーニャがパンと俺の肩を叩いて嬉しがった。
「あらやだ。リオンちゃんの相談に乗ってたのに、私のことばかり話しちゃったわね。
とにかく、死ぬ気でがんばれば、絶対になんとかなるから、リオンちゃんもがんばってね」
「はい。ありがとうございます。とても参考になりました。ラーニャさんのような夫婦になれるように死ぬ気でがんばります」
「うふふ……。私達のような夫婦だなんて、リオンちゃんは褒めるのが上手だわ。
その調子で相手を褒めれば、きっとものになるわ。例えハイエルフでも、リオンちゃんならなんとかしそうね。
応援してるからがんばってね」
ラーニャが再び俺の肩をパンパンと叩いてから、立ち上がり、俺が食べ終えた食器を積み上げて厨房へ運んだ。
有効なアドバイスは何も得られなかったが、それでも随分と気持ちが晴れた。
俺は残ったビールを飲み干して部屋に戻った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌朝、マリアと約束した乗合馬車の発着所へ向かった。
発着所には5、6人の行列が出来ており、その最後尾にマリアが並んでいた。
黒色のノースリーブのワンピースで裾が膝上しかないミニスカート。黒色のつばが広い帽子に黒色のマント。
制服のような形式ばったデザインなので、たぶん、魔術師学院の制服なんだと思う。
昨日と同じく身長よりも少し長い杖を持っていた。
俺に気づいたマリアが笑顔で手を振った。スポットライトが当たったかのように、そこだけ明るくなったかのように思えた。
まるで、映画やドラマのワンシーンのように見えた。
高校2年か3年の女子学生にしか見えない。まるで、トップアイドルが青春ドラマの演技をしているかのようだ。
昨日のように、我を忘れてしまうような兆しは無いのだが、心臓がドキドキしてきた。
トップアイドルを相手にすれば、誰だってドキドキするはずだ。これは断じて恋では無い。
俺は何くわぬ顔でマリアに手を振り返し、急ぎ足でマリアに近づいた。
「おはようございます。お待たせして申し訳ありません」
「おはよう。リオンくん。何だか堅苦しい話方ね。もっと気軽に話してくれないかな」
マリアが不満そうな顔で文句を言った。凄い演技力だと感心した。まるで青春ドラマを生で見ているような錯覚に陥った。
「おはようマリア。ひょっとして待たせた?」
俺はマリアの恋人役の俳優になりきって演技をした。
「そう。その感じよ」
マリアが嬉しそうに微笑んだ。マリアの微笑みは殺人級の武器だ。とても心臓が持たない。
「すみません。今のは冗談です。ワルノリしました。マリアさんは雇い主ですから、とても無理です」
はっと我に返った俺は速攻で頭を下げて謝った。
「そうなの? さっきの感じはとっても良かったわよ」
「すみません」
俺はさらに深く頭を下げた。
「分かったわ。とにかく、頭を上げて頂戴」
声が少し怒った調子になっている。俺は頭を上げてマリアを見た。怒った顔と言うよりも不満気な顔をしていた。
「今はいいわ。昨日会ったばかりだから仕方ないわね」
「すみません」
俺が再び頭を下げたタイミングで乗合馬車が発着所に近づいて来た。4頭立てのマイクロバスぐらいの馬車だ。
「あら、馬車が来たわ」
マリアが近づいて来る馬車を見た。いつの間にやら行列は10人ぐらいに増えていた。
「私が雇い主だから、料金は私が払うわね」
「はい。ありがとうございます」
皮肉を言われた気がしたが、俺は素直にお礼を言った。自分の料金は自分で払いますとはとても言える雰囲気ではない。
「うふふ。しょうがないわね」
マリアの機嫌が直ったようだ。
俺はマリアに続いて馬車に乗り込みマリアの隣の席に座った。
「リオンくんは乗合馬車は初めてよね」
「はい。そうです」
「慣れない内は、舌を噛むから喋らない方が良いわよ。気分が悪くなったら、足元にバケツがあるわ。4頭立ての高速馬車だから魔術師学院まで2時間よ。途中で1回だけ休憩があるわ」
「分かりました」
「昼ごろに到着するから先に昼食にするわね。でも気分が悪くなったら無理して食べない方がいいわよ。到着したら昼食を食べるかどうか聞くから遠慮しないでね。
まぁ、リオンくんなら大丈夫だと思うけどね」
どうやら、相当揺れるようだ。覚悟した方が良いだろう。
「了解です」
「何か分からないことがあったら遠慮なく聞いて頂戴ね」
「分かりました」
