90 魔技
最終話です。
何もない空間は何もないが故にある。
全てのものが存在しないということは、それだけで完結しているのと同義であり、ないという事象のみ存在するからこそ全てあると言える。ないという事象のみがあるからだ。
それを可視化したならば、恐らく終わりのない真の闇だけが広がる空間になるはずで、ジンが見ている景色こそこれだった。
ジンはそれが己の心象風景であると自覚している。それが膨大に過ぎるために顕現できないとも。
しかし今は事情が少し異なる。
なにしろ心象風景に重なって、現実の景色もまた写しているからだ。
ジンが薄く目蓋を開けると、まず目に入ったのは恐ろしく巨大な牙が己に突き立つ光景だった。夥しい血が自身から溢れて半身を濡らしている。
痛みは麻痺しているのか感じない。暖かくも寒くもない。いっそ快適と言っていい。
これはジンの体が、今動けなくなれば死ぬと本能で理解しているためだった。あらゆる感覚を遮断あるいは騙しているのだ。
徐々に巨獣の口に咥えられているらしいと理解すると、今度は何故に食いちぎられていないのか疑問が鎌首をもたげる。
その答えは単純で、闇刀がジンとキバの間に挟まっているからである。背中側は牙が深く貫いているため、もし闇刀がなければ牙は貫通して肉体をバラバラに引き裂き、ジンは即死していただろう。
状況を朧げながらに把握したジンの消えかかった意識の片隅に、ゲンキの姿が引っかかった。彼は何かを叫んでいるが、ジンにはそれ以上が分からない。
ノーム、ダズが果敢に攻めていたかと思えば、ドラコーンが強力な魔技を放つ。
しかしどれも他人事で、ジンは上の空に眺めることしかできなかった。
それらの光景は半身が捉えたもので、もう半身は心象風景に浸かっている。そこは何の感慨も必要ない世界なので、外にある半身が伝達した情報も意味を持たない。
心象風景に半身が浸かっていなければ、ジンは瞬く間に死ぬだろう。しかし心象風景の中ではジンの意識だけ保たれていればよい。
どういった経緯でこの状態に陥ったか。それは本人にも定かではないが、この状態がジンの意識を繋ぎ止め、今少しの時間を作ったことは確かである。
ジンは仲間たちが巨獣を倒そうとしていること。そして恐らく自分を助けようとしていることを認めた。
希薄な意識の中でもジンは仲間の役に立とうと考える。そこには感情がなく、当然のことをするのだという、ある種のプログラムに近い無意識が働いていた。
そして自身を媒介にして現実と心象風景を繋いでいたジンは、この時ついに魔技の秘奥へと至った。
心象顕現。その名を無天消地。
天は無く、地も消えた世界。
何もないが故に全てがある世界。
失い、満たされないからこそ満たされた世界。
ジンの心象顕現は一瞬だけ展開された。
本当に一瞬の出来事である。
たったそれだけで溢れ出した無は無貌の巨獣と、その頭上で嘲笑っていた司祭を呑み込んだ。その後、無が晴れた場所には削り取られた大地と大穴。そしてその縁にジンが倒れていた。
無貌の巨獣の頭上にて混沌を楽しんでいた混沌教の司祭は、ジンの心象風景に呑まれたことを理解していなかった。
ただ、想定外のことが想定外のタイミングで起こり、自らの敗北と死が等号で結びついたことだけを悟っていた。
「これは、どういうことかな」
発声しようとして出来ない。
体に意識を向けると呼吸が止まっていた。耐え難い息苦しさに見舞われた司祭は、すぐに口の中の水分が泡立つのを感じる。次いで頭の中が、いや身体中がはち切れんばかりに膨張するのを止められずにいた。
わずか数分で人間としての肉体が死んだ。
司祭の後ろではパンパンに膨れ上がって絶命した異形王と、かつて司祭だったものが浮いている。
この異常事態に司祭は内心、笑みを浮かべた。さしもの彼も意識だけで残留することが出来るとは埒外だったが、だからこそこの場所が何か判別がついた。
「よもや心象風景に囚われるとは」
