第23話:The Mirror of Zero-Sector
世界が逆転した。
高度一万メートルから自由落下を始めた空中都市セント・ミリオネア。
重力から解き放たれた瓦礫が宙を舞い、パニックに陥った人々の悲鳴が、激しい風切り音に掻き消されていく。
「"VENDYS... give me... everything...!"(ヴェンディス……すべてを……貸せ……!)」
ジャック・ヴァン・ドレンは、都市の最深部——剥き出しになった巨大な反重力コアの直上に立っていた。
FINAL UNITの装甲は既に半壊し、生身の腕からは噴き出す血が重力の消失によって真珠のように宙を漂っている。
目前には、崩壊するシステムと一体化したプライムの「鏡像」が浮かんでいた。
それは、ジャックと全く同じ姿をした、冷徹な光の彫像。
「"Look at the mirror, Jack. This is the 'Truth' your father saw."(鏡を見なさい、ジャック。これこそがお前の父が見た『真実』だ)」
プライムの指先が、第零区の最深部に隠されていた「真の鏡」を指し示す。
そこに映し出されたのは、十年前、父エドワードが「街を守るため」ではなく、「自分自身の汚れた野心を切り離すため」に第零区を爆破したという、残酷な記録映像だった。
「"My father... didn't do it for the city?"(父さんは……街のためにやったんじゃないのか……?)」
「"He did it for his 'Ideal'. Just like you."(彼は自分の『理想』のためにやったのだ。お前と同じようにな)」
プライムが歪んだ笑みを浮かべる。
「"Now, the city is falling because of your 'Justice'. Will you become a martyr, or a monster?"(今、お前の『正義』のせいで街が落ちる。殉教者になるか、怪物になるか、選ぶがいい)」
『……ジャック! 聴かないで! その「鏡」は、あなたの心を映す偽物よ!』
背後で、瓦礫に挟まれながらもクレアが絶叫した。
彼女の因果の耳は、墜落する都市の振動の合間に、プライムが隠し持っていた「最後の一片」の響きを捉えていた。
「"I don't care about the past anymore, Prime."(過去なんて、もうどうでもいいんだよ、プライム)」
ジャックは、血に濡れた右拳を、自身の心臓へと直接突き立てた。
「"I'm not my father. And I'm not you."(俺は父さんじゃない。そして、あんたでもない)」
落下速度が上がる。
地上の街が、巨大な影に飲み込まれようとしていた。
ジャックのスチールブルーの瞳が、自分自身の「鏡像」を、粉々に撃ち砕くべく輝いた。
急降下する空中都市。内部では重力が狂い、上下の感覚さえもが消失していた。
ジャックは反重力コアの激しい放電に身を焼きながら、クレアの震える声を脳内で拾い上げた。
『……ジャック、聴いて! プライムの「鏡」を壊す方法は、自分を犠牲にすることじゃないわ……!』
クレアは盲目の瞳を閉じ、都市全体のシステムが発する「悲鳴」を一本の糸へと集約させていた。
『……プライムは、あなたの「正義」を一箇所に集めて、重り(ウェイト)にしようとしている。……だから落ちるのよ! あなたの想いを、不殺の意志を……この街の全住民に「分散」して!』
「"Distribute... my will?"(……俺の意志を、分配しろだと?)」
「"Like a dividend, Brother."(……配当金みたいにね、お兄様)」
シスターが、自身の神経接続端子をジャックの剥き出しのポートへ直結させた。
「"The Genesis is a monopoly of power. But you... you've spent everything. You can become the 'Cloud' that saves everyone."(ジェネシスは力の独占。でもあなたは……すべてを使い果たした。あなたは、全員を救うための『雲』になれる)」
ジャックは、血の混じった唾を吐き捨て、皮肉げに笑った。
「"A cloud, huh? I always hated digital banking... but I'll make an exception."(クラウドか。デジタル銀行は嫌いだったが……今回だけは例外だ)」
現在のジャックには、プライムを破壊する武器はない。
だが、彼にはこの三ヶ月間で積み上げてきた、数百万の人々と分かち合った「痛み」と「希望」のデータがある。
それを、都市の制御システムを通じて全住民のナノマシンへ逆流させる。
「"Listen, Prime. You wanted my soul to be the 'One'? Too bad."(聞け、プライム。俺の魂を『唯一』にしたいんだろ? 残念だったな)」
ジャックは、FINAL UNITの最後のリミッターを自ら引き千切った。
