新婚初夜に「君にはお飾りの妻でいてもらう」と言われました。それなら飾ってもらいましょう!
こういうヒロインがいてもいいんじゃないかな、と思った。
「いいか、メルツェーデス。君と結婚したのは我がウェイバー伯爵家のためで、私が君を愛することはない! せいぜいお飾りの妻でいてもらうぞ!」
結婚式を終えた夜、夫となったウェイバー伯爵オットマーはメルツェーデスにそう宣言した。
新婚初夜である。
夫婦の主寝室である。
新婦のメルツェーデスは十五になったばかりの幼妻であった。
そのメルツェーデスに対し、こともあろうに愛人を引き連れてのお飾り宣言。貞淑を美徳とされる貴族令嬢であれば絶望に泣き崩れる所業であった。
指差しポーズまで決めたオットマーが喜悦を口端に乗せた時、メルツェーデスはその麗しいかんばせをほころばせた。
「まあ」
鈴の鳴るような、と形容するにふさわしい可憐な声。絶望するでもなく微笑む新妻に、オットマーと愛人のイルメラがわずかに怯んだ。
「殊勝な心掛けですこと。落ち目の伯爵ごときがわたくしの肌に触れるなど、畏れ多いというわけですのね」
ちがう。
予想が外れるどころか上から目線でメルツェーデスは憐れんできた。
「わたくしとしましても、いくら夫になったからといって二十も年上の……中年男性と床を共にするのは、さすがに……」
言葉を濁したメルツェーデスはイルメラをちらりと見やってからオットマーに視線を移動させた。おっさんの相手はそこの中年女で充分だろ。そう言わんばかりのメルツェーデスに、イルメラの片頬がひきつる。
「こ、婚約破棄された傷物を貰ってやったのだぞ! なんだその言い草は!」
唾を飛ばす勢いでオットマーが激昂した。
婚約破棄。
どんな清廉潔白な令嬢であっても瑕疵となる醜聞である。
たしかに一年前、メルツェーデスはシュルツ公爵家の次男ヘルムートと親友の伯爵令嬢フリーデ・ハルトマンに裏切られ、婚約を破棄していた。
「だって、ヘルムートとフリーデが泣いて頼むのですもの。わたくしにはついていけない、解放してくれ、と」
さすがにメルツェーデスが顔を曇らせた。
「たしかにわたくしはシェーファー侯爵家の一人娘、しかもフォン・エーデルシュタイン男爵その人でもあります。比類なき美貌とたぐい稀なる頭脳、そして自己研鑽を怠らぬ努力の持ち主ではありますが、ヘルムートとフリーデにも良いところはありますのに……あのように自分を卑下して……。いえ、わたくしの近くにいては自分がいかにちっぽけな存在であるか、みじめになるのは仕方がないとは思いますわよ? でもわたくしは責めたりしませんわ。天高く昇る太陽は、人間にも虫にも等しく光を与えますものね」
いかにも慈悲深く、ヘルムートとフリーデに胸を痛めているというようにそっと両手を胸にあてたメルツェーデスだが、言ってることは色々ひどい。元とはいえ婚約者と親友を虫扱いだ。
「よく自分のことそこまで絶賛できるわね!?」
あんまりなメルツェーデスにイルメラがツッコんだ。
「事実として申し上げたまでのことですわ」
メルツェーデスはにっこり笑った。
婚約破棄された令嬢など、もはやどこにも嫁ぎ先はない。さぞや打ちひしがれているだろうと思い、そこにつけこんでイルメラを認めさせようとしていたオットマーは一筋縄ではいきそうにないメルツェーデスにどうしたものかと迷った。なおこの男、自分の計画が十五歳の乙女にとってどれほど残酷であるかは気づいていない。
平民のイルメラと伯爵家のオットマーでは、オットマーが爵位を捨てるしか結婚の道はなかった。
