眠りにつく街と眠らない湖
Tips:本来真っ黒な衣装というのは夜闇に紛れるには不都合な物だが、それでも彼らの制服が漆黒なのは、それだけ彼らの技術が高いということの証左なのかもしれない。
その日、帝国は生まれ変わった。残虐皇帝と呼ばれた先帝の時代は夜明けとともに一振りの刃によって終わりを告げ、空席となった玉座には一羽の鷹が降り立った。人呼んで『鷹王』。自らを「一人の国民にして唯一の存在」と言い放った鷹王には、親友よりも信を置く精鋭部隊がいた。
帝国の首都――帝都の夜は、昼間の喧騒に比べて恐ろしい程に静かだ。月もやがて沈みゆく時間帯、帝都のはずれの路地裏に声にならぬ悲鳴が吐き出された血液と共に虚空に消える。そうして物言わぬ死体となり果てたその男は、その場に転がる数人の死骸と同様に血の海にその身体を沈める。その中心に立つ夜闇よりも暗いロングコートを身に纏った、白髪混じりの淡い黒髪を持つ青年の、両の袖から突き出た鈍く輝く青緑色の刃から滴り落ちる紅い血が、その海を増々広げていく。
『はんず様』
ぬるりと、それは現れた。青年の背後、家屋の外壁に掛けられたランタンが生み出す影の中から湧き出るように出現したその人影は、甲高くも呻くような低音で青年に語り掛けた。
『任務、ゴ苦労サマデシタ。早速デスガ、次ナル指令ガ、鷹王ヨリ言イ渡サレテオリマス。』
「内容は。」
シャン、と澄んだ音を響かせながら、刃が青年の袖の中に収納される。襟を正し、青年は人影に向き直った。
『コチラヲ。』
そう言って人影が差し出したのは、一枚の紙片だった。それを受け取り、内容を確認すると、青年は再び人影に言葉をかける。
「……随分と辺境の村だな。」
『現在、帝国ノ財政ヲ支エテイル、多クノ平民タチノ生活ハ、先帝ノ行政方針ノ影響モアリ、把握ガ、十全デハアリマセン。はんず様、ソシテ別行動トシテまりー様ニハ、ソレゾレ別地域ノ、村落ヘト赴イテ頂キ、問題点等ヲ、ゴ報告シテ頂キマス。』
「了解した。他のメンバーは今どうしている。」
『女王陛下ハ、帝都ノ夜間警邏ヲ、他ノ「影の者」タチト行ッテオリマス。せおどあ様ハ、皇立図書館ニテ、歴代ノ皇帝ノ業績ニツイテノ調査ヲ。ねろ様ハ娼館街ニ。まりー様ハ、先程任務ヲ遂行シ、現在帰還中トノコトデス。ちゃな様ハ――。』
「……あぁ、どうせ拠点の掃除だろう。」
人影は静かに頷くと、トコロデ、と話題を転換した。
『はんず様。ソロソロ、外套ガ、血生臭クナッテキテオリマス。ちゃな様ガ、拠点ニテオ食事ヲ、ゴ用意シテイルトノコトデスノデ、帰還ガテラ、ちゃな様ニオ洗濯ヲ、ゴ依頼サレテハ、如何デショウカ?』
「……そうだな、そうするか。」
青年が人影に向かって礼を言うと、人影はひとつ会釈をして影の中に溶けるように消えていく。いつの間にかちらちらと空から舞い落ちてきた粉雪を見上げながら、青年は物音を立てぬ歩き方で石畳の路地裏から去っていく。その際、青年は右腕の袖を鼻に近付け、すこし顔をしかめるのであった。
その宮殿は、湖の水面上に浮かんでいた。まるで現実世界ではないかのような荘厳な佇まいは、その眼に捉えるだけで気圧されてしまう感覚に襲われる。
東国風の造りのその宮殿に、今一人の男が入ろうとしていた。陽光のような金髪を後頭部で結わえたその漆黒のロングコート姿の男は、左肩をグルグルと回しながら湖上に設けられた漆塗りの桟橋を渡り、水面に咲く蓮の花を眺めながら宮殿の正面の巨大な門戸から内部に入る。