あの状況で心象風景を展開できた人物は1人しかあり得ない。
心象顕現の強度とは、ひとえに魔技師本人の心によって決まる。意志の強さと言い換えてもいい。
司祭が意識だけで存在できることも、理屈を考えれば意志の強い魔技師であれば可能性がある。心象風景ではそれだけ意志の力が作用するからだ。
ジンの黒い魔力、絶望に形を与えたような魔力の脅威は、利用した側である司祭がよく知っている。
だからこそウェウリンの魔力と引き換えに生き残ったジンは、司祭からするとイレギュラーであり、早期に始末する対象だった。
黒い繭を囮に使い、反撃の余地なく奇襲で屠るために異形王——無貌の巨獣——という大駒まで伏せたというのに。まさか死の淵で心象顕現を使うだなんて。
司祭の今はない背筋にぞくりとした震えが走る。
これぞ、混沌。
司祭には未だ興奮に身を捩る余裕がある。
心象顕現を破る方法は3つ。
心象風景を展開している魔技師を倒すか、結界を破って範囲外に離脱するか、こちらも心象顕現を使うか。
司祭が取る方法は3つ目だった。
イレギュラーとはいえまだ拙い。これを破れる確信が司祭にはあった。
心象顕現と異界創造を同時に発音する。
決して人の身では発音できない言葉が意味するところは即ちその2つを同時に発動するという、混沌教において人と異形を象徴する司祭だけが可能とする御業である。
「千貌神域」
灰の螺旋が司祭を中心に広がっていく。
混沌教の崇める神像そのままの姿、混沌の神が顕現する。それだけではない。次から次へと千差万別なこの世のものではない存在が這い出してくる。
それらは司祭であって司祭でない、本来は同一の存在でありながら、個々に独立した意思を持つ自己矛盾を孕んだ存在である。
全ての暗黒空間が収束する中心に座すものに仕えており、千の貌を持つとされる神の化身たち。司祭自身も、司祭が崇める混沌の神も、化身のひとつに過ぎない。
ひとつたりとて同じ姿のないそれらが司祭の広げた空間に形を得た。
司祭だけでなく個々の化身も神域を押し広げるものだから、爆発的にジンの心象風景が塗り潰されていく。
暫くして司祭は違和感を覚えた。
すでに街ひとつ分ほどの空間を神域によって支配している。にも関わらずジンの心象風景には際限がない。
一見して神域は広がっているように見えないが、歩いてみると確かに広がっている。神域の終わりに辿り着くと、その先には変わらず虚無がある。
「結界なのは間違いない。でも空間を区切っているわけではない……おや?」
神域と心象風景の境を見れば、少しずつ神域が崩れていた。
崇める神の化身でありながら未知のものに囚われる錯覚。恐怖と呼ばれるそれを知ってはいても、今まで味わったことのない司祭の心は形容し難い不快感に揺らいだ。
神域を押し広げようと思えば心象風景は簡単に押すことが適う。膨大な魔力を持ち、無尽蔵に神域を押し広げることもできる。だと言うのに不安が意識を絡め取る。
果たして終はあるのか、と。
同時に何度目か分からない悦の波が意識を冒す。
ジンは心象顕現を使った時、確かに心象風景を現実に顕現させた。その際に司祭と異形王を心象風景に取り込んだ。しかしそれは一瞬のことであり、その後すぐに心象顕現は解かれている。
では何故、司祭は心象風景に囚われたままなのかと言えば、それは簡単なことで単に心象風景に取り込んだに過ぎない。
顕現させた心象風景を丸ごと自身の奥底に広がる魂の内側へと取り込んだ。つまり司祭は今、本当の意味でジンの内側にいる。
現実の世界に顕現させなければ心象風景の維持に魔力を割くことはない。何故なら心象風景とは、そもそも常に存在するものだからだ。多大な魔力が必要なのは、それを現実に顕現させようとするからである。
魔力を消費しないジンと、魔力を消費しなければ神域を拡張、維持出来ない司祭。どちらが優勢かと言えば前者であるが、司祭にそれを知る術はない。
無間地獄めいた虚無の中、魔力が尽きた時が司祭の終わりである。
