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二章 ロックンロールの刃  

 朝の四時半、眩しい光もない静かな朝を迎えた。夢だったら――そんな思いがかすかに胸をよぎるが、身体は現実を受け入れ、布団から這い上がり、冷たい空気に触れた瞬間、眠気は完全に消え失せた。


 布団部屋を出ると、ひんやりとした空気が頬を撫で、まだ眠りの残る世界に静かな息遣いを感じた。厨房に向かうと、すでに板前見習いが仕込みの準備を始めていた。薄明かりの中で、包丁や銅鍋が鈍く輝き、空気にはわずかに水の匂いと生姜の刺激的な香りが漂っている。戸口に立ったまま耳を澄ませば、野菜を流水で洗う音、包丁がまな板を叩くリズミカルな響き、金属同士が触れ合う微かな音が交錯し、まだ眠りの残る空間に心地よい律動をもたらしていた。


 見習いの動作はひたむきで、無駄がない。白菜の葉を丁寧に剥がし、計量器の針がぶれないよう慎重に調味料を測る。指先には確かな意思が宿り、その姿には儀式のような厳かさと、先人たちの技を継ぐ者の静謐な決意がにじんでいた。


 九はそっと一歩踏み出し、見習いの背中を遠くから見守る。その姿に、自分がかつて歩んだ道の面影を重ねた。見習いの動きには迷いがないが、その静けさの奥には緊張が張り詰めているように思えた。九は言葉を飲み込み、ただそこに流れる時間を受け止める。冷たい夜気がまだ外に残る中、厨房だけがじんわりと温かく、湯気とともに命が宿っていくようだった。そこには何か大切な変化の兆しが潜んでいる気がした。


 包丁の刃がまな板に触れ、コトリと音を立てる。その静かな響きが、今日という一日の幕開けを告げる合図のように思えた。


 扉の向こうから老練な板前が姿を現した。彼の名前はチャック・弁。彼は見習いに向かい、低い声で短い指示を投げかけると、そのまっすぐな眼差しで厨房全体を見渡した。長年積み重ねた知恵と経験が、その一挙手一投足に宿っているかのようである。彼の存在は、この厨房に流れる静かな時間を、さらに神聖なものへと変えていった。


「今日の仕込みは、昨日の努力を映し、明日へと繋ぐ味を生み出すものだ。」


 チャックはつぶやいた。彼の言葉は、ただの指示ではなく、料理に対する深い愛情と伝統への誇りを感じさせた。その声に、見習いも、そして九も、何か大切な使命感を受け取ったような気がした。


 やがて、厨房全体が一つのリズムを刻み始める。野菜を刻む音、湯気を上げる鍋のふくよかな音、そして時折交わされる短い会話。これらすべてが、今この瞬間、確かな時の流れと重なり合い、新たな一日の幕開けを祝福しているかのようだった。