オットマーとイルメラは互いに十八の時、花売り娘が暴漢に襲われていたのを助けるという、ヒーローとヒロインの運命のような劇的な出会いをした。
オットマーは伯爵家の嫡男、たった一人の跡取り息子でありながら婚約者がいなかった。名門ウェイバー伯爵家は『何に使ったのか覚えていないが贅沢していたら金がなくなっていた』といういかにも貴族らしい理由で借金まみれだったのだ。古くから続く名門伯爵家は貧乏という魔王になすすべなく敗北していた。貴族なら必要な、スペアとなる次男や娘がいないのも同じ理由である。
オットマーはイルメラのために名門貴族の名を捨てなかった。しかしだからといって、イルメラをどこかの貴族の養女にするなどの工作や、功績をあげ褒賞として結婚の許しを貰うなどの努力もしなかった。ただひたすら、父母が生きていた頃と変わらぬ生活を送り、イルメラを愛人として迎え入れて贅沢を許した。
メルツェーデスが婚約を破棄したという話を聞くや下調べもせずに結婚を申し込んだのは、はっきりいって金目当てである。たとえ焼け石に水であろうと今を凌げればそれで良い。没落は自分の死後、勝手にすればいい。オットマーは自分を生み育てた両親とまったく同じ思考で責任を放棄した。
「婚約を破棄しようと、わたくしちっとも困りませんわ。エーデルシュタイン男爵領は、栄えておりますもの」
純然たる事実を述べるメルツェーデスに、オットマーはぐっと言葉に詰まり、嫌な顔になった。
借金まみれの伯爵家と今をときめく女性男爵の結婚が決まったのは王命によるものだった。伯爵家が没落し領地が返還されても焼け野原では立て直すのは容易ではない。しかもその費用は持ち出しとなれば、王家にとって旨味がなさすぎた。そこで白羽の矢が立ったのがメルツェーデスなのである。
ようするに、徹頭徹尾政略結婚。新婚初夜に愛さないなどと宣言されても今さらの話だ。
五歳でヘルムートと婚約したメルツェーデスに、実家のシェーファー侯爵家は男爵位と領地を化粧料として与えた。親馬鹿によるものではなくむしろその逆、分家として五歳の娘を独立させたのだ。シェーファー侯爵夫妻はそれぞれ愛人がいることで有名だった。
跡継ぎの長男とスペアの次男、嫁入り要員のメルツェーデスを産んで、母は義務は果たしたとばかりに居を別邸に移した。おかげで長男は人間不信のヤンデレ、次男は理想を追い求めるチャラ男に育った。メルツェーデスを育てたのは使用人である。
愛を知らずに育ったメルツェーデスは化粧料の意味を理解するや両親と兄に期待するのを止め、そして考えた。わたくしを一番に愛してくれるのは、いったい誰なのだろう?
婚約者。友人。使用人。領民。候補はいくらでもいたが、一番となると難しい。なぜなら彼らにはそれぞれの生活と視野で世界を見て、順位を決めていたからだ。もちろん、愛しているかと問えば愛していると答えてくれるだろう。ただそれは、たとえ本心であっても憐れみからくることにメルツェーデスは気づいていた。メルツェーデスが一番か、メルツェーデスのためなら命を賭けられるかは別の話だった。
考えて考えて考えた末に、メルツェーデスは結論を出した。わたくしを愛する人ならここにいるじゃない。わたくしなら迷わずわたくしのために命を懸けられるわ。わたくしは最高に可愛らしいし、誇り高く真摯にわたくしと向き合える。わたくしの最高の理解者はわたくし。わたくしはわたくしの愛を喜んで受け入れるわ。いえむしろ、わたくしに愛されるより幸福なことがこの世にあるのかしら?