大穴の縁に横たわるジンをドラコーンがそっと覗き込む。
ジンは意識を失っていたが、彼の傷跡は皮膚上の黒いもので塞がっていた。それと右半身も同じものにより押し固められている。
大事なのはジンに僅かながら息があるということだ。
「よ、かった……」
次期にノームたちが様子を観にやって来るだろう。戦いが終わった今、魔技師である彼らにとって現在のドラコーンは滅する対象に他ならない。
知り合いを殺させるようなことはさせたくなかった。きっと後味は悪いであろう。特にゲンキは仲間と呼べる存在だ。
だから彼女は重い体を引き摺ってその場を離れることに決めた。自身もまた両腕を肩から失う瀕死の身であったが、異形化していた影響もあって動くことは適った。
どこか遠くへ行こう。人跡未踏の樹海もいい。とにかくひっそりと……暮らそう。
またジンに会いたいという未練を断ち切れない自分に自嘲しつつ、それでもいいかとドラコーンは思い直す。
やがてドラコーンが去った後、ノームたちがやってきた。ゲンキは意識を取り戻したものの動けないためダズに背負われている。
「ジン、生きてるか?」
友達に近づいたノームへ問うたゲンキの声は震えていた。
ノームが神妙な面持ちで振り返ったものだから、ゲンキを含めた皆が固唾を呑んで次に発せられるであろう言葉を待った。
「生きてる。ジンは生きてる」
「そっか、生きてんだなぁ」
「おいおい他に言うことないのかよ?」
「へっ、俺のダチがそう簡単にくたばるものかよ」
「そういうことにしといてやるよ」
ゲンキはジンへの信頼を言葉にするが、涙ぐんでいるので強がりだとバレていた。
大人たちの生暖かい視線に耐えかねたゲンキが今後のことを聞く。
「とりあえずジンを医者に見せる。衰弱しているし、あの出血量だ。正直、生きているだけでも奇跡に近い」
「ですが動かすのは危険ではないですか?」
「ああ、俺もそう思う。だから二手に分かれよう。ゲンキとムラサキの負傷者2人はジンを屋根の下に寝かせた後、同じ場所で待機。俺とダズは連盟本部に報告した後、すぐに医療班を連れて戻る」
連盟本部まではかなり距離があるため片道で数日かかることが予見された。ノームとダズは昼夜問わず強行軍をして2日で踏破するつもりだった。
なお、帰りはホバーライドを無理矢理にでも拝借する予定であった。本来は事前申請が必須なのだが、今回は人命が懸かっているとあって始末書でもなんでも書いてやる腹づもりだ。
「分かった。ジンのことは任せてくれや」
「自力で移動できない重傷者2名ですか、此方はなんとかしますので、2人とも早く戻ってきてください」
「ああ、ジンとゲンキを運んだら早速出発しよう。ダズもそれでいいな?」
「構わん」
怪我人を移動させた2人は出立してから数日後、ホバーライドに乗って帰ってきた。
一緒に来た医療班はムラサキとゲンキは命に別条なし。ジンは早急に専門的な集中治療が必要とした。なお、ノームとダズも重傷だったので安静を命じられたのだが、抵抗したために拘束され安静にさせられた。
斯くして戦いは幕を下ろした。
無貌の巨獣改め異形王は未曾有の危機を齎す前に打倒され、諸悪の根源たる混沌教の司祭は心象風景の虚無の中で運命られた緩やかな滅びに抗っている。
異形が世の中から消えたわけではない。ましてや魔技師の任務がなくなったわけでもない。異形にまつわる犠牲は無くならないし、これからも悲劇は繰り返されることだろう。
しかし彼らの戦いが一先ずの終息を迎えたことに疑いの余地はない。彼らは安息と束の間の平和を手に入れたのだ。
これは物語のひとまずの終わりを意味する。
異形が現れて魔技師が動けば、また新たな物語が紡がれることもあるかもしれない。でもそれはまだ少しだけ先のお話し。
読んでくださった方々ありがとうございます。
同日投稿のエピローグをもって拙作「魔技師」は完結となります。いま少しばかりお付き合いください。




