7.天使と悪魔に起こされて
「……て。……さい」
耳に、誰かの声が届く。
うるさいな。誰だ? 優美か?
兄ちゃんはまだ眠いんだ。起きたら遊んでやるから、今は寝かせてくれ。
「……ください」
ゆさゆさと優しく肩を揺さぶられる。
誰だ? 優美なら遠慮なく俺にダイブしてくるはずだから……母さんか?
「なんだよもう……もう少し寝かせて……」
目を開けると、美少女が僕を覗き込んでいた。
長い金髪が垂れないようにこめかみ辺りで手で押さえ、朝日に照らされた輝くような笑顔を僕へと向けている。
誰、だ?
長いまつ毛に少し下がり気味の目尻を持つ眼が優しげに見下ろしてくる。
微睡む中、その澄んだ綺麗な瞳にどこか安心するような心地よさを感じて僕は再び夢の中へと──。
「──うぉわっ! 誰っ!?」
僕は飛び起きて慌てて美少女から遠ざかる。
「おはようございます。あなたの天使ですよ」
両手を胸の前で合わせると、美少女は同じく輝くような笑顔を僕へと向けてくる。
「ルシ、ア?」
「はい、ルシアです。おはようございます」
ルシアはふわりと笑うと、ぺこりとお辞儀をした。
「どうですか? ドキドキしましたか?」
「ドキドキ?」
「こうすると男の人はドキドキして惚れちゃうらしいと聞きまして。ちょっと恥ずかしかったですけど、頑張りました」
えへへ、とルシアは気恥ずかしそうに笑った。
くっ、可愛い。認めたくないけど可愛い。
寝起きのぼんやりとした空っぽの頭にガツンと衝撃を与えて一気に頭を覚まさせるくらいに可愛い。
女の子が気恥ずかしそうに笑うのってなんでこんなにも可愛いんだろう。しっかり者っぽい人が恥ずかしそうにしている姿になんでこんなにもときめくのだろう。
いやいや騙されるな。
起こされたということは勝手に部屋に入られたということだ。
なんでこいつはこんなにもフリーダムに僕の部屋に入ってくるんだろう。
もう別に勝手に部屋に入るのは構いはしないけど、さすがに寝起きドッキリみたいなことはやめてほしい。
目を覚ましたら目の前に女の子の顔があるとか心臓に悪すぎる。
「なにデレデレしてんのよ」
ルシアの後ろに控えていたフィーネが、つまらなそうに呟いた。
「お前もいたのか」
「なによ、居たらダメなの?」
ダメだと思うけどな。寝起きドッキリみたいな事をする時点でダメだと思うけどな。
「もう、今は私が大和さんを起こす番なんですから。私を見てください」
頬に手を添えられ、天使の方へと顔を向けさせられる。
「他の女の子に目移りするなんて、いけない人ですね」
顔を固定されて至近距離でじっと目を見つめられる。
天使というだけあって人間離れしたその端正な顔立ちに思わずドキリとしてしまう。
青い瞳はどこまでも澄んでいて僕の心を映し出してしまいそうなほど綺麗だった。
僕はルシアの瞳から逃げるように顔を外そうとした。
けれど僕の頬に添えられたルシアの手がそれを許さない。
いったいあの細腕のどこにそんな力があるのか、僕の顔はガッチリと固定されていくら首に力を入れても動くことはなかった。
「これは、お仕置きが必要かもしれませんね」
少しだけ目を細めて、ルシアは僅かに微笑んだ。
その顔にゾクリと背筋に悪寒が走る。
このままではいけない。
いつの間にかルシアのペースになってしまっている。
「はいそこまで」
僕とルシアを隔てるように目の前に手の平が現れた。
「ええっ、もうですか?」
「起きるまでって話だったでしょ。だからもう終わりよ」
そんなぁ、とルシアは残念そうに僕から離れた。
「おはよ。可愛い寝顔だったわね」
「──っ!?」
フィーネの言葉に、顔が赤らむのがわかった。
そうか、こいつらが寝起きドッキリをしてきたってことは僕の寝顔を見られたってことか。
くっ、不覚にも動揺してしまった。寝顔を見られて動揺するとか乙女か僕は。
「もしかして、照れてる?」
「照れてない」
「ふぅん、そう」
含み笑うようにして、フィーネはそれ以上は何も言わなかった。
「さて、では次はフィーネちゃんの番ですね」
「「はぁ?」」
僕とフィーネの声が重なった。
「どういう意味?」
「そのままの意味です」
「だからそれが分からないって言ってるのよ。あたしが大和を起こすってどういうことなの?」
「どうもこうも、大和さんにはもう一度寝てもらって、今度はフィーネちゃんが起こすだけですよ?」
「それの意味がわからないって言っているのよ。大和はもう起きているでしょ?」
「それはですね……」
トン、とルシアが僕の額に人差し指を当てた。
なんだ? これでなにが……あれ、なんだか、目蓋が、重く……。
そこで、僕の意識は途絶えた。
「……しょ」
耳に、誰かの声が届く。
なんだろう、体が重い。動かそうとしても上手く力が伝わらない。
ハードな筋トレをした次の日のような、マラソン大会で全力を出しきって燃え尽きた後のような、そんな気怠さが全身を覆っている。
「……ですか?」
「いま……わよ」
この声は、あの二人か。
なんか言い合いをしているみたいだけど。
というかどう状況なんだ今は。
ルシアに額を小突かれたら急に全身から力が抜けて眠くなって……まさか魔法でも使われたのか?
