ダウンズベリーの次の町でゴーライエン領の怖さを知る
ダウンズベリーから先は、私には全くの未踏の土地である。
王都から遠くなればなるほど活気も華やかさも無くなるものだと思っていたが、ダウンズベリーから二日掛けて辿り着いたグランダールは、都市と言えるほどに大きくて活気のある町だった。
そして私達の乗る馬車は宿屋ではなく、グランダール領の領主館に止まった。
「グランダール伯爵様はゴーライエン侯爵家のご親族ですか?」
「違う。通り道でしかない赤の他人だ。ただし、我らの旅路に王弟アレンがついているからね、あいつ関係の余計なご招待だ」
ダミアンは本気で嫌そうに言い切り、私は笑いながら刺繍していた道具を裁縫箱に片付ける。ダウンズベリーで買って貰った裁縫箱は、ふたに虹色の貝の装飾がある白木の箱だ。小型でも容量があり出来る限り軽いものを選んだが、そのせいでたくさんの刺繍糸やビーズなど色々な裁縫道具が詰め込められて、今やかなりの重量になってしまっている。見た目は本当に軽そうで可愛いのだけどね。
「それは私が持とう」
ダミアンはほとんど奪うようにして、私の手の中から裁縫箱を取り上げた。
彼はダウンズベリーで私のボディセットが消えた事が気になるらしく、常に私の持ち物に目を光らせているのだ。
私が適当に洗面台に放っておいてしまったから、きっと何も知らない清掃係が片付けてしまったのね。その人が何かしら処罰を受けていなければ良いけれど。
でも、ジョワサンファン店と言えば、王家ご用達店と名高い、高級化粧品ショップなのである。一生縁が無いと思っていたボディクリーム(雪みたいに解けてすっと体に馴染んだわ)や、化粧水(なんだか肌が白く輝いた気がしたわ)に、(私の言う事を聞かない髪を艶やかで滑らかにしてくれた)ヘアオイルを失った事は、実は私は本気で悲しいし悔しい。物で釣れる人間ではないと自負していたが、思いっ切りダミアンから貰ったものに固執してしまっているとは。
そうね、私のこんな落ち込みを見て、彼は私にそんな思いをさせないように気を使ってくれているのよね。あああ、終わりなき幸せがたった二回使用しただけで終わってしまったとは。
「行くぞ」
ダミアンは私に腕を差し出して、私が動くのを待っていた。
私は待たせた申し訳無さに急いで彼の腕に手をかける。するとダミアンは私を引っ張るように馬車から下ろし、そのままずんずんと屋敷の中へと勝手に進んでいく。そんなに怒らせてしまったかしら。
そしてダミアンはずんずんと、ずんずん、あれ? 私達はでっぷりと太った煌びやかな中年男の横を通り過ぎた。
「ダミアン。グランダール伯爵は私達を出迎えにいらっしゃったのでは無くて。ご挨拶はいいの?」
「かまわない。伯爵の狙いはアランだ。挨拶はあいつのお付きの奴らがちゃんとしてくれるだろう」
私は後ろへと振り返る。
私達の乗って来た馬車の後ろに大型の馬車が止まるや、そこから出て来た人にむけて私達が素通りしてしまったグランダール伯爵らしき男性がにこやかに出迎えているのだ。ダミアンの友人の元黒覆面部隊は(今は素顔晒している)、馬車の扉を開けたり、出てきたアランに手を差し出したりと、アランの守りの壁のようだ。
「気になるのか。あいつらの顔が見たければ後で呼ぶぞ」
「いいえ。数が足りないなって」
「貴族嫌いなバートレットは消えただけだし、ベルフォードは宰相補佐としてお仕事中だ。アランはお忍び旅だ。どこの催しに出て、どこまで露出させるか、領の広報担当とすり合わせ中なのだろう」
「ぜんぜんお忍びじゃないのね」
「それでもいつもよりは自由らしい。街道を駆足出来たって喜んでいる。王子としては常歩が常で速足もできないのにねって。戦場ではあいつは先陣を切って襲足しているくせにな」
「あなたも次は殿下と馬を並べたら? もっと喜ばれるのはなくて?」
「私は馬に乗れない」
「まさか」
「本当だ。私が怖いと犬猫は勝手に逃げる。だが、鞍を付けられて手綱を握られた馬は逃げられない。そこで恐怖から逃げるために心臓を止めてしまうのだ」
私はきゅっと口元を引き締めた。
また知っちゃったわ、ダミアンの不幸。
確かにここまで来るまでに通った町や休憩所にて、必ずいるはずの猫や犬の姿を見たことが無かった。それは、犬猫がダミアンの存在が怖いからと逃げていたってことなの?
