逃げの一手など巡って来ない
私の体はふわふわとした温かみを受けている。
まるで日向ぼっこをしているみたい。
吐き気によってむかむかしていた胸にはすっと爽やかな空気が満たされ、冷え切っていた爪先や指先は仄かに温まり弛んでいく。
ああ気持が良い。
このままこうしていたい。
「起きろ」
ダミアンの声に私はハッとして瞼を開ける。
いつの間に寝てしまっていたのか、私はダミアンを罵倒していたはず。
いえ、罵倒は心の中だけだった?
「苛立った時は眠るのが一番だ。すっきりしたか?」
私は目をしばたかせる。
魔法で私を眠らせたってことね!!
ダミアンが私にしてくれた事の項目に、NEW⑤煩くなったから魔法で眠らせた、を書き加える。
「吐き気はまだあるか? 私はそれほど治癒魔法は上手くないからな」
「治療のために私を眠らせたのね。そんな事が出来るなら、毒ニンジンなんか使う必要なかったのでは無くて?」
「弱らせねば魔獣はティムできないと友人が言うからな」
「誰が魔獣よ!!」
「ん、んん」
失言王は咽たふりして私から顔を背け、私こそ苛立たせてくれるだけの存在から視線を剥がし、今後の自分のために状況確認として周囲を見回す。
ダミアンリストの「毒ニンジンで意識を失わせた」に、理由として「弱らせるとティムしやすくなるから!!」を書き加えることになったのならば、本気でダミアンから逃げなきゃ私が危険。
馬車の窓から見える景色は、馬車が向かっていた目的地のダウンズベリーではないが、私がよく見知っている場所であった。
ダウンズベリーだって、私は足を運んだ事はあるから知っている。
ならば、カーネシリア領とダウンズベリーの間にある休憩地点を私が知らないはずは無いのだ。二時間ごとの休憩が必要な馬さんに感謝ね。
「休憩はありがたいわね。上は出したけれど、下も出す必要を感じるの」
私の物言いにダミアンは頬骨の当たりを真っ赤に染めた。
横向きのままであったけれど。
「では、さっそく」
私はダミアンに腕を回される前にと、急いで馬車の扉を開ける。ダミアンにエスコートされる前に動かねば自由がないと、私は急いで馬車から飛び降りた。
馬車の馬も追従している覆面男達の馬も休息が必要ならば、私がここの休憩所の元気な貸し馬を手に入れれれば逃げ切れる勝機があるのよ。
さあ、ダミアンを赤面させた今こそ、厩まで駆け抜けるわよ。
「って、きゃああ!!」
左足が急に後ろへと引っ張られ、私はバランスを崩して転びかける。
転ばずに済んだのは、……ダミアン様が支えてくれたからよ。
「大丈夫か?」
「ありがとう。でも、そうよ、私は石に躓いたわけじゃ無いわ!!」
私はダミアンの腕から逃れると、急いでドレスの裾をあげて左足を覗く。
私の左足首には金色の足枷が嵌っていて、私がそれを見た瞬間に、足枷はすっと透明になって消えた。
「なにこれ」
「足枷だ。結婚したら共にあることを誓い合うものだ。結婚の契約の証として互いに永遠の従属を示すために指輪を取り交わしたりもするだろう? これはそれと一緒だと考えれば良い」
何を言っているのこの人はと、私は信じられない想いでダミアンを見返す。
ダミアンは当たり前という顔で、自分の左足のズボンの裾を引っ張った。
彼の左足にも私の左足にあったものと同じ、足枷の輪っかが嵌っている。
それは私に存在を認識されたとわかったからか、私の足にあった足枷と同じようにして透明になって消えた。
ぞっとして震えた私の頭の中で、ダミアンが私にしてくれた事リストに新たな項目が書き加えられる。
NEW⑥逃げられないように魔法足枷嵌めました。互いの足に嵌めてあるので結婚指輪代わりになります。
怖い、怖すぎる。
「あ、あの。結婚指輪は妻を転ばせようなんてしませんわよ。こんな危険なものが結婚指輪と一緒だなんて、納得できません。外して!!」
「危険など無いぞ。君が私から逃げようとするとこれは発現し、君を私の元まで引っ張って来る。それだけのものだ」
「もろ危険じゃないの!!私がもう少し遠くに走っていたら、そこからここまで私が足枷に引き摺られていたってものでしょう!!」
「そうはならない。今だってすぐに発現して君を止めただろう?」
ダミアンの口調は自慢そうだ。
これは彼が作り上げた魔法なの?
