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「中央通りを南へと下って行きます。段々と運送会社の建物が増えて来ます。心臓が痛くなる位の速度で走っていた私は、不思議ですが、子供の頃の追い掛けっこを想い出していました。『あの頃ですら、こんなに真剣に走ったことはなかった』そう思った時、目の前に湾岸道路を行き交う大量の車が見えました」
石神井署会議室のエアコンの動く音は更に大きさと甲高さを増していた。男の、ある種悲壮感を帯びた告白を聞いていた女性は、そのエアコンの風の強さに、隣の椅子の背もたれに掛けておいた派手な模様の長い長いマフラーに右手を伸ばそうとしていた。
「私は咄嗟に、アイツに大声で『危ない!』呼び掛けました。しかし、するとアイツは、走りを止めることもなく、ただこちらを振り返って、軽く……多分、軽く笑った後、それで……それでそのまま、目の前を走っているトラックに飛び込んで行きました」
ドンッ!
画面の向こうで土管か何かが落ちたような音がした。こちら側の三人――松井茂、新津修一、小張千春――は一瞬ビクッとなったが、向こう側の男性はピクリとも動いていない。
そうして、一瞬――一瞬の事だったと思うが、その一瞬の沈黙の後、男は「すみません。騒がしくて。アパートの前で水道管か何かの工事をしているようなんです」とだけ言った。
「いえ、大丈夫です」と、マフラーの方に伸ばし掛けていた右手を引っ込めながら小張が言う。「こちらこそ、必要以上に驚いてしまって」
そう。こんなところで驚いていてはいけない。今日の本題はここからなのだから。
「それでは、」と、マフラーとは反対側の席に座っている男性に小張が言った。「この事故の裏取りについて。松井さんお願いします」
男性――警視庁捜査一課所属の松井茂は、その低いが重量のある体をパソコンの方に傾けながら、刑事生活四十年の実直な口ぶりで報告を始めた。
「事故が起きたのは、2016年11月3日。木曜日。時間は夜の9時半から10時の間で、場所も時間も先ほど堀井さんが話された内容とピッタリ一致しています。事故を起こしたドライバー及びドライバーの勤めている運送会社にも改めて聴いて来ましたが、まず、事実誤認や嘘は入っていないと思って間違いありません」
「弟さんの死亡も?」と、小張。
「当時の検死報告書を確認。当時の検視官にも――彼はもう退職していましたが、浦安の自宅に確認に行って来ました」と、声のトーンを一切変えずに松井が続ける。「こちらも先ず、間違いないと思って問題ありません。西葛西の歯医者に歯型の記録が残っていたのが一番の証拠となったようです」
「ちょっと、お二人とも」事務的に過ぎる松井と小張のやり取りに付いて行けなくなったのだろうか、一応は同胞である男への配慮なのだろうか新津が松井の報告に口を挟む。「もう少し、言い方と云うか物の言い方を――」
しかし、この彼なりの配慮・提案も、当の本人から遠慮される事になった。
「私なら問題ありません。本題は、この後なんですから」男が言う。
工事の音が聞こえなくなっていた。窓を閉めたのだろうか、エアコンも効いていない部屋で、彼の額に汗が滲んでいるのがこちら側からも分かった。
「すみません。私ったら、つい――」先週自分で切ったばかりという髪の毛に慣れていないのだろう、持ち上げた右手が小張の頭の上で右往左往している。
「いいえ。本当に良いんです」暑さに耐え切れないのだろう。Yシャツを脱ぎ、Tシャツの袖をまくり上げながら男が言った「弟が死んだのは、本当にあった事なんですから。ただ――」
「ただ――」と、口ごもる男に代わり小張が続ける。「堀井さんは、その後死んだ弟さんに会っている」そう。今日の本題はここからなのである。「それも今年の、5月10日の木曜日に」