 九はその場に立ち、目の前に広がる光景に胸を打たれながら、料理という芸術と向き合っている。厨房に溶け込むその静かな情熱に、心からの敬意を抱かずにはいられなかった。


 九は厨房の片隅で、じっと包丁の音を聞いていた。コトン、トントン、ジャッ……静かな朝の空気に、一定のリズムが刻まれる。まるで一つの曲のようだった。


「……不思議なもんだな。」


 九が呟くと、チャックが手を止め、ゆっくりと顔を上げた。


「何がだ?」


「音楽なんてない場所だと思ってたが、ここにもリズムがあるんだなって……。」


 チャックは微かに笑い、包丁を手に取りながら言った。


「音楽がない場所なんて、どこにもないさ。」


「……どういうことだ?」


「お前はロックンローラーを気取ってるが、その本質を勘違いしている。」


 チャックはそう言いながら、まな板の上の魚を静かに捌いた。鋭い刃が滑る音が、まるでギターの弦を弾くように響く。


「ロックンローラーとは、己の道を貫く者……そう思ってるんだろう?」


 九は無言で頷いた。


「だから、人のことなんか気にしない。孤立しても構わない。そうやって、自分だけの音を鳴らしてきたんだろう?」


「……悪いのか?」九は少し反発するように言った。


「いいや、悪くはない。ただ、それは音楽じゃない。」


 九は息をのんだ。


「音楽ってのはな、鳴らす者と、聴く者がいて初めて成立するもんだ。お前は自分だけの音を大事にしすぎた。けど、音楽は響かせるものなんだよ。」


 チャックは手元の魚を捌きながら続けた。


「料理も同じだ。俺がどれだけいい包丁さばきをしても、どれだけ最高の素材を選んでも、それを食うやつがいなければ、ただの自己満足だ。音楽もそうだろ?」


 九は言葉を失った。


「お前の音楽を、誰かが必要としていたことに気づかなかったんじゃないか?」


 その言葉に、九の心の奥に何かが突き刺さる。九は「自分の音楽」ばかりを追い求めていた。だが、それを聴いてくれる人、求めてくれる人のことを、考えたことがあっただろうか。


「……俺は、ずっと勘違いしてたのかもしれない。」


 九の声は、どこか遠くを見つめるようにかすれていた。


 チャックは黙って、再び包丁を動かす。リズムが戻る。静かな厨房の中で、新たな音が生まれる。


 九はその音に、今まで感じたことのない「意味」を見出していた。


 休憩時間、九は微かに響く旋律に誘われるように、板前部屋の扉を押し開いた。驚いた。あの老練な板前、チャックがギターを弾いているではないか。指先はぎこちなく、それでもどこか懐かしさを感じさせる旋律が空間に漂っていた。


「チャックさんがギターを弾くとは?」


 九の問いかけに、チャックは弦を弾く手を止め、ゆっくりと顔を上げた。


「九も弾くのか?」


「弾くも何も、私はあの志摩九ですよ」


「志摩九?誰だそれ」


「知らないんですか?」


「知らん」


「私こそがその志摩九、ロックンローラーなんです。世間を騒がせている男ですよ」


 チャックは鼻で笑い、静かにギターの弦を撫でた。


「だからそんな金髪頭にしているのか?くだらん」


「くだらん?そのくだらん男はチャックさんよりギターを上手く弾けますよ。何だったら教えてあげましょうか?」


「俺に?」


「そう、チャックさんに…」


「そうか、教えてくれるのか、それはありがたいなあ。けど断るよ。そんなギターの心を失ったプレーヤーに教わるなんて」


「ギターの心を失った?」


「そうだ。失ったお前にだ」


 九の目が鋭く光った。「そこまで言われたら黙ってはいられない。どちらが聴く人の心を捉えるか勝負しましょうよ」


 こうして、チャックと九のコンサートが決まった。会場は、公民館の小さなステージ。

 観客はまばらに座り、静かにその時を待っていた。照明はなく、マイクもスピーカーもない。音響設備は皆無。ただ二本のアコースティックギターが、木製の台の上に無造作に置かれている。何の装飾もない、時代に取り残されたような空間。しかし、その素朴さが逆に音楽の本質を際立たせていた。


 最初に立ったのは九だった。

 金髪を揺らしながらギターを構える。ステージに立つことが、まるで当たり前のことのように感じられた。指先が弦をかき鳴らし、計算されたフレーズを次々と繰り出す。音は正確で、技巧的で、彼の腕前を示すには十分すぎるほどだった。


 音が会場に広がり、観客はその演奏に引き込まれていく。

 速弾き、力強い和音、華やかなメロディ。そのすべてが、九の音楽へのこだわりを物語っていた。だが――何かが足りなかった。観客の表情には感嘆の色が浮かぶものの、心を震わせるほどの熱は感じられない。演奏は華麗だが、どこか冷たい。情熱が技巧の裏に隠れ、届いてこない。


 演奏が終わり、会場に拍手が広がった。だが、その音には、どこか物足りなさが混じっていた。


 ――何かが違う。


 九がギターを抱えたまま立ち尽くすと、チャックがゆっくりとステージに上がった。

 ギターを手に取ると、一息つくようにして弦を撫でる。爪が弦に触れるたび、九は不思議な感覚に襲われた。時間が少しずつ巻き戻されていくような――そんな錯覚を覚えた。


 チャックのギターが鳴る。


 その瞬間、会場の空気が変わった。


 観客は息を呑み、目を閉じる者もいる。ただの音ではなかった。そこにあるのは、技巧ではなく「魂」そのものだった。無駄のない指の動き、粗削りでありながらどこか懐かしく、心の奥に響く音。


 ――これが、本物の音楽か?


