09 多忙
マラソン大会が嫌いでした。
この日、ジンは珍しく寝坊した。
思えば屯所で形見の品を受け取った日からの数週間、忙しく過ごしていたのだから疲労が溜まっていたのだろう。
まずジェイムズ・シルバーの葬儀が執り行われた。会葬者はおらず、祖父母や親戚の類もジンにはいなかったことから、非常に慎ましやかな密葬となった。
ジェイムズ・シルバーに人徳がなかったわけではない。ジンが呼ばなかっただけだ。実際にジムの死を悼む者はたくさんいた。
このメモレクサスという町の周辺地域において、魂を弔う儀式は親族内だけで執り行われるべきものであり、むしろ部外者を招くことの方が稀であった。
それにしても親族が1人しかいない葬儀が滅多にないことに変わりはないのだが。
さて葬儀が終わった後、ジンは遺された財産の整理をした。
父と母それぞれの部屋はそのままに、主だった家具や形見の品だけを残して、それ以外の家財の一切を処分してしまう。
これから暫くはウェウリンの世話になるので、管理できない雑多なものは処分してしまおうという考えだった。
物のなくなった家だが、思い出は詰まっている。
ジンは週に1回程度、家の手入れや掃除のために足を運ぶつもりであったが、それでも生まれ育った我が家を離れるというのは、やはり寂しいものであるらしかった。
このようにして数週間は瞬く間に過ぎた。
今、ジンの目には、すっかりと見慣れた天井が映っている。白くてシミひとつない天井だ。吊るされた照明には埃ひとつない。
もそもそと起き出して、ふわふわの絨毯に足を下ろす。この感触も初めこそ驚いていたが、この数週間で馴染んでいた。
この部屋はウェウリンがジンに与えた私室であり、屋敷に複数ある客間のうちのひと部屋に過ぎない。
部屋の広さといい、置かれている調度品といい、見るものが見ればウェウリンの財力を推し量れるであろう。端的に言えばウェウリンはお金持ちだった。
ジンは簡単に身支度を整えて2階の客間を出ると、階段を降りて1階の食堂に向かう。
朝と呼ぶには遅い時間であったが、食堂にはウェウリンがいた。熱々のコーヒーを啜りながら、最近刊行されたばかりの短編小説の世界を堪能している。
「師匠、おはようございます」
「……ああ、おはよう。随分と遅い起床だな。あれだけ忙しければ無理もない」
「いえ、寝坊してしまい申し訳ありません」
「あまり気にし過ぎないことだ。ゆったりとした朝の時間も、たまには悪くなかったことだしな?」
「気をつけます」
「うむ。それより食事にするといい。アイリーン、簡単なものを用意してやってくれ」
「承知致しました。それじゃあジンくん、先にコーヒーをどうぞ」
「ありがとうございます、アイリーンさん」
アイリーンと呼ばれた侍女は、ポッドから湯気を立ち昇らせる液体をカップに注ぎ、食堂の奥にある厨房に消えた。
アイリーンは妙齢の女性で、ウェウリンが幼い時から彼女に仕えている。この屋敷では侍女頭を務めるほどに信用されていた。
包容力のあるお姉さんであり、ジンのことを実の弟のように可愛がっているが、反面ウェウリンに仕え続けるために、独身を貫く忠の人でもあることをジンは知っている。
ジンはブラックコーヒーが苦手だが、亡き父がよく飲んでいたことから飲み始めた。
最近では味を楽しむ余裕まである。今日のコーヒーは甘くコクがあり、特に香りがよかった。しかしやはりまだ子供なのか、苦いものは苦手だった。
そうしているうちにアイリーンが、厨房から食事を運んできた。
「サンドイッチよ。どうぞ召し上がれ」
「いただきます」
タマゴやハムのサンドイッチを美味しい美味しいと頬張るジンを、アイリーンがニコニコと眺めている。
「ごちそうさまでした。アイリーンさん、今日も美味しかったです」
「お粗末さまでした。ジンくんに喜んでもらえて嬉しいわ」
アイリーンは空いた皿を持って厨房に下がっていった。
ジンの食事が終わったのを待って、ウェウリンが声をかける。
「腹ごしらえは済んだようだな。遅くなってしまったが、今日の修行を始めるとしよう」
「はい、今日もよろしくお願いします」
「うむ。食休みが終わったら、館を出て、運動場まで来るように。私は先に行く」
ウェウリンが席を立つ。
ジンは言いつけ通り四半刻の食休みを経てから、慌てることなく、屋敷の敷地内の一画にある運動場に向かった。
運動場は地面がむき出しの広場であり、何が置かれているわけでもない。整備されているが、それも均されているだけであった。
その運動場でウェウリンが待っていた。手には木剣が1本握られている。
「よし、来たな。準備運動を済ませたら運動場の周回を始めなさい」
ジンは屈伸運動に始まり深呼吸で終わる一連の準備運動を念入りに行い、十分に体が温まってきたところで周回を始めた。
周回とは一周200m程度の運動場を、ウェウリンが止めるまで走り続けることを言う。
体力強化の一環なので、あまりにもゆっくりと走ることは許されない。常に一定のペースを保ち、適度に力を抜いて走り続けることは意外に難しいものだ。
ちなみにこれまでの周回は軽めに設定されていた。理由はジンが忙しかったからだ。過労で倒れないように配慮されていた。
周回が始まってから一刻ほど走ったところで、ジンはそのことを痛感させられた。
読んでくださった方々ありがとうございます。