03 異形
今回、ややグロテスクな描写があります。苦手な方はご注意ください。
男は路地裏を駆けていた。
「離して!」
「このガキゃぁ……じっとしやがれ!」
小脇に抱えた少年が暴れるのを抑えようとする。より反発するのを殴って黙らせた。
男は走りながら頭を働かせる。
今回、少年を攫うに当たり、事前に依頼人から与えられていた指示を思い起こす。その中には、あらかじめ指定された逃走経路も含まれていた。
いくつかの事柄を思い浮かべつつ、自分が走っている路地が指定された逃走経路だと確信した男は、背後から迫る足音に慌てた。
頭だけを動かして振り向くと、攫った少年の父親ジムが追いかけてきていた。
「待てーッ!うちの子を放しなさい!」
「……!父さん!」
男は入り組んだ路地を全速力で、しかし器用に走る。曲がり角でも減速は一切しなかった。焦る心を上手く抑えていた。
そのうちジムの声は聞こえなくなった。
追手を振り切ったことで安堵したのも束の間、男は自分が袋小路にいることに気が付いて当惑する。
何か見落としたのか。逃げるのに必死で道を間違えたのか。来た道を引き返すのはいささか危険だが、いずれにしても袋小路にいる意味はなかった。
道を少し戻って違う角を曲がる。
しかし、どうにも様子がおかしい。
男の前には狭い路地が真っ直ぐに伸びている。事前に経路を確認している男だからこそ怪訝に思った。
だが、男は逃げねばならなかった。
意を決して足を踏み入れた男は、自身がおかれた状況の奇妙を悟る。
まず、どれだけ進んでも路地の終わりが見えない。たまに出くわす十字路を曲がってみても、また直線の路地が続くばかりだった。
風景の変わらない真っ直ぐに伸びた路地をひたすらに進み続ける経験は、まるで永遠と同じ場所を走り続けているような錯覚を男に抱かせていた。
「ちくしょう!ガキ1人攫うだけの楽な仕事のはずだったのに……なんだってんだ!」
男が悪態を吐いている一方で、攫われた少年ジンは先程から死にそうな顔色をしている。
誘拐されてからというもの。ジンは不安や恐怖、怒りなどの感情が肥大の一途を辿る傍らで、それとは別に嫌な予感を覚えていた。
その予感は時間の進行と共に、どんどん強く大きくなっていった。本能が警鐘を鳴らすというが、まさしくその音がけたたましく鳴り響いているようだった。
漠然とした生命の危機に、ジンは半ば限界を迎えていた。
「ひっ……」
男の足が止まる。
なぜ立ち止まったのか分からないジンが首を傾げていると、誘拐犯がジンを抱えている腕の力を緩めた。
突然のことに反応できないジンはそのまま落下する。ろくに受け身も取れず、無様に打ちつけられたジンが痛みに呻く。
男は数歩後ずさったかと思えば、そのまま体の向きを反転させて駆け出した。顔を上げたジンの視界には、自分に背中を向けて逃げ出す男の姿が映る。
男は何かを見て怯えた様子だった。白昼堂々、子供を攫ってみせるような男が逃げ出すようなものが、すぐ後ろにいる。
そこまで考えが及ぶ前に、ジンの頭上を何か黒いものが過ぎていった。
それは触手だった。
3本あるそれは、薄暗い路地にあって黒い光沢を放ち、くうを切る。伸びた触手が、背を向けて逃げる男の首に殺到した。
触手は絡みつき、締め上げ、そのまま男を持ち上げる。空中で足をバタつかせている。苦しいのだろう。触手を掴み、もがいている。
ボキンッ。
やがて嫌な音を立てて、男は動かなくなる。
糸の切れた人形のように手足がダラりとぶら下がった。体から力が失われていく。
伸びた触手が戻っていく。
空中で離された男だったものが、速度を増していき、地面に衝突した。肢体が投げ出され、首はあらぬ方向に折れていた。
死んだ男の、光を失った眼球が虚空を見つめている。ジンは男と目があった気がした。
勿論、錯覚だ。
初めて見る死体と言うものに目が釘付けになっているだけに過ぎない。
自身が現在進行形で抱いている感情の名前をジンは知らなかったが、呆然と眺めるうちに麻痺していた心が恐怖を呼び起こした。
生唾を飲み込む。
ジンはぎこちなく、後ろを振り向いた。
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