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三章 静かな寄り添い  

 仲居の千鶴は、春の日差しを柔らかく包み込むように、時には母のように温かく、時には姉のように厳しく、また時には妹のように愛らしい笑顔で、そして時には恋人のような眼差しで、九を静かに見守っている。


 あの時も、寄り添ってくれた。

 公民館のステージを降りた九は、深い喪失感と新たな希望の狭間で戸惑っていた。演奏を終えたはずなのに、どこか満たされない。自分が本当に求めていた音は、これでよかったのか――そんな思いが頭の中を巡る。


 そのとき、千鶴が静かに現れた。柔らかな着物の光沢がかすかに月明かりを反射し、長い髪が静かな夜の風に揺れる。彼女の足取りは、音を立てないかのように静かだった。


「九さん、お疲れさま。」


 穏やかで落ち着いた声が、闇夜にそっと溶けていく。その一言一言が、荒んだ九の心に優しく沁み入った。九はゆっくりと顔を上げ、千鶴を見つめる。彼女の眼差しには、どこか懐かしい温かさがあった。


 九は息を吐く。言葉を返そうとしたが、胸の奥に詰まった感情がそれを阻む。ただ、千鶴がそこにいるだけで、不思議と心が落ち着いていくのを感じていた。


「九さん、大丈夫ですか?」


 柔らかく、それでいて芯のある声だった。九は驚くほど自然に、肩の力を抜いて頷いた。彼女の問いかけには、言葉以上のものがあった。無理に答えを探さなくてもいい。ただ、そこにいてくれるだけでいい――そんな安心感を覚えさせてくれた。


 千鶴は夜空を仰ぎ、ゆっくりと息を吐いた。


「私はね、昔は夢ばかり追いかけていたの。」


 その言葉は淡々としていたが、時間をかけて消化してきた思いが静かに滲んでいた。九は黙って耳を傾ける。


「演歌歌手としてデビューした時、それがすべてだと思ってた。でも、夢を叶えたはずなのに、心のどこかがずっと満たされなくて……。どさ回りの毎日、気づけば、自分が何のために歌っているのかわからなくなっていた。」


 夜風がそっと吹き抜ける。千鶴は膝の上で指を組み、少しだけ視線を落とした。


「歌うことが好きだったはずなのに、いつの間にか『うまく歌わなきゃ』『評価されなきゃ』って、そればかり考えるようになってた。気づいたら、自分の声が、誰のためのものなのかもわからなくなってたの。」


 九はふと、自分の手を見つめた。彼もまた、技術ばかりを求め、いつの間にか「何のために弾くのか」を見失っていたのかもしれないと思った。


 千鶴の瞳には、かつての苦しみと、それを乗り越えた者だけが持つ穏やかな光が宿っていた。


「だからね、やめたの。ただ上手いだけじゃ、人の心には届かないって、ようやく気づいたから。」


 その表情には、寂しさと、それ以上の優しさがあった。


 九は静かに息を吸い込んだ。音楽とは何か。奏でる意味とは何か。千鶴の言葉が、九の心にそっと新しい風を吹き込んでいた。


 千鶴は、かつて自分が抱えた葛藤を、今の九に重ねているのだろう。彼女もまた、夢を追い、現実に直面して傷つき、そして再び立ち上がった。だからこそ、今、九に寄り添い、静かに手を差し伸べているのかもしれない。


 もしかすると、千鶴は九に対して単なる親切心以上の感情を抱いているのかもしれない。それが恋愛感情なのか、それとも守りたいという母性的な気持ちなのか、彼女自身もまだはっきりとは分かっていないのだろう。


 九を睨むその目は鋭く、獲物を見定める鷹のようだった。帳場に立つ番頭の視線は、一瞬たりとも揺るがない。廊下を行き交う仲居の足取り、厨房から漂う出汁の香り、客室の襖が立てるわずかな音——そのすべてが彼の意識の網にかかる。ほんのわずかな乱れや気の緩みも、決して見逃さない。

「おい、湯加減は確かめたか?」

「料理の盛りつけ、雑になっていやしないか?」


 低く響く声は、旅館の背筋を正すように張り詰めている。従業員たちは皆、番頭の前では自然と背筋を伸ばし、言葉遣いを正した。それは畏怖(いふ)ではなく、彼の圧倒的な責任感と誇りに触れたがゆえだった。


 旅館とは、客が安心して羽を伸ばし、心から寛げる場所でなければならない。そのために何が必要か、どうすれば最高のもてなしができるのか——番頭は常にそれを考えていた。風呂の湯加減、料理の味、畳の目に入り込んだわずかな埃——それらすべてが旅館の品格を決め、たったひとつの気の緩みが、客の満足を損ねることになる。それを誰よりも理解しているからこそ、番頭は常に厳しく、そして誠実であろうとする。


 その厳しさの裏には、客への深い思いやりと、この旅館を守るという揺るぎない覚悟がある。番頭の鋭い眼光の奥に宿るのは、ただの威圧ではなく、真のもてなしの心であった。


「九、お前——」


 低く、腹に響く声で名を呼ばれた瞬間、九は思わず背筋を伸ばした。


 今朝の荷運びか? 途中で手を滑らせ、重たい箱を落としてしまった。鈍い音とともに箱が床に崩れ、中身が散らばる。急いでかき集めたが、誰かに見られていたのかもしれない。