「私はあなたの奴隷なの?」
「君が逃げようとしなければこれは発現しない。それに、私に関してもこれはちゃんと機能している。君が私を望むならば、私はこれに拘束されて君の元に引き寄せられるだろう」
無い、それは今のところ絶対に思わないから、無い。
ということは、ダミアンはこの上なく自由で、不自由は私だけだ。
「そう。それで、どうして私が逃げようとしていると判断したの? 私はトイレに急いで行きたかっただけかもしれなくてよ」
「そうではなかっただろう? 」
ダミアンは私を測る視線を向け、私はダミアンの視線が耐えきれないと視線を適当に泳がす。彼は私に不快感を示すどころか、だからだ、と偉そうに呟いた。
「何よ?」
「これはもともと囚人や捕虜への拘束魔法なんだ。逃げたい、という人の欲求や思考に反応するように構築されている。反応したならば、君がトイレに急いでいたわけではない、という証拠だ」
「やっぱり人を奴隷にする魔法じゃない!!そんな魔法を妻にかけるとは、あなたは自分の伴侶を自分の奴隷だと思っているのね!!」
「違う。囚人に掛けるものと同じ魔法じゃないし、私の方が君の奴隷だ」
ぞわっとくる物言いじゃない。
でも確かに奴隷ね、自分の犯罪嗜好(思考?)に嬉々として隷属する奴隷男!!
「この魔法は君のために宮廷魔術士の友人に頼んで改良を加えて貰ったものなんだ。逃げようとする足を止めるだけだろ? もともとは逃がさないために足を切り落とすものだった」
凄いだろうと、ハハハとダミアンは笑う。
彼が恐れられているのは竜の印のせいじゃない、と私は確信を新たにした。
箱入り娘が見合い相手の男性の風貌に脅えたとしても、普通は会話を続けているうちに相手の人となりを知って受け入れるものなのだ。
思いっ切り老人だったりとか、脂ぎった中年でない限り。
ダミアンは若くて好ましい外見である。侯爵様という爵位もある。きっと財産だって普通以上にある人だ。
それなのに悉く婚約者達から逃げられているのは、絶対に会話の端々に彼の非常識が見え隠れしたからよ。
いいえ、隠れるどころか非常識が主張しまくりの大騒ぎだったに違いない!!
「どうした? 大丈夫だよ。魔法で出来た足枷でしかない。君が私から逃げようとさえしなければ、こんな魔法などあることも忘れて生活できるのだから」
「――ひとつだけ、参考に教えて頂ける?」
「私に答えられる事は」
「この足枷魔法は、解除できるの? 火事になったとかで危機に際して、あなたが俺を置いて逃げてくれとか私に言っちゃってくれているのに、あなたから逃げようとしたら逃げられなくなる魔法でしょう。逃げられなくて私は死んじゃうと思うのだけど?」
ダミアンは、あ、と小さく呟き、何やら考え込み始めた。
無い、とダミアンが即答しなかったことで、私は解除方法があるのだと一縷の望みをかけて見守った。だが、ダミアンが私に心の平安を与えてくれた事が未だかつてないと、私は思い出すべきだった。
「俺を置いて逃げてくれか、言ってみたいな」
「あなたが今考えるべきは、足枷魔法の解除法についてです」
「それは分からないな。必要無いと思っていた。あとで宮廷魔術士長のバートラムに聞いてみるよ。だが安心してくれ。君が危機に陥ることなど絶対に無い」
今が思い切り危機なんですけどね。
この阿呆!!