一周回って突き抜けたナルシストの爆誕である。
それからのメルツェーデスは自分溺愛街道を爆走した。手始めに領地の改革を行い、メルツェーデスの愛を形あるものとして知らしめた。自分を磨くことも手を抜かず、また自分付きの使用人にも完璧さを求めた。麗しい愛の女神たるメルツェーデスの世話をする使用人に、欠けたところなどあってはならないのである。彼らの努力を認めて褒め称え、働きに報いることも忘れなかった。最愛のメルツェーデスを取り巻くすべては完璧であり、不満の文字はメルツェーデスの辞書から恥じて逃げ出す。そう言わしめるほどだった。言ったのはメルツェーデスを溺愛するメルツェーデスである。
「ですのでウェイバー伯爵、そうご自分を責めることはございませんわ。ええ、どうぞ存分にそちらの方を遇してさしあげてくださいませ。王命に従うのは貴族の義務ですもの」
なぜそうも自信満々に言い切れるのか、オットマーにもイルメラにも理解不能だが、そういうところがついていけなかったんだろうな……、と婚約破棄された理由だけは察しがついた。
愛など微塵も期待していない、政略結婚。王家に厄介者を押し付けられただけ。メルツェーデスが笑って従ったのは、揺るぎない自分への愛に満ち足りているからだった。
「ふ、ふん! それならさっさとこの部屋から出ていけ! 西の使用人部屋なら使わせてやる!」
とはいえメルツェーデスからお飾りの妻で良い、と言質は取った。オットマーはようやく今夜のメイン、夫婦の主寝室から追い出しにかかる。
「まあ、なぜですの?」
しかしメルツェーデスは首をかしげた。
「なぜって、ここは主寝室だぞ!」
「それはわかっておりますが……お飾りの妻と言うのでしたらきちんと飾っていただかなくては」
「はぁ!?」
目を剝くオットマーにメルツェーデスはわかっているというように何度もうなずいた。
「わかっておりますわ。わざわざ飾り立てずとも、わたくしのうつくしさは女神の後光のように輝いてしまう――と言いたいのですわね? 日陰の身であるそちらの方がますます霞んでしまうのは悲しいことでございましょう」
「どっから出てくんのその自信」
「ですがそれは仕方のないことですわ。ウェイバー伯爵のお好みはそうした女性のようですし、そちらの方はわたくしには成りえないのですものね」
「別になりたくないわよ!?」
「ご安心なさって。海には海の、砂には砂の良さがありますわ」
「枯れてるって言いたいの!?」
あんまりな格差にイルメラが地団太を踏んだ。三十女渾身の地団太である。
「まあ、そんな。悪意のある受け止めかたをなさらなくてもよろしいのよ?」
「お前が言うな!」
イルメラをなだめていたオットマーがすかさずツッコんだ。メルツェーデスに悪気も悪意もないのだろうが、言葉選びに気遣いもなかった。
「わたくしが言いたいのは、各々自分にふさわしい部屋で休みましょう、ということですわ。わたくしは飾り立てるべき伯爵夫人。おわかりですわね?」
その解釈が正しいかどうかはさておき、正論である。
ウェイバー伯爵家でもっとも財力を持っているのはメルツェーデスなのだ。彼女が出て行ったらたちまち伯爵家は立ち行かなくなる。オットマーはぎりぎりと奥歯を噛みしめた。
これからはじまるはずだったイルメラとの薔薇色の人生が、メルツェーデスにすっかり塗り替えられていたのを悟る。しかも金ぴかの極彩色というまぶしくて目も開けていられない有り様だ。どうしてこうなったと後悔するが、メルツェーデスを選んだのはオットマー自身である。どうしてもこうしても、自業自得であった。
「……調子に乗るなよ」
結局そんな悪役の捨て台詞と共に主寝室を明け渡す。今日のところは引いといてやる。あきらかに負け犬のセリフだった。
「調子に乗っても良いのなら乗りますけど」
大の大人を言い負かしたという意識もないメルツェーデスはそんなことを言う。こてんと首をかしげ、頬に指を当てるおまけつきだ。メルツェーデスはオットマーの言い分を納得して受け入れ、正当な権利を主張したにすぎない。つまりは通常運転だった。
煽るつもりはなくてもメルツェーデスの言葉にオットマーはついにブチ切れた。駄々っ子のように癇癪を起こす。
「調子に、乗るな! と言ったんだ!!」
こめかみに血管を浮き上がらせて暴れるオットマーは先程のイルメラとそっくりで、なるほど夫婦というのは似るのだな、と二人が聞いたら泣きそうなことをメルツェーデスは思った。
この後メルツェーデスは自分を溺愛するあまり寂れた伯爵家はふさわしくないと断定し、勝手に改革していきます。オットマーとイルメラはそれに振り回されつつ、メルツェーデスに絆されて親子のような関係になって、最終的にオットマーとメルツェーデスは離婚。イルメラを貴族の養女にして再婚を果たし、メルツェーデスを養子に迎え入れます。
メルツェーデスはとにかく自己肯定感が強いので、その分きちんと相手を見て褒めるところは褒めるタイプ。
それで調子に乗っちゃったヘルムートとフリーデは、気づいたら落ち込んだ時に肯定してくれるメルツェーデスがいなくなって、しかも周囲には厳しい目で見られているのでどんどんマイナスに落ち込んでいきます。メルツェーデスに依存していたことにようやく気づいても遅かった。