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剣道の光 第二話 久留米藩・御流儀 津田一伝流とは?

作者: 三野原明音

 みなさんは江戸後期に久留米藩で生まれた津田一伝流という剣術の流派をご存知だろうか。

 当時、久留米藩は、「筑前書、肥前公事、筑後武」と謳われるほどに武術がさかんなことで知られた。

 なかでもそのきっかけをつくったのは、久留米藩六代藩主則維公であり、上総国眞理谷村より眞理谷圓四郎義旭を招聘したことにはじまる。

 以後、藩主の手厚い支援の下、直心影流、神陰流、淺山一伝流、愛洲陰流などの伝統的な古流が競い合うように発展してきた。


 この他流ひしめく中に、新たな剣術の流派・津田一伝流を創始したのが津田正之である。

 正之は、文政四(一八二一)年、有馬家の「御流儀」・淺山一伝流を代々伝える津田家の師範役・津田傳の長男として生まれた。

 幼にして剣にその抜群の才を発揮し、刻苦勉励、二十歳のころにはすでにその奥義に達していたという。二十八歳の江戸在府の折には、江戸三大道場の一つ、鏡新明智流の桃井春蔵と立ち会い、これを破っている。

 のちに久留米藩最後の藩主となる第十一代有馬頼咸公は、幕府講武所総裁・男谷精一郎(勝海舟の又従兄弟)に正之を引き合わせたが、男谷は正之の剣論に深く賛意を示した。

 頼咸公はこの話しを聞き、正之に一派を開かせ、新機軸の流派を創始することを命じる。


 その後、藩の庇護もあり、正之の令名を聞きつけたもの数知れず、常に七、八十人の外藩の門人があり、遠く石州(島根県)は津和野藩、日向(宮崎県)の高鍋藩にも高弟を送るという活況を呈した。明治維新の三傑の一人といわれた長州藩・桂小五郎もその弟子であったという。

 嘉永六(一八五三)年、正之は家職を継いで有馬家の師範役となり、のちに御側物頭まで昇格し、津田岩雄・竹井吉堅・山脇虎次郎などの多くの優れた人材を輩出する。

 また、安政五(一八五八)年には、正之は姫路藩に招聘され、精鋭たちに十本勝負を挑まれたところ、ことごとくこれを退けたことから、同藩は高橋武成と甥の高田亥之蔵を正之の道場に派遣し、一伝流を学ばせた。高橋は進展著しく、ついに津田道場の師範代となり、帰藩ののちは無外流兵法・自鏡流居合・津田一伝流剣術の指南役として故郷で活躍した。


 余談となるが、この頃の九州の剣術は、柳河藩の大石神陰流の大石進が江戸の道場の腕試しで次々と他流を破ったため大騒ぎとなり、その後、津田正之、宗重遠、加藤田平八郎、松崎浪四郎などの久留米藩の剣士が上京し、試合を行ったことでその評価は決定的なものとなる。


 かなり飛躍するが、このような筑後の武の風土は、現在の「剣道王国・九州」の遠因の一つになっていると考えてもよいのではなかろうか。毎年盛況のうちに福岡市で玉竜旗高校剣道大会が開催されていること、また、全日本剣道選手権大会の優勝者に九州出身者を多数輩出していることからも、それは伺えるというものだ。

 全国の剣道場が二千二百、その五分の一が九州にあり、道場数五位が佐賀県、六位が福岡県ということだから、心身の練磨に剣道を役立てる風土が九州には既に根付いていると見て良いだろう。


 さて、津田正之の話に戻る。

 藩主からもその才を認められた正之の名は、当時、剣客が全国を渡り歩き腕磨きをした世相も相まって、瞬く間に世に知られることになった。流名を津田一伝流と定め、武具を従来の袋竹刀(竹の先端を細かく割ったものを革袋に挿入したもの)から竹刀(現在の四つ割り竹刀)に改めたことによって、その名声はさらに高まり、ついには朝晩数百名の弟子が教えを乞うようになる。


 ところで、ここで誰しも気になるのは、剣術界を席巻したこの津田一伝流とはいったいどのような流派であったのか、ということであろう。

 それを伺い知るものとして、小佐野淳氏著 「武術・浅山一伝流」の中の「津田一伝流印可極意」に次の一文がある。

「上段ノ構エ、是天ニ取テ陽也 下段ノ構エ是地ニ取テ陰也 (略) 是故ニ陰陽一躰、中段ノ構エ、是ニ留ル事ヲ知テ、流儀ノ本意トス」

 どうやら、津田一伝流の極意は中段の構えだったようである。

(第一話においてご紹介した、津田一伝流の免許皆伝を許された吉瀬善五郎は下段の構えを旨としたが、この件については別の機会に触れたい)

 

