凍て空の旅人
Tips:影霊たちに個体差はあれど、個体名は存在しない。影霊五万体は相互に情報を思考のネットワークによって共有が可能であるため、個体を呼び合う名を必要としないのである。
二週間ぶりに青空を目にすることができたアルテナの石畳から積雪を道端へと押しのける作業をしていたアンナの元へ、三人の子供が寄ってくる。
「アンナ、おはよう!」
そのうちのひとりに元気に挨拶をされ、アンナも笑顔で応える。
「うん、おはよう。」
「今日は晴れたから森の方まで行ってくるの!」
「森の向こうの山もできるところまで登ってくる!」
「あんまり無理しちゃだめだよ。危ない所には近づかずに、お昼過ぎには戻ってくるんだよ。」
アンナの忠告に勢いよく返事をして、三人の子供たちはアンナが雪かきをした道を駆けだしていく。
「足元にも気を付けるんだよ!」
アンナが呼びかける先で、さっそく子供のうちのひとりが石畳に滑って尻餅をついてしまう。しかしすぐに起き上がって、アンナに大きく手を振りながら森の方に消えていった。
その背中が見えなくなるまで見送ってから、アンナはもう一度作業に戻る。
「今日も精が出るわねぇ、あなたも無理しちゃだめよ?」
「私は大丈夫ですよ、ありがとうございます!」
近隣の住民からかけられる労いの言葉を受け取りつつもアンナが手を止めずにいると、村の大通りの入り口に誰かが立っているのが見えた。
ボロ布で全身を覆い隠したその旅人は、帝都を出発して帝国の最東端にある故郷を目指して旅を続けているらしい。
「この付近はこの時期積雪も多く、馬車が使い物にならないもので……仕方なく馬で旅をしているんです。」
白髪混じりの淡い黒髪を持つその青年はそう言って微笑む。
「そうなんですか、それは大変な……。お疲れでしょう、ヤギのミルクでもいかがですか?」
「おや、ではありがたくいただくことといたしましょう。僕はハインツ。あなたは?」
「私はアンナと申します。アンナ・アルテナウム。このアルテナ村の村長代理を務めております。」
アンナが村長代理とは思っていなかったのか、ハインツは驚きつつも笑顔でアンナの後に続いてアンナの家に迎えられた。
湯気ののぼるホットミルクを少し口にすると、ハインツはこの村について尋ねた。
「アルテナ村――と言いましたか? 随分と北の地に村がある物なのですね。」
「もう少し北東の方に大きな街があるでしょう? そこに木材や石炭を供給するための開発前線として造られた村なのですが、もう随分昔に炭鉱が空っぽになってしまいまして。今はもっぱら西の森を伐採するだけの村ですよ。」
「先程村長代理、と申し上げられましたが、村長はどこに?」
「……。」
ハインツの質問に、アンナは口ごもる。その態度に何かを察したように、ハインツは謝罪の言葉を口にする。
「踏み入りすぎてしまいました、申し訳ございません。」
「あっ、いえ! こちらこそ……。実は、山の向こうにある街……北東の城塞都市『リウェルアイエン』に住んでいるこの地方の領主が、滞納した税金の返済まで父を監禁してしまっているんです。……でも、本当は滞納分の税金は十年前に返済済みで……。」
悔しそうに唇を噛むアンナに気を遣い、ハインツは早々にアルテナの村を出るつもりであると告げる。
「あぁ、それならリウェルアイエンに寄って行くと良いですよ。あそこなら食糧も売っていますし、しばらくあそこに滞在してから東へ向かうと良いかと。」
「お気遣い、痛み入ります。あ――そうだ。村長様の一件、帝都の方には進言なさらないのですか?」
「……鷹王、ですか。」
アンナは苦々しい顔でその名を呟く。
「先代皇帝には直訴致しました。ですが……返答はなく……。聞けば鷹王は先代皇帝の嫡子。しかも先代皇帝を暗殺してまで即位したと専らの噂じゃありませんか。そんな権力に目の眩んだ皇帝がこんな辺境の村の進言など……。」