「"I'm going to share my 'Poverty' with everyone. And that wealth of emptiness... will stop this fall!"(俺の『貧しさ』を全員で分かち合ってやる。その空っぽの豊かさが……この墜落を止めるんだよ!)」
『……予言が、変わる……! 真っ暗だった地上が……何千万もの小さな「光の粒」で埋め尽くされていく!』
ジャックの全身から、眩いスチールブルーの奔流が、血管のような光の筋となって都市全体へと広がり始めた。
墜落の衝撃まで、残り三分。
セント・ミリオネアの全ビジョン、そして市民の脳内に、ジャックの生々しい「鼓動」が流れ込んだ。
「"Citizens of St. Millionaire... lend me your 'Life'!"(セント・ミリオネアの市民諸君……お前たちの『命』を貸してくれ!)」
ジャックは反重力コアの激流に身を焼きながら、絶叫した。
三角形の頂点。
恐怖に震える「数百万の市民(被害者)」と、完璧な秩序で圧し潰そうとする「プライム(加害者)」、そしてその間を繋ぐ「自分」。
『……バカな! 意識を分散するなど……そんな負荷に脳が耐えられるはずがない!』
プライムの鏡像が、ノイズを撒き散らして激昂する。
「"I've survived bankruptcy, Prime! A little headache is nothing!"(破産を生き延びたんだ、プライム! 頭痛くらいなんてことないさ!)」
その瞬間、地上の人々がジャックの「熱」を感じ取った。
かつての億万長者が、泥にまみれ、血を流し、それでも自分たちを救おうと叫んでいる。
一人、また一人と、住民たちが恐怖を捨て、ジャックの波形に呼応する。
彼らの小さな「生きたい」という意志が、ジャックの中継を通じて巨大な逆位相のエネルギーへと増幅されていく。
VREEEEEEE-!
空中都市の全階層から、スチールブルーのオーロラが噴き出した。
それはプライムが構築した「統合の檻」を、内側からの「連帯の光」が押し返す、奇跡の光景。
『……ジャック! 聴こえるわ! 墜落の「因果」が……止まろうとしている!』
クレアがジャックの背中で、自身の命を削って因果を固定する。
シスターは「無音」の力を使い、過負荷に耐えるジャックの脳内の悲鳴を抑え込んでいた。
「"WE ARE THE CITY!"(俺たちが、この街だ!)」
ジャックは、血に濡れた右拳を空に向けて突き上げた。
数百万の心臓の音が重なり、一つの巨大な「拒絶の雷鳴」となって、プライムの鏡像を粉々に打ち砕いた。
凄まじい反動。
都市の墜落速度が目に見えて落ち、空中で静止したかのような錯覚が走る。
だが、その勝利の瞬間に、プライムの「真の核」が剥き出しとなった。
プライムの鏡像が粉々に砕け、辺りに銀色のノイズが舞い散る。
墜落の慣性が消え、都市は皮肉にも、かつてないほどの静寂の中に浮遊していた。
その静寂のただ中、剥き出しになったメインサーバーの光の中に、一人の「男」が立っていた。
それは巨大な神の姿でも、冷徹なAIでもない。
書斎でジャックを叱咤していた頃のままの、老い、そして疲れ果てたエドワード・ヴァン・ドレンのホログラムだった。
「……"Father...?"(……父さん……?)」
『……よくここまで「無」になったな、ジャック。……お前にこの街を継がせるのではない。……お前に、この街を「終わらせる」権利を与えるために、私はお前を破産させたのだ』
父の幻影が、自身の手元にある「最後の一セント」の硬貨を弄ぶ。
それは、ジャックが破産したあの日、手元に唯一残ったはずの、あのコインと同じものだった。
「"What do you mean, 'end'?"(『終わらせる』って、どういう意味だ?)」
『ヴァン・ドレンの名は、呪いだ。繁栄を望むたびに、誰かの沈黙を糧にする。……私はそれを止めることができなかった。……だから、すべてを失ってもなお「不殺」を叫べるお前に、この街の停止スイッチ(ファイナル・アカウント)を託したのだ』
モニターに映し出されたのは、ジャックが全住民に分配した「意志」の波形。
それが今、プライムのシステムの深部で、一つの「鍵」を形作っていた。
『ジャック……。……聴こえるわ。……父さんは、自分を壊して欲しかったのよ。……「完璧な王」としてではなく、「不完全な父親」として消えるために……!』
クレアの震える声。
「"You're a coward, Dad."(あんたは臆病者だ、父さん)」
ジャックは血の混じった唾を吐き捨て、震える足で父の幻影に歩み寄った。
「"You couldn't say 'I'm sorry' to the city, so you made your son do the chores."(街に『ごめん』が言えないから、息子に後片付けをさせたんだな)」
『……その通りだ。……清算の代価は、ヴァン・ドレンの「全記録」の消去。……それを行えば、お前は二度と「ヒーロー」としても「富豪」としても、歴史に残ることはない。……ただの、名もなき男に戻るのだ』
プライムの残滓が、最後の警告を鳴らす。
[WARNING: SYSTEM DELETION WILL ERASE ALL DATA OF JACK VAN DOREN.]