 それとも、昨夜のことか。つい長風呂を楽しみすぎてしまい、湯気が充満した浴場の戸を開け放した。ひんやりとした夜風が流れ込む、あの心地よさを思い出す。


 あるいは、掃除を手抜きしたのがまずかったのか。客室の掃除機を一度かけただけで済ませた。畳の隅には、小さな埃が残っていたかもしれない。玄関先の掃き掃除も、時間がなくてざっと済ませた。風に舞った木の葉が再び敷石に積もっていくのを横目で見ながら、見なかったことにした。


 もしくは、温泉の温度管理を怠ったせいか。湯船に手を入れたとき、いつもよりぬるいと感じたが、そのままにしてしまった。


 どちらにせよ、番頭に目をつけられるというのは、つまり「覚悟しろ」ということだった。


 静まり返った廊下の奥から、番頭がゆっくりと歩いてくる。無駄のない動き、微かに光る鋭い視線。客の目には決して映らぬ部分にこそ、宿の価値は宿る。その信念が、彼をこうさせているのだと九は知っていた。


「……お前、飯はちゃんと食ってんのか?」


 予想もしなかった言葉に、九は一瞬呆気にとられた。


「え?」


「最近、顔色が悪い。まさか、また飯抜いてんじゃねえだろうな」


 九は慌てて首を振った。確かに、ここ数日あまり食欲がなかった。だが、それを見抜かれるとは思ってもいなかった。


 番頭はふっと息をつき、帳場の奥から包みを取り出すと、無造作に九へと差し出した。


「余った惣菜だ。いいから食え」


 それだけ言い残し、番頭はまた帳場の奥へと戻っていった。


 九は手元の包みを見つめる。ほんのりと温かく、湯気の向こうに、番頭の不器用な優しさが滲んでいた。


「……ありがとうございます」


 小さく呟いた九の声は、果たして番頭の耳に届いただろうか。


 返事はなかった。しかし、去っていく背中は、どこかほんの少しだけ柔らかく見えた。



 東京では、大騒ぎになっていた。

 志摩九がどこにいるのか——その行方を追い求め、マスコミは全力を尽くしていた。報道陣は数十台の車を並べ、ひとつの陣形を作って街を駆け巡る。カメラマンたちは車から降りると、周囲を見回し、誰もが志摩九の影を探し続けている。動きのひとつひとつが緊張感を帯び、決して見逃さまいとする熱意がみなぎっていた。


 記者たちは地元の人々に声をかけ、志摩九を見かけた者がいれば、どんな些細な情報でもすぐに拾おうとする。鋭い目で周囲を見渡し、ほんの小さな手がかりさえ見逃さぬようにしている。


 ある記者は、志摩九が立ち寄ったかもしれない店の前で立ち止まり、店員に尋ねる。その問いかけには、命がけの追跡者のような焦燥感が漂っていた。


 電話が鳴り響き、別の記者が再び車に飛び乗る。

「情報が入った!」

 叫びながら、次の目的地へと急ぐ。電話を手にした彼の顔には、期待と不安が交錯していた。それが正確な情報であろうとなかろうと、すぐに動かなければならない——そんな使命感が全身から伝わってくる。


 街頭インタビューを繰り返し、映像を撮影しながら、どこで、誰が、志摩九を見かけたかという断片的な情報をひとつひとつ集めていく。彼らの一歩一歩が、次第に謎を解く鍵を握るように感じられた。報道陣は、まるで無数の糸が絡み合うように、あらゆる方向から情報を集め、つながりを求めて走り続けていた。


 彼らの手には、志摩九を捉えるための地図、電話番号、あらゆるメモが握られ、すべてが急かされるように動いている。しかし、どこかで足りない情報があり、見逃したかもしれない——誰もがそう恐れ、ただひたすらに走り続けた。


 だが、その熱狂とは裏腹に、この町では何も変わらぬ日常が続いていた。

 商店のシャッターが開き、老舗の和菓子屋からは甘い香りが漂う。通学途中の子どもたちが笑い声を上げ、自転車を押しながらおしゃべりを楽しんでいる。新聞を広げた老人がベンチに腰掛け、通り過ぎる人々と「今日は寒いな」と何気ない会話を交わす。テレビのニュースで九の名前が流れても、誰も画面に釘付けにはならず、「へえ、大変だね」と他人事のように呟くだけだった。


 この町にいる志摩九は、大スターの志摩九ではない。ただの「九」という名の男。旅館の裏口から出てきて、静かに掃き掃除をしている。


 落ち葉を集めながら、ふと手を止め、遠くの山を見上げた。その横顔には、都会の喧騒とは無縁の穏やかさがあった。


 もし誰かがこの町にやってきて、「志摩九を知っていますか?」と尋ねたとしても、人々は首を傾げるだろう。


 彼は、ここでは誰の記憶にも深く刻まれることのない、ただの一人の男なのである。


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