「鼠に齧られることは一生ないな」
「そ、そうね。そうよ、弱い生き物が逃げるだなんて、あなたの領地は安泰ね。魔獣の出現は少ないでしょう?」
「ああ、残念なことにな」
「残念ですの? 大型魔獣は駆除が大変でしょうに」
「大型魔獣しかいないんだ。ホーンラビットなどの小型魔獣が少ないせいで、常に腹をすかせたホーングリズリーなどが徘徊している。時々人里にまでやって来る。危険極まりない」
「そ、それは、かなり危険ですわね」
私の頭の中は、角が三本ある大型の灰色熊が何頭も家の周りを歩くイメージで一杯になった。もちろん私は生態について魔獣討伐全集を読んで知ってはいるが、生きたホーングリズリーなど見た事は無い。外見など書物の挿絵か王都の自然史博物館に飾られていた剥製の知識しかない。
「ダミアン。王都の自然史博物館に飾られていたホーングリズリーの剥製って、もしかしてゴーライエン領産だったのかしら?」
「その通り。ちなみにその剥製の棚がある部屋の天井にぶら下っていた、アイスワイバーンの骨格標本は、私が十四の時に狩ったものだ。ソロで」
アイスワイバーン 氷属性の魔法も使える翼の生えた大トカゲ
獰猛また悪食 動くものは全て餌だと思って襲い掛かって来る
討伐には最低でも二十人以上を推奨
私の頭の中に、魔獣討伐全集の、それも出現されたら災害ランクのページに載っていた、ワイバーンについての説明が図解と共に蘇る。ブーラブーラ天井で揺れていた、クジラみたいに大きな骨格標本も。
「討伐には二十人は必要なあれを、お一人様で?」
ダミアンはにっこりと笑い、ゴーライエン領の危険度(特に領主様)を知った私が腰を抜かす前に、私を柔らかな座面に座らせた。
ソファ?
あら、私はいつの間にか挨拶もしていない人の家の客室に連れて来られていたようだ。それもサロン付きの、豪華なお部屋に。
「失礼します」
私が驚きの声を上げる間もなく、座った私の前にお茶とお菓子が並べられる。
お仕着せを着たメイドは、訓練された使用人らしく人形のような無表情だ。ただし私の向かいに座ったダミアンの前にお茶のカップを置く時に、緊張した新人メイドがよくやる失敗をした。カチャッとあるまじき音を立てたのだ。
「も、もも申し訳ありません!!」
音を立てただけだし、一滴も零れていないのに。
「ほら、私は常に脅えられているし、脅えさせている。私に脅えないのは君だけだ」
私は笑いそうになった。
彼は使用人に対しても優しいのね。
「伯爵しか知らないメイドが侯爵に脅えただけでしょ。それからあなたに一言申しておきますけれど、我がカーネシリア家の爵位は男爵ですが」
「カーネシリア男爵家は建国時から存在する。我が侯爵家よりも名家だな。では、メイドは君に脅えたのか」
私は出来る限り優美な素振りで紅茶のカップを取り上げ、出来る限り威厳があるようにしてダミアンに微笑む。
「そのとおりですわ。私の方があなたより偉いのですもの」
ぶふっ。
笑ったのはダミアンと、家具みたいにして存在していなければいけない、謝罪中でもあったメイドだった。彼女は私の視線に気が付くと、真っ赤になって再び頭を下げる。
「も、申し訳ありません」
「いいのよ。あとはあなたのお仕事をなさい」
「はい。奥様!!それから閣下も、なんてお優しい方でしょう!!」
「ん、んん」
ダミアンは喉を詰まらせ、さっさと紅茶のカップに口を付ける。
何事も無い無表情を作っているが、ダミアンの耳は赤い。
「彼が可愛いのは内緒よ」
「はい、奥様」
「ん、んん」