「ういーっす、ただいまー。」
そう声を張り上げて広大な居間に上がると、そこには二人の人間がいた。ひとりは、臙脂色の髪を床まで届く細く長い三つ編みにして束ねた十歳かそこらといった外見の、頭部から鹿のような角を一対生やした幼い少女。もうひとりは白髪の目立つ淡い黒髪を持つ、十代後半風の青年。
青年は朱色をした長大なソファに座る少女の膝に頭を乗せた状態で横たわっており、少女にその耳を棒状の道具で掻き回されていた。
「あ、ネロ! おかえりなさいなのだ!」
少女は金髪の男に気付くと、黒髪の青年の耳穴から棒を引き抜き、大きく手を振って男を歓迎した。ネロと少女に呼ばれたその金髪の男は、少女が挙げた手とハイタッチし、居間の奥へと消えていった。
「これでみんな帰ってきたのだ?」
「……いや。スーがまだ帰ってきていない。」
「呼んだ?」
臙脂色の三つ編みの少女と黒髪の青年が会話していたその瞬間、燭台の灯りによって生み出された三つ編みの少女の影の中から、首のあたりの長さで切り揃えられた藤色の髪を持った少女がぬるりと出現した。
「のわ! スー、先に言うことがあるのだ?」
「うん。ただいま。」
「それと、おうちに入るときには玄関から入りなさいなのだ!」
「はーい。」
スーというその藤色の髪の少女は、鷹揚に返事をしながら三つ編みの少女の左隣に勢いよく腰を降ろすと、三つ編みの少女の頭頂部に頭を預けた。
「つかれたー。」
「お疲れ様なのだ。ごはんまで時間があるから、お風呂に入ってきたらどうなのだ?」
「んー、つかれたからちょっと寝るー。」
抑揚の少ない声でそう言うと、スーは三つ編みの少女にもたれたまま寝息を立て始めた。
「もう……しょうがない子なのだ。ハンズ、また始めるから動いちゃダメなのだ。」
「わかった。」
ハンズという名のその淡い黒髪の青年は、三つ編みの少女、チャナの膝の上を枕に瞼を閉じ、されるがままの体勢で静止する。そんなハンズの耳の穴の中へと、再び棒を挿し入れるチャナ。
しばらくそうしてチャナがいつの間にか寝息を立て始めたハンズの耳の中を掻いてやっていると、居間の奥から鴉のように真っ黒の髪をサイドポニーにした女性が、濡れて増々黒くなった髪をタオルで拭きながら現れた。
「チャナさん、お風呂。お先に頂きました。」
「あぁマリー、申し訳ないのだけど、テーブルにお皿とか食器とか並べておいてほしいのだ。」
「わかりました。……また、耳かきなされているのですね。」
やや穏やかさが伺える寝顔でチャナに耳かきをされているハンズを見下ろしながら、ぽつりと呟く鴉羽の髪の女性――マリー。
「子供っぽいと思うのだ?」
「あっ、いえ……その。」
膝の上で眠るハンズを起こさないよう、幾分ボリュームを落とした声でマリーに尋ねるチャナ。その言葉に、マリーは極まりの悪そうな苦い顔をしながら口ごもった。優しい笑顔を浮かべながら、手を止めずにチャナは説明する。
「――耳かきと、それに伴う耳介のマッサージは、耳按摩と言って、全身の疲労に効果的なのだ。チャナが住んでいた仙境でも、耳かきは適度に行えば健康に良い行為だとされていたのだ。そして……。」
そこで耳の中から棒を引き抜き、スーの頭を動かさないよう手で支えながら目の前にあった小さなテーブルにそれを置くと、また元の姿勢に戻り、ハンズの頭をゆっくりと撫でてやりながら言葉を続ける。
