コスパとかタイパとかZ世代の流行について、一人のZ世代が思うこと
近頃、「タイパ」であるとか「コスパ」であるとか、よくZ世代が言葉として使っている印象があります。
それに対して私が、Z世代として思っていることを書こうと思います。
一応は、二つの概念の是非を問うことはありません。
今の大人の世代は、これをZ世代に対する批判の材料にする印象がありますが、私としてはこれを一概に間違っていると思考を回さずに言うのは、些か愚かだと思うのです。
さて、まず「タイパ」と「コスパ」という概念をご存じでしょうか?
まあ、意味合いなど言葉そのまんまです。
「タイムパフォーマンス」と「コストパフォーマンス」、「時間対効果」と「費用対効果」となるのでしょうか?
更に簡単にすれば、時間に対する最大利益と費用に対する最大利益、この二つを求める概念です。
この二つの概念というのは、分かると思いますが、別に大して酷いものではないのです。
私達の祖先は、機械を導入して時間による生産を最大化するよう努力しましたし、人件費を減らすことで利益を最適化してきました。
なので、言っていることとしては昔からやっていることと違いありません。
出来る限り時間と費用を減らして、大きく生産と利益を増やすことの方がメリットが大きいですからね。
逆に過去の体制に固執して、生産と利益を減らすのであれば、そちらの方がデメリットが大きいでしょう。
しかし、このタイパとコスパを求めすぎては、リスクヘッジが杜撰になる印象があります。
例えば、電子世界にあるこの文章というのは、もはやこの世から根絶することは難しいでしょう。
けれども、紙に書いた文章というのは、シュレッダーに掛けて燃やせばそれで情報の根絶が完了します。
これと同じようなことは、機密情報などでも言えます。
消去しても復元ツールがあるように、完全に消去するのは難しいですからね。
けれど、これも最適化を色々としている訳です。
昔は伝書鳩を使っていたのが、今や世界中何処でもネットから落とせるわけですから。まさにコスパもタイパも良いと言えるでしょう。
しかしながら、こういった生産の効率化ということ以外にも、娯楽の効率化というのが些か問題になっている印象があります。
例えば、音楽のサビだけを聞くであるとか、推理小説の結末だけを読むであるとかね。
私はですね、この娯楽の効率化というのは、大変に悪辣だと思います。
音楽というのは別にサビだけの物ではないわけです。
確かにサビが一番盛り上がりますが、超絶格好の良いギターソロ、ベースソロもあるわけです。それを全て飛ばして、サビだけを聞くというのは如何な物でしょう。
それに、小説だって同じです。
今回は先程推理小説を挙げたので、これを元に進めますが、推理小説には色々と順序があるわけです。
「事件の始まり」→「調査」→「推理」→「解決」と言ったね。
しかし、この解決だけを見るのであれば、推理小説の根本的意義を喪失していると言えるでしょう。
あくまで推理小説というのは、娯楽の文学です。
読者に対し、事件という謎を提示し、それについて随時情報を打ち明けることによって、それの道筋と解決を考えさせることが本質な訳です。
それを単に結末だけを見るのであれば、別に推理小説を読む必要性に酷く欠ける。
というか、全て結末だけを見るのであれば、それの意義に欠ける。
なのだから、私は思うのです。そういった人は、文学を読むべきではないと。
さて、こう言ったように私自身は、タイパやコスパという物に賛成する面もあれば酷く反対する面もあります。
生産行為と娯楽行為は、絶対的に隔絶されているべきなのです。