 このように一派を打ち立て、功成り遂げた正之であったが、やがて己の引き際を悟り、閑静な隠宅を建てて「遂退」と名付け、自らもこの名を号とした。

 ところが、その安穏の日々もつかの間、明治維新における廃藩置県が行われ、武術指南役は突然、廃止されることとなる。


「わが剣、終わる」

 そう書き残すと、彼は一切の伝書を焼き捨て、自刃して果てた。

 明治五(一八七二)年五月没。享年五十二。


 正之が自死する前年の明治四(一八七一)年、久留米藩は政府転覆の嫌疑をかけられ、明治政府は鎮圧軍を派遣した。結果、受刑者は五十七名におよび、藩主頼咸公も謹慎処分とされた。通称「藩難事件」である。

 このような藩体制の崩壊を目の当たりにした正之は、自身の指南役という地位を失ったばかりか、主家や藩への忠義心の行き場を失い、大いなる喪失感を覚えたに違いない。その心情は察するに余りある。 


 その後、廃城となった久留米城は一時陸軍省管轄とされ、のちに民間に払い下げられたが、実業家・緒方安平氏や有志の働きかけによって、初代豊氏公、十代賴永公を祭神とする篠山神社が明治十(一八七七)年に創建された。二年後の明治十二(一八七九)年には県社に列せられ、七代頼徸公、十一代頼咸公、十四代頼寧公が加わり、祭神は五柱となり現在に至っている。


 同境内には、久留米の郷土史における重要な出来事や偉人を称える石碑が合計十四柱も配され、地域の歴史を顧みるには格好のスポットである。

 この境内に、くだんの津田正之の「津田一伝流遂退先生之碑」(明治三十六(一九三〇)年建立)と、その息子・教脩の「津田一伝流第二世碑」(明治四十四(一九一一)年建立)がある。


 正之の長男・津田教脩は、嘉永三(一八五〇)年九月、十問屋敷(現日吉町)に生まれ、慶應三(一八六七)年、御近侍鎗組となり、明治五年、父・正之の後を受けて一伝流二世師範となった。

 のち、陸軍入隊後の日清日露戦役でしばしば軍功をあげ、椅子山・二台子の戦闘における活躍は世に広く知られ、「真剣勝負では天下無敵」といわれた。

 特に日清戦争の和尚山占領のとき、国旗代りに敵の血をもってハンカチに染めて日章旗としたことが有名であり、軍歌にも「奇智に富みたる津田大尉、敵の屍骸の血潮もて、即座に染出す日章旗…」と歌われたという。

 歩兵中佐連隊長。のち和尚山戦闘の功により従五位勲四等功四級。ちなみに、陸軍の日本式銃剣術は教脩が、古式槍術を研究して編み出したものである。

 戦時に彼の武勲はいわば伝説となったが、惜しくも大陸において凍河を騎馬でわたる際に怪我をしたことで退役を命ぜられ帰郷。養生に専念していたが、薬石効なく、死去した。

 明治四十(一九〇七)年三月没。享年五十八。



 ある日、私は、久留米城跡を見学するため、晴れの日に市内を訪れた。

 平日に訪れたこともあり、城跡はしたたるような木々の緑に覆われ、驚くほど静謐な雰囲気に満たされていた。鼻腔から吸い込む息も清らかで心地よい。

 本丸御殿があった丘の広々とした平地には、石畳の参道が緑青葺きの見事な拝殿へとまっすぐに伸び、そこには城跡特有の猛々しさもなく、ただただ神聖な気配があった。


 津田正之とその息子・教脩の記念碑は、この時が止まったかのような静かな境内の中、今も訪れる人々にその堂々たる姿を見せてくれる。


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【参考文献】

下記の文献を参考にさせていただきました。後記して感謝申し上げます。


久留米市役所, 『久留米市誌中編』, 昭和八年一月八日発行

久留米碑誌刊行会, 『久留米碑誌』, 昭和四十八年三月三十一日発行

小佐野淳, 『武術・浅山一伝流』, 平成二年十一月二十五日発行

久留米市市民文化部文化財保護課, 『久留米城本丸の城づくりを知る』, 平成二十六年九月発行

久留米市市民文化部文化財保護課, 『久留米城本丸石碑めぐり』, 平成二十六年八月発行

林洋海, 『シリーズ藩物語久留米藩』, 平成二十二年一月三十一日発行

福島正義, 『筑後の武と国士精神』

「津田一伝流」, 『フリー百科事典ウィキペディア日本版』, 最終更新日, 平成三十年三月五日八時十一分, UTC,

URL https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E4%B8%80%E4%BC%9D%E6%B5%81

「銃剣術」, 『フリー百科事典ウィキペディア日本版』, 最終更新日, 令和五年十二月二十八日,

URL https://ja.wikipedia.org/wiki/銃剣道

無外流兵法譚ホームページ, 『津田一伝流始末記』, 最終アクセス日, 平成三十年十月十日,

URL http://www.mugairyu-hyohotan.com/shindan01t.html

篠山神社ホームページ, 最終アクセス日, 令和六年八月二十七日,

URL http://www.sasayamajinja.com

平木信敬, 『日本一10年で9回・九州の剣道はなぜ強い?』, 日本経済新聞電子版, 最終更新日, 平成二十八年十一月三日,

URL https://style.nikkei.com/article/DGXMZ008979130R31C16A0000000?channel=DF130120166109





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