いや、まさか、そんなことは。
「ね、寝てるわよね? ちゃんと寝てるわよね?」
とんとん、と肩を叩かれる。
いいや、起きてる起きて……ダメだ、どんなに力んでも体が動かせない。それどころか声すらも出すことがかやゆのない。
まるで自分の体じゃないみたいだ。意識だけ鮮明で体は眠っている金縛りのような状態だ。
「…………よ、よし。ちゃんと寝てるみたいね」
ごきゅっ、と盛大に生唾を飲む音が聞こえたかと思うと、何かが僕を跨ぐように覆い被さった気配がした。
「それは……ちょっと大胆すぎじゃ……」
「うるさいわね。お、男はこういうものが好きなのよ。ま、まあ、お子様なルシアには分からないでしょうけどね」
「顔真っ赤ですよ?」
「うるっさい!」
なんだ。なにが、なにが起こっているんだ。
くそっ、体が動かない。ならばせめて目を、せめて目だけでも開くことは出来ないものか。
「お、起きなさい、よね。……ほ、ほら、朝よ。いつまでも、寝てないで、起きたら、どうなの?」
「いいですよ。ほらもっと囁くように、しなだれかかって耳元で吐息混じりに艶かしく」
「うるさいわよ。アドバイスしないで」
フィーネが力を入れたのか、ベッドがギシッと揺れた。
「うぅ……なんで私がこんなことを……」
そう思うなら止めればいいと思うのは僕だけだろうか。
というか全然体が動かないんだけど本当にどうなってるんだ。
体も目もダメとなれば、せめて声だけでも出せればこの異常事態をどうにか出来るかもしれないというのに。
「っ……ぅぁ……」
声が出た!?
よし、このまま体も動かせるようになってくれ!
「ほ、ほら、起きそうですよ。早くしなくちゃ起きちゃいますよ」
「わ、わかってるわよ」
ふわりと花のような甘い香りがした。
それと同時に頬に絹糸のようにさらりとしたものが垂れる感触が伝わる。
「ねぇ、起きて?」
「──っ!?」
背中がぞくりとして全身に鳥肌が立った。
吐息が耳にかかり、甘い声が鼓膜をくすぐり頭の中を反芻する。
「起きないと、いたずら、しちゃうわよ?」
ふふっ、と小悪魔的に笑う声がビリビリと耳を痺れさせる。
やばいぞこれは! これはやばいぞ!
今まで誰かに耳元で囁かれたことなんかなかったけど、この吐息混じりの甘い声で囁かれるのはやばい!
みんなのお耳のお友達であるASMRより遥かにやばい! これが現実か!
そして僕が置かれている状況から察するに、フィーネが僕を押し倒すような形で跨って顔を寄せている確率はかなり高いはずだ。
そんな状況下でこの甘い香りと吐息混じりの甘い声。
否応なしに体が反応してしまいそうになる。
ぞくぞくと背中が反応する度に新たな扉を開けてしまいそうになる。
ダメだ。その新世界は足を踏み入れると戻れなくなる。
一度きりの片道切符だ。捻れた性癖は二度と元に戻ることはない。
このままだと添い寝系のASMRを買い漁ってしまうことになってしまうかもしれない。
くそっ、動け! 動けよ僕の体! これ以上僕の性癖を開拓させてたまるものかっ!
「起きないってことは、いいのかな? 女の子にいたずらされても、いいのかな?」
どくん、と心臓が高鳴るのが分かった。
まずいまずいまずい! これ以上は帰ってこれなくなる!
「それとも、いたずらをしてほしくて、寝ているふりをしているのかな?」
小悪魔な笑い声が耳元で上がり、ゆっくりと離れていく。
うぉぉぉぉ! 畜生ぉぉぉ! 体よ動けぇぇぇ!
「そんないけない子には、おしおきをしなきゃ──ぁっ」
力を振り絞ってなんとか目を開けると、目の前にフィーネの顔があった。
直前まで僕の耳元で囁いていたからなのか、鼻が当たりそうなくらい近くに、真っ赤に染まったフィーネの顔があった。
「なな、なに勝手に起きてるのよ! 起きるなら起きるって言いなさいよね!」
フィーネは元から赤かった顔を更に耳まで真っ赤に染めると、ゴキンッと首を痛めるんじゃないかという早さで顔を逸らして飛び引いた。
あ、危なかった。今のは危なかった。ちょっと心奪われそうになってしまった。引きずり込まれそうになってしまった。
いまだに鳥肌と動悸が止まらない。
「おはようございます。いい夢は見れましたか?」
にっこりとルシアが笑っていた。心なしか肌艶が良くなってツヤツヤ卵肌になっている気がする。
この天使、まさか楽しんでる?
僕が胡乱な目をルシアへと向けると、ルシアはニコニコの笑顔を向けてきた。
うん、楽しんでるなこいつ。僕とフィーネで愉しんでやがるなこいつ。
「さて、大和さんが起きたことですし、朝御飯にしましょうか」
名案だと言わんばかりにポンと手の平を合わせると、ルシアは立ち上がり扉へと向かう。
「フィーネちゃんも行きますよ」
「はいはい、わかったわよ。まったくもう、なんだったのよ今の」
「そんなこと言って、フィーネちゃんもノリノリだったじゃないですか」
「ふんっ、誰がよ」
二人は仲良さげに僕の部屋から出ていった。
次からは寝る時は鍵をかけておこう。
僕は防犯対策の重要性を改めて認識することにした。