06 苦難
少し間が空いてしまいました。
事件後、ジンはウェウリンの手配でメモレクサス市内の病院へと運び込まれた。
打撲や擦り傷といった軽度の外傷しか見受けられないにも関わらず、一向に意識が戻らないことから精密検査も実施されたが、特に異常は見られなかった。
とりあえず様子を見るしかない。医師たちの意見は一致していた。
ジンは一般病棟の大部屋に収容されるはずのところ、院長の意向によって、個室のみの特別病棟へと収容される運びとなった。
わざわざ院長が指示を出す事態に「ジンが院長の隠し子なのではないか」などと病院関係者たちはあることないこと噂した。
それから3日後、ジンは意識を取り戻した。
「やあ、失礼するよ」
ジンの診療に、どういうわけか院長が自らやってきた。若い看護婦を1人連れている。
院長は問診、視診、聴診、触診と患者の状態を確かめていくが、ジンの身体に異常はなさそうだった。
「うん、健康そのものだね」
院長は歳をとって皺だらけになった顔をさらにくしゃくしゃにした。診察中は忙しなく動かしていた筆記の手を止めて、若い看護婦も微笑みを浮かべている。
「次は聞き取りをしていくよ。色々思い出して貰わなきゃいけないが、大丈夫かな?」
「えと、はい、大丈夫です。たぶん」
「うん。疲れてしまった時はいつでも言ってほしい。それじゃあ、まずは……」
穏やかに聞き取りの時間は過ぎていく。
質問は名前や年齢、家族構成などから始まって、最終的には意識を失う前の記憶について言及する。院長は都度「覚えている範囲でいい」と念を押しながら尋ねていった。
ジンは混乱する記憶を整理しながら、全体的に辿々しく、時に顔色を悪くさせて、それでも言葉を紡いでいく。とても信じられないような内容でも見たままを心掛けた。
「それで、ウェウリンさんに助けられて……目が覚めたら病院にいました」
「話してくれてありがとう。記憶にも問題がないようで安心したよ」
「信じて、くれるんですか?」
ジンは自分の話が非現実的だと自覚していたから、このお爺ちゃん院長があっさりと信じたことが意外に思えてならなかった。
「ジンくん、この際だから言っておこう。私は知っているのだよ。君の話に出てきた異形が、現実に存在することを」
院長の迫力に、ジンは息を呑む。
しかし次の瞬間、院長は引き締めていた顔をフッと緩めた。
「もっとも?ジンくんが、そのたくましい想像力を働かせ、私たちに作り話を聞かせたというのなら話は別だけれどもね?」
院長のジョークによって弛緩した空気が流れる。
院長という第三者によって、ジンが体験したことは事実だと認められた形になる。しかしそのことはジンに安心感を与えたが、同時に恐ろしい現実を突きつけてもいた。
あのような異形が少なくない数存在する。それも平和に営まれている日常のすぐ隣に、だ。
平和などまやかしに過ぎないのかもしれなかった。
「顔色が悪いね。少し話疲れたのだろう。今日はこのくらいにして、また明日……」
「あのっ」
「ん、どうしたのかな?」
何度か口を開いたり閉じたりしてから、ジンは意を決して院長に尋ねた。
ジンの尋ねたそれは、目が覚めてから幾度も頭をよぎった質問だった。記憶を呼び起こしながら話していた時などは特に。
「あの、その、僕の父さんと母さんを知りませんか?と、とても心配で……」
ジンが院長の顔色を窺うと、院長はとても暗い顔をした。難しそうな、何かを悩んでいる顔だ。それは院長だけではなく、同じ部屋にいる看護婦も同様だった。看護婦に至っては悲しげな眼差しをジンに向けている。
院長が席を立ち、緩慢な動作で病室の窓際へと動く。窓の外には整然とした都市の景観と、ところどころに青をのぞかせる灰色の空が、どこまでも続いているように見えた。
院長と看護婦の反応からある程度の察しはジンにもつく。少なくとも無事でいるとは思えなかった。
もしかしたら怪我をしているのかもしれない。あるいはジンがそうであったように意識を失っている可能性もある。だが、もしそれよりも悪ければ……ジンは心が不安に押し潰されそうなのを感じて考えるのをやめた。
それでも、念のため心の準備をする。もしもの時は、それを受け入れられるだけの覚悟をするために。
暫くして院長が口を開く。
「君は目が覚めたばかりだ。身体も弱っている。精神的にも不安定なのが見受けられる。だから今は知るべきではないと、私は思う。だが、それは私の考えだ。君の意志を尊重するべきだろう。だから尋ねたい。本当に今、知りたいんだね?」
院長は顔こそ向けないが、その背中は悲哀によって丸くなっているように見える。
ジンとしてもそこまで言われると怖い。けれども知らない方がもっと怖かった。
「教えてください」
院長が大きなため息を吐き出す。
「そうか、分かった。なら私も君に伝えるとしよう。どうか落ち着いて聞いて貰いたい」
君の父親は死んだ。母親は行方不明だ。
「嘘だ」
ジンは反射的にそのように口にしていた。
「事実だ」
「そんなわけない」
「事実だ」
「そんなこと……」
「事実だ。退院すれば、護憲兵から遺体の確認を頼まれることだろう。事件の起こった路地で見つかった遺体だ」
院長が遺体の特徴を挙げていく。
それは、どうしようもなくジンの父親、ジェイムズ・シルバーの容姿と一致していた。勘違いの余地もないくらいだった。
「だって、だって……」
路地で、誘拐された自分を追いかけてくれたジムの姿が、ジンの脳裏に映る。
商店街で買い物をしている時には、母さんが父さんと一緒に買い物に来るのを楽しみにしていたと知って喜んでいた。
朝食では新聞を読んで、いつもの、お決まりの愚痴をこぼしていた。
「どうざん……」
涙が溢れて止まらない。
そうだ、母さんは。母さんはどうしたのだろう。母さんは行方不明だと聞いた。
ジンは確かに聞いた。母さんは行方不明だと院長の口から聞いたのだ。その言葉が微かな希望をジンに抱かせる。
母さんは生きているかもしれない。
読んでくださった方々ありがとうございます。
※6/16 脱字があったので修正しました。