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「先ほど小張さんが言われた通り、私は今年の5月10日の木曜日に瑛二郎と会っています」男が再び床に置いたペットボトルを取り上げながら言った。「もちろん、約束して会ったワケではなく、偶然、家内と入った居酒屋にアイツが入って来たんです」また、水を一口だけ口に含んだ。
「目撃証言は?」と小張。
「取れています」と、即座に松井が返す。「瑛二郎さんらしき人物、それに堀井さんと奥さまの3人が食事をしているところをその店の店員とオーナーが目撃しています」
少しだけ首を傾げて小張が訊く。「確かに弟さんだったんですね?」
「はい。子供のころキャッチボールで私が付けてしまった右目の横の傷が残っていました。それに――」と、男が返す。
「それに?」と、小張。
「家内も『瑛二郎くんに間違いない』と――」
「奥さま――たしか、幼なじみの『麻里さん』ですね」
「はい。あいつも瑛二郎を子供の頃からよく知っていましたから。ただ――」
「ただ?」
「あの日、アイツが話した内容と、私や麻里がそれまでに聞かされていた内容が大きく違っていたんです」
「と、言いますと?」
「先ず、フクイチには行ってもいない。それに、ずっと東北で暮らしている。東京には仕事の用事で来た。また直ぐ仙台の方に戻る……等々、そんな事を言っていました。それから――」
「それから?」
「それから、」不意に、それまでの緊張感が途切れたのか、それともパソコン画面の調子が悪かったのか、男の顔が少し崩れたように見えた。「――なんだか、アイツ、とても幸せそうだったんですよね」
『幸せ』と云う言葉の違和感のせいだろうか、四人の会話と云うか空間が少し止まった気がした。その会話と云うか空間を動かそうとしたのだろう、
「休憩でも入れますか?」
と、新津が言った。また断られるかも知れないが、それでも、これが彼なりの気遣いでもあるのだろう。
「いいえ、」と男が言った。「続けさせて下さい」余程向こうの部屋は暑いのだろうか?彼は、何度目になるであろうか、床に置いたペットボトルを取り上げると、今度はその中の水の半分ほどを一息に飲み干してから、「……それから、3人で近くのバーまで行きました」と言って話を続けた。
「その店のフロアにはちょっとしたスペースがあって、少しぐらいなら踊ったりも出来ました」気のせいだろうか、パソコンの向こう側から音楽が流れて来ているような感じを受ける。「そこの店でボトルを入れて、私と瑛二郎は笑って、飲んで――また笑いました。ラジオから『大洪水の夜に』が流れて来ました」確かに、これは、その曲だ。「『踊りましょうよ』と麻里が言って、私と瑛二郎が交代で彼女と踊りました」
いつの間にか会議室のエアコンは止まっていた。しかし、凍えるような寒さが治まった気配はない。小張は、また、隣の席のマフラーに、手を伸ばそうとしていた。
「あの時――アーケードに座る瑛二郎を見付けたあの時、私はアイツを見逃すべきではなかったのだと思います。アイツが道を踏み外せば、殴ってでも道に戻すのが、本当の兄弟だったのだろう――と、今では思います。それが例え、刑務所にぶち込む事になっていたとしても」
再び工事の音が聞えて来た。しかし、何故だか、まるで、現実感がないようにも思われた。パソコン画面の向こう側の出来事だからだろうか?それとも、男の話を聞いたせいだろうか?
「私は、あの時、アイツを見逃すフリをして、アイツを見捨てていたのだと思います」
伸ばし掛けた右手が凍るような冷たさになっていることに小張は気付いた。パソコン画面の男の境界線がぼやけて行くのが分かる。彼は泣いているのだろうか?それとも、笑っているのだろうか?
「ラジオから『大洪水の夜に』が流れて来ました」確かに、男はそう言っている。「『踊りましょうよ』と麻里が言って、私と瑛二郎が交代で彼女と踊りました」確かに、これは、その音楽だ。「私は、この時になってやっと、瑛二郎も麻里のことが好きだったのだと――そんなことを想い出しました」