 九は驚きとともに、その音に耳を澄ませた。


 最初はただ荒々しいだけに思えた。だが、次第にわかってくる。技術を超えた「何か」がそこにあった。技巧に頼らずとも、人の心を揺さぶる力。音の一つ一つに込められた、重みのある想い。


 観客の心を震わせたのは、華やかな演奏ではなかった。

 派手なパフォーマンスでもなかった。

 魂を込めた音――それだけだった。


 九の手が震える。


 観衆の目はチャックに釘付けだった。


 敗北は明らかだった。


「……俺は、何をやっていたんだ」


 九の声は、自分に向けられたものだった。


 これまで、ひたすら速く、正確に、美しく弾くことを追い求めてきた。だが、それは音楽の表面にすぎなかったのかもしれない。技術を極めることで、音楽の本質に触れたつもりになっていた。しかし、チャックの音には、それを遥かに超えた「何か」があった。


 九は、ふらふらとチャックの元へ歩み寄った。


「九、どうした? 元気がないぞ。俺の部屋で一杯やるか。美味い吟醸があるぞ」


「……飲ませていただけるんですか?」


「ああ、一緒に飲もう。で、どうした? 急に敬語なんか使って。気色悪いぞ」


「……自分が恥ずかしい。ただ、それだけです」


 九は、チャックの後について部屋へ入った。


 ロックの王者と、ただのギタリスト。


 二人の距離が、少しずつ縮まっていく。


 チャックが取り出したのは、銘酒と呼ぶにふさわしい一本だった。


「これ、最高の酒だからがぶ飲みするんじゃねぇぞ。味を楽しんで飲めよ」


「……はい」


 二人は静かに杯を交わした。


 チャックが台所へ向かい、手際よくつまみを作り始める。その間、九は部屋を見渡した。


 雑然とした棚の隙間に、一枚の古びたポスターが無造作に挟まれている。


 九は無意識のうちに手を伸ばし、それを引き抜いた。触れた瞬間、不吉な予感が胸をよぎる。


 次の瞬間、目を見開き、声が震えた。


「……嘘だろ」


 九の手が、かすかに震える。


 ポスターに映っていたのは――ギターを抱え、炎のような視線でこちらを見つめる男。若き日のチャック・弁。伝説のロックンローラーだった。


 50年前、日本初のロックンローラーの王者。エレキギターをかき鳴らし、荒々しくも情熱的なステージで人々を熱狂させた男。彼の指が弦に触れるたび、観客の心が燃え上がり、ステージは狂熱の渦と化した。圧倒的なカリスマ性、魂を揺さぶる歌声――その名を知らぬ者はいなかった。


 だが――その男は、突然、音楽の世界から姿を消した。


 誰もその理由を知らない。ただ、ロックンローラーの伝説だけが残った。


 その伝説の男が、目の前にいる。


 九は、自分の目の前にいるチャックの今の姿を見て、過去とのギャップに息を呑んだ。酒を飲んで、笑顔で冗談を交わす一人の男――だが、このポスターに映る男は、まるで別人だ。炎のような目、誰もが引き寄せられたカリスマ。あの頃のチャック・弁は、まさに神話のような存在だった。今のチャックを知る九にとって、その姿が信じられなかった。


「こんな男が、こんな場所に……」九は呟き、目を閉じる。伝説と現実が、目の前で交錯していた。


 九は息をのんだ。


「……本物の、チャック・弁……?」


 チャックは料理をしながら、九をチラリと見た。


「何だよ、そんな顔して」


「嘘だろ……マジで……? あの伝説の……チャック・弁……」


 チャックは鼻で笑うと、酒を一口あおった。


「そんな昔話、どうでもいいだろ」


 九はただ、手にしたポスターを握りしめた。


 ――この男が、あのチャック・弁。


 そして、自分は今、その伝説の男と向き合っている。


 九の胸の奥で、新しい何かが、静かに芽吹こうとしていた。


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