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「失踪事件?」秋月と畑中が――多分に冷やかし半分で、運んでくれたコーヒーを松井に勧めながら新津が確認した。
小張は「私用のパソコンを取りに行く」と自分の部屋に戻ったまままだ戻って来ていない。
「葛西署の巡査長なんですが」と、コーヒーに添えられていたスティックシュガーを軽く振りながら松井が答える。「先月の中頃から連絡が取れなくなっているそうなんです」コーヒーに入れる砂糖は半分で止める。若干、糖尿の気があるようだ。
「自宅へは?」と、新津
「行きましたがもぬけの殻で、数年前離婚したという奥さん――元奥さんの所にも行ってみましたが、そちらにも連絡は来ていないそうです」
「蒸発?」
「彼の同僚や上司にも話を聞きましたが、そういうタイプの男でもないようなんですよ」
と、ここまで話したところで、カチャリ。と会議室のドアが開き、自前のノートパソコンと書類の束を手にした小張が戻って来た。
「すみません。スマホだけだとどうにも勝手が悪くて――」と、パソコンのセッティングを始めながら彼女も話に加わる。「でも、その程度の……『その程度』って言うとまた怒られちゃいますけど――その程度の事件であれば、わざわざここまでは来ないですよね?」
この小張の問いには答えずに松井は「どこで話?」と、コーヒーに入れた砂糖を丁寧に溶かしながら逆に彼女に訊ねる。「――と云うか、どの辺りから話を?」
「ああ、すみません」ピンポロン。と小張のパソコンが立ち上がる音を出したが、彼女は気にせず続ける。「会議室の前で『なにか忘れている気がするなあ……』と、ソクラテスよろしくボーっとしていたら『先月の中頃から』って言う声が聞こえて来まして――」どうも絡み合ったLANケーブルを解くのに苦戦しているようだ。「新津さん、そろそろWi‐Fi入れませんか?」
『まあ、最終の権限はこの署の長にあるんですが……』と言おうとして新津は口を閉ざした。うん。ウソは吐かないが要らないことも言わないのが処世術というものだろう。
「問題は、その『どこかの誰か』が警察官と云う点でして」と、松井。コーヒーのカップを持ち上げたが、飲むにはまだ少し早すぎたようだ。ふたたびカップをテーブルの上に戻す。
「でも、例えば司馬さんなら、」一瞬、LANケーブルを解く小張の手が止まった。『司馬さんなら』と言った自分の口ぶりに少しだけだが戸惑っているようだ。「例えば、その失踪された警察官を探す過程で他の失踪者を見付けたとか、何か別の事件との関連性が出て来たとか、そういう事でもないと、ワザワザここまで来ないと思うんですよね」絡み合ったLANケーブルがやっとすべて解けた。
「まあ、そうは言っても」と、会議室に置かれた無駄に大きなテーブルを足早に迂回しながら小張が続ける。「司馬さん本人は来ていないワケですが」
「いえ、まさにその通りでして」と、LANケーブルをパソコンに挿そうとする小張の様子を眺めながら、驚いた口調の松井が返す。「司馬くんもそこに引っ掛かったんです」
「他の失踪者?」と、小張。
「関連はまだ分からないのですが、司馬くんがどうにも気にしていまして」
「それで私の所に?」
この時、小張の口元が少し緩んだ事に新津は気付いたが、『要らぬ詮索はしないでおこう』と、自分に軽く言い聞かせた。
まあ、もちろん、この詮索自体が勘違いなのだが、彼は未だその事を知らない。
*
「それでは、失踪者の方々のお名前を」と言ってから小張は、再びソクラテスよろしく、しばらくの間宙を見詰めると、今度は急に何かを想い出した様子で、「ところで、松井さん」と言った。
「はい?」
「一課では、いつから単独行動も可能に?」