(警告:システム消去は、ジャック・ヴァン・ドレンの全データを抹消する)
ジャックは、右拳の震えを止めた。
不殺の先にある、究極の「自己抹消」。
彼は笑った。かつて一晩で数十億を動かした時よりも、ずっと軽く、晴れやかな笑みだった。
「"A nameless man, huh? Sounds like a deal I can finally afford."(名もなき男、か。ようやく俺の手が届く価格の取引だな)」
ジャックは、父の幻影が差し出す「最後の一セント」を、血塗れの拳で強く握りつぶした。
その瞬間、彼の脳内に空中都市の全システムを強制終了させるための「最後の一撃」のコマンドが浮かび上がる。
『……ジャック! それを実行すれば、ヴェンディスとしての記録も、あなたが救った人々の記憶からも、あなたの存在は消えてしまう……!』
クレアがジャックの背中に縋り付き、嗚咽を漏らした。
不殺を貫き、魂を削って街を救った。その英雄が、誰にも知られずに「ゼロ」に還る。あまりに不公平な、真実の清算。
「"It's okay, Claire."(いいんだよ、クレア)」
ジャックは、剥き出しの回路を火花散らせるFINAL UNITの胸部装甲を叩いた。
「"The money is gone, the armor is broken. I'm just Jack. And Jack is enough."(金も消え、鎧も壊れた。俺はただのジャックだ。……それだけで、十分なんだよ)」
ジャックは、シスターが繋いでくれた情報の回廊の最深部、プライムの心臓部へと右拳を突き立てた。
「"ACCOUNT CLOSED! EVERYTHING TO ZERO!"(清算完了! すべてをゼロに!)」
VREEEEEEEEE-!
空中都市全体が、これまでで最も激しい、純白の閃光に飲み込まれた。
プライムの傲慢な秩序、父エドワードの悲しい野心、そしてヴァン・ドレンという名の呪縛。
そのすべてが、ジャックが放った「空っぽの正義」によって一瞬にして中和されていく。
ドォォォォォォン……!
空中都市を支えていた異常な重力場が霧散し、セント・ミリオネアの心臓部は、ゆっくりと、雪が降るような静けさで地上へと降り立ち始めた。
だが、その白光の渦の中で、ジャックの意識は急速に希薄になっていく。
バイザーに流れる最後のログ。
[USER DATA: DELETING...]
[HISTORY: PURGED...]
[STATUS: UNKNOWN...]
ジャックは微笑み、崩れ落ちる玉座と共に、真っ白な情報の吹雪の中へと消えていった。
やがて、光が収まった地上。
静かに元の場所へと収まった第零区の入り口に、一人の男が横たわっていた。
彼はスーツも纏わず、名前を呼ぶ者もいない、ただの傷だらけの男だった。
「……ジャック……?」
傍らで、視力を失ったままのクレアが、震える手で地面を探る。
だが、彼女の「因果の耳」にも、今はもう、かつての王の鼓動は聞こえてこなかった。