馬車は4座席が6列で24人乗りで、17人の乗客が乗り込んだ。御者がバランスを取るために、乗客の何人かを移動させてから出発した。
乗合馬車はでこぼこの道を時速30kmぐらいの速度で走った。
座席は広く作られていてクッションが敷き詰められており、体が飛び跳ねても隣の席の乗客にぶつかることは無いのだが、しっかりとつかまっていないと座席から飛び出してしまうかもしれない。
最初の30分はあっと言うまに過ぎて、途中の休憩場所に着く頃には随分と馬車に慣れたが、その後の1時間がやけに長く感じた。
学院都市に入ると道が舗装されているため、揺れが無くなり、すぐに魔術師学院の巨大な正門に着いた。
乗合馬車の発着所で乗客が降りると、馬車はすぐに居なくなった。
「リオンくん。お昼は食べられるかしら?」
「はい。大丈夫です」
馬車から降りて腰を伸ばしていたら、マリアが聞いたので俺は即答した。
マリアに連れられてしゃれたお店に入り、マリアと向かい合わせで席に座った。
「リオンくんは何にするの?」
「そうですね。お勧めの定食コースってありますか?」
「えぇ、あるわよ」
「それなら、お勧めにします」
「分かったわ。私も同じお勧めにしようかな」
初めて入る店で注文に困ったら、お勧めを注文するのが無難だ。店のお勧め料理なら外れは殆ど無い。乗合馬車の料金はマリアが払ったので、昼飯代は俺が払うつもりだ。
俺は手を上げて、店員を呼んだ。
「昼のお勧めコースを2人分頼むよ。アリアさん。飲み物はオレンジジュースで良いですか?」
「えぇ、いいわよ」
「オレンジジュースを2人分ね」
「かしこまりました」
店員がテーブルから十分に離れるのを待った。
「マリアさん。乗合馬車の料金を払ってもらったから、昼飯代は僕が払いますよ」
「あら。雇い主は私だから、私が払うわよ」
「これでも、男ですからね。見栄ぐらい張らせてください」
「まぁ、リオンくんも男の子なのね。うふふ。分かったわ」
マリアは可笑しそうに笑って了承した。男心を満足させる対応だ。男を立ててちゃんと見栄を張らせるのも女の器量だと思う。アリアは理想の女性だよなぁと俺は感心した。
運ばれてきた料理はシーフードパスタだった。量的にはちょっと物足りないのだが、スープ、サラダ、デザートとフルコースになっていて、いかにも高級料理と言った感じだった。
「学院に行ったら、リオンくんの魔力測定をしたいのだけど、かまわないかしら?」
「魔力測定ですか?」
「えぇ、そうよ。嫌なら無理にとは言わないわ」
測定結果は、魔術師ギルドのデータベースに登録されているので、今更隠す必要はない。
「良いですよ」
「ありがとう。ギルドのデータベースにリオンくんの測定結果が登録されているけど、最新のデータが欲しいのよ。面倒かもしれないけどお願いね。
魔力測定が終わったら、助手の登録をするわ。助手のカードは明日の朝に仕上がるはずだから、明日も学院に来てね。
教授に紹介するから暇なら教授のところに居ると良いわよ。教授のところには助手と弟子がいるし、遺跡に同行する仲間だから仲良くなった方がいいわ」
「教授って誰ですか?」
「あら、そう言えば説明してなかったわ。
教授は、マーリン・トワイライト導師のことで考古学部門の部長さんよ。「僕のことは教授と呼びたまえ」と言う変人さんで、私と同じハイエルフ族の男性……。
とっても楽しい人よ。会えばリオンくんも気に入るわ」
「そうですか」
マリアが楽しそうに教授の説明をしたので、俺はぶっきらぼうに答えた。
「独身用寮にはすぐに入れないかもしれないから、その場合は宿屋に泊まって頂戴。宿代は必要経費として後で精算するから、面倒かもしれないけど領収書と一緒に申告してください」
「はい。分かりました」
「何か質問はある?」
「いいえ」
「準備に1週間ぐらい掛かるから、その間はここで遊んでいればいいわ。魔術師学院の図書館は世界一の規模を誇っているから、一度は行って見たらいいわ」
「世界一とは凄いですね」
「まあね。確かに蔵書の量と規模は世界一だけど、質の方は期待しない方が無難かもね」
「そうなんですか」
「行けば分かるわ。そろそろ、学院に行きましょうか?」
「そうですね」
俺は返事をしてから手を上げて店員を呼んで精算した。別に大したことは無いのだが、平サラリーマンの感覚からするとかなりの高額で、この店には二度と来ないぞと内心で誓った。




