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よく晴れたある春の日のこと。
一人の老人が海の見える丘を訪れ、その心は大きく乱されました。
彼が参ろうとした墓の扉は大きく開かれ、飾られていた花たちも何処かに往ってしまっています。
そうして、彼女の灰も骨も跡形すらなく、昏い墓石だけが其処に残されているのでした。
心を乱されたまま老人は、奥扉へと近付き、それから遠く樫の木の下に、見慣れた一つの人影を見付けました。
人影は、老人が最後に見掛けた彼女のそれよりもとても若く幼く見えます。
丘を越え漂うように歩いて行く彼女を目で追いながら『まだ間に合うのかも知れない』そう老人は考えました。
「一体、どちらに向かわれるのですか?」
「何故、そんなにも急がれるのですか?」
老人が彼女に問い掛けます。
「皆、港へと向かっているです」
「遅れる訳にはいかないのです」
少女のような声で彼女が答えます。
「水が満ちれば、そして船は往きます」
「だからみなが、こぞってくるのです」
彼女の髪も体もまるで洪水にでも流されたかのように濡れています。
しかし、老人がそのことに気付くが早いか、とても多くの人達が――真白なドレスやタキシードで着飾ったとても多くの人達が、彼女の周りへと集っていました。
「でも、ただ、上手くやらなければ」
「港まで間違わず辿り着かなければ」
「同じ事の繰り返しになってしまう」
『ひとりの男が叫びました。
鎖と鎖がぶつかり合う音。
大きなまくら木の軋む音。
乗客たちの歌う喜びの歌。
そして去り行く彼女の声。
そして破られる泡沫の夢。』
そうして、彼の夢は破られました。
日は既に昏く、部屋には線香の匂いだけが立ち込めています。
「わたしも行かなければならない」
老人は、一人そう呟きました。