「……。――あぁ、アンナさん。馬を休ませたいので、今日一日はこの村に滞在させて頂いても?」
「あっ、えぇ! 構いませんよ。大通りから少し外れたところにある空き家を使ってください。元々狩人の一家が住んでいたので、厩舎もありますよ!」
「そうですか。温情に感謝致します。」
そこから二言三言社交辞令を交わし、ハインツは村の地図で示された空き家へと馬を連れて行く。
空き家に入ると、ハインツ――ハンズはボロ布を脱ぎ捨て、荷物の中から漆黒のレザーコートを取り出し、唯一の出入り口の閂をしっかりと噛ませる。
「さて――情報整理だ。スー、いるんだろ。」
ハンズが先程とは打って変わって愛想のひとつもない声でスーの名を呼ぶと、家の奥の暗がりの影からまるで水が流れ出るかのようにひとりの少女が姿を現す。
「……おかしいな。ハンズには何も言わずに同行してきたんだけど。どこで気付いたの?」
「帝都を出てすぐだ。」
その返答に愕然とするスーに対し、ハンズはレザーコートを羽織ると、アンナの発言から自身の任務に必要な情報を洗い出す作業を始める。
「十年前って言うと、ちょうど鷹王が即位なされた年だな。その時期に先帝に直訴しているなら、確かに返答がなくてもおかしくはないだろう。」
「鷹王が即位なさる直前の先代様は本当に横暴だったからねー。」
「そしてそこから十年間、この村には村長が帰ってきていない。それは恐らくリウェルアイエンの領主にとってこの村に是非とも搾取したい『何か』があるからだろう。村長は脅迫材料だと推測できる。」
「そういえば、さっきアンナさんはこの家のことを『元々狩人一家が住んでいた』って言ってたよねー。周りを鬱蒼とした針葉樹林に囲まれた寒さ厳しい寒村で、狩人っていうのは凄く重要な職業だと思うんだけどなー。何でここは空き家なんだろ。」
「搾取しているのは労働力なのか……? スー、影霊たちを村全体に走らせて、違和感があったら報告するように指示してくれないか?」
「ハンズが命令すればいいじゃーん。わたしの命令じゃなくてもみんなは聞いてくれるよー?」
「こういうのは立場の問題だ。流石に女王を隣に立たせておいて命令するのは罪悪感がある。」
「へんなのー。」
スーは自らの配下――スーを種族の長と崇める総人口五万人ほどの小規模種族、『影霊』たちを数人呼び出し、ハンズの懸念の真相を探るべく壁をすり抜け、アルテナ村へと飛び出していった。そのうちの一人はハンズの前で立ち止まり、
『はんず様、我ラ「影の者」、「だいやもんど部隊」ノ皆様ノ命トアラバ、陛下ノ命令ト、同等ノ物ト、承知シテオリマス故、タトエ陛下ガ、オ傍ニオラレマショウトモ、御意ノママニ、動キマストモ。』
と頭を下げ、先行した影霊たちと同じように壁をすり抜けて去っていった。
「ね。」
「……。」
しばらくして、影霊のひとりが戻ってくる。女性体らしいその影霊は、二人の前に跪き、村の住人の内訳について報告した。
『女王陛下、はんず様。コノあるてな村、極端ニ十代後半カラ五十代ノ男性ト、十代後半ノ女性ノ人数ガ少ナイヨウニ、思エマス……。』
「行方についてはわからない?」
スーの質問に「他ノ者ガ」と答え、再び外界へと消えていく影霊。するとその個体と入れ替わりになるように今度はやや体格の大きな影霊がハンズとスーの元へ戻ってきた。
『男性ノ行方ニツキマシテハ、恐ラク、北方ノ鉱山カト。』
「採鉱物質は?」
『宝飾品ナドニ用イル、貴金属類カト……。』
「……石炭は底を尽きたけど、代わりにそっちの鉱脈もあったわけねー。まぁ、資金力にはなりそうだよね。」
そんな抑揚のないスーの言葉を聞きながら、ハンズは口元に手を当て、思考を巡らせる。
「……男性はほとんど村内には見られないのか?」
『傷病者、及ビ、六十代以降ノ超高齢者、十代前半ノ少年以外ニハ、ホボ完全ニ、確認デキマセン。』
「それって……おかしくないか? いくら村の資金になりうる産業と言えど、わざわざ十代後半の青年まで駆り出すか……? 鉱業はそれ相応の危険が伴うと言うのに……。」
「余裕がないんじゃないー?」
「余裕がない……? なぜ……。それに十代後半の女性の行方はわかっていない。それも不審だ。」
しばらくそのまま考え込んでいたが、ハンズはひとつの結論に行き着く。スーの方を見れば彼女も同様に結論に辿り着いていたようで、二人は同時に同じ言葉を口にする。
「「リウェルアイエン領主!」」
「そうか……村長を脅迫材料にして、宝飾品を不法に徴収しているのか。」
「女の子たちに関しても、領主の趣味って考えればだいたい辻褄は合うよねー。でも確証はないんじゃない?」
「あぁ。明日はリウェルアイエンに出向くとしよう。必要とあらば領主を暗殺することも視野に入れなければ。」
その時、にわかに家の外が騒がしくなる。ハンズはレザーコートを脱ぎ捨ててボロ布を纏い、スーはハンズの影の中へと潜り込む。
ハインツが村の広場へ向かうと、そこには主に女性ばかりの人だかりができていた。その中心にはアンナがおり、難しい表情で頭を抱えて俯いていた。
「あの、どうかしましたか?」
ハインツが尋ねると、アンナは精一杯の笑顔でハインツに向き合う。
「あぁ、ハインツさん……いえ、その……実は、子供たちが山から帰ってこなくて……。」
日はとうに暮れ、月も昇り始めている。こんな時分に子供だけで山に留まっているというのは、あまりにも危険だ。
「迎えに行きたいのは山々なのですけれど、山に詳しい狩人の皆さんが今ちょうど不在で……。」
と、アンナが低く呻いているところへ、一人分の小さな駆け足の音が村の出入り口の方向から聞こえてきた。その場にいた全員が一斉にそちらを向けば、そこには全身に怪我を負った子供がいた。
「サルゴ!」
どうやらその幼い少年の母親らしい女性が飛び出し、サルゴと呼んだその少年を抱き留める。サルゴ少年は安堵感と悲壮感に泣き出しながら、状況をたどたどしく伝える。
「リィンとルカが……っ! ふたりが連れてかれたぁ!」
「連れて行かれた!? サルゴ、誰に連れてかれたの?」
アンナの問いに、サルゴは激しく首を横に振る。
「わかんないよぉ! 兵隊さんみたいだった――山賊じゃなかった!」
『ハンズ!』
サルゴの証言に、ハインツ――ハンズの影の中に潜んでいるスーが警鐘を鳴らす。
「――アンナさん。僕が行ってきますよ。見たところこの村、なぜか大人の男性がいないようですし。」
「……っ!」
「大丈夫です、何があったのかは聞きません。一宿一飯の恩義を返したいだけですから。二人の安全は、剣神ポラリスに懸けて僕が守ります!」
アンナはしばらく逡巡していたが、意を決した顔をハインツに向け、彼にすべてを託した。
「……わかりました。山の中はこの時期とても冷え込みます。野生の猛獣も狩人さんがいなくなって大量に発生していると思います。厚顔を承知でお願いします――二人を、リィンとルカを、どうか……!」
ハインツは頼もしく頷くと、ランタンを手に村の出入り口を潜り抜け、森へと入っていく。
村民たちが遠く見えなくなったあたりで、ハンズはボロ布を脱ぎ捨て、レザーコートの袖に腕を通す。それと同時に影の中からスーが跳び出し、ハンズの隣に着地して等速で駆けて行く。
スーの命令に応じ、影霊たちがそこら中の影の内から這い出、方々へと散開していく。そうして二人の暗殺者は、北方の剣山へと入っていくのだった。
「『影の者』たち! 小さな女の子と男の子、ひとりずつだ! 何か見つけたらすぐさまに報告すること! ――散れっ!」