「親が子供に向けて愛を伝える、愛情表現の一種でもあったのだ。耳かきが気持ち良いのは、耳かきをしてあげる人の想いが、されている人にしっかり伝わっているからだと、チャナは思うのだ。」
「やっぱり……チャナさんは普通の医者とは違いますね。」
「そうなのだ?」
「はい。不確定的な精神論を心底信じているように堂々と語る医者なんて、チャナさん以外に私は知りませんよ。」
チャナはただ肩をすくめて微笑むだけだった。
金箔や宝玉などの豪華な装飾が施された朱色のテーブルの上には数多くの料理が並んでいた。そのどれもが、腹が空いていなくとも垂涎してしまうほど目にも美味しい物だった。その食卓を囲むのは、夜闇よりも暗い黒のロングコートを各々の方法で身に付けた男女六人だ。
金髪の男、ネロ。藤色の髪の少女、スー。鴉羽の髪の女性、マリー。淡い黒髪の青年、ハンズ。臙脂色の三つ編みの幼女、チャナ。そして、眩い銀髪をオールバックに固めた老爺。
老爺は透明な液体が注がれた木製の杯を煽り、頭上に掲げると、しゃがれた声で高らかに言い放った。
「いやぁ~! 今日もよく働いたゼぇ! やっぱ労働の後の酒は最高だゼ! んでもってチャナっ子のメシ! 楽園ってのぁここのことを言うもんだと、オレぁいつも思うゼ!」
「セオドア爺さん、それ何年言えば気が済むんだよ。」
ネロの指摘に、セオドア老人は酒を飲む手を止め、説教をするかのような口調で解説する。
「いいかぁ? 感謝の気持ちだとかよぉ、褒め言葉っつーのは何年何十年続けて言っても足りねぇもんだゼ! つまりはよぉ――。」
「はいはい、そんなことはいいからさっさと食べるのだ! ほらみんな、手を合わせるのだ。せーの!」
「いただきます!」
六人分の声が重なり、その後は各自料理を取り分けながら食事を楽しんだ。
食事後、ハンズは身に纏っていたロングコートを脱ぎ、チャナに手渡すと、消臭と洗浄を依頼する。
「一週間後、任務で僻地へ出かける。それまでに洗濯を頼みたい。」
「はい、任されたのだ!」
チャナはロングコートを受け取ると、笑顔で居間を通過し、その奥へと小走りで去っていった。
それを見届けると、ハンズは踵を返して食卓の奥へと向かう。そこには小さなベランダがあり、湖の向こうに横たわる山脈を眺めることができた。そのベランダから伸びる木製の通路の先、湖上に浮かんだ小さな舞台の上で、数体の人影に囲まれたスーが腕立て伏せを行っていた。
『陛下! モウ、アト十回デスゾ!』
『諦メナイデ下サイ、陛下!』
「む……むり……もう、だめ……。」
『陛下!』
ハンズがその場に歩み寄ってくるのに気が付いた人影たちは、甲高くも呻くように低い声でハンズに救援要請をしてきた。
『はんず様! 貴方様モ陛下ヲ応援シテヤッテハ頂ケマセンカ!』
「……慕われているんだな、スー。」
「そう……みた……むぎゅ。」
『当タリ前ニ、ゴザイマショウ! 我々「影の者」ニトッテ、陛下ハ、唯一無二ノ存在! 陛下ガ、イラッシャラナケレバ、我々ヲ統治スル者ハ、オリマセヌ故!』
『ソレニ加エテ、陛下ノ人柄……我ラ「影の者」ハ、生涯陛下ニオ仕エスル所存ニ、ゴザイマス!』
「……だ、そうだスー。期待されているぞ。」
「わたし……プレッシャーにすごく弱いの……知ってるよ、ねっ……!」
ハンズはそんなスーの怨嗟の声を無視し、また宮殿の中へと引き返す。
「つ、次に同じ任務に当たった時は覚えてろよーっ!」
やはり抑揚がないのにはっきりと感情が読み取れる不思議な声音でそう叫ぶスーに無表情のまま手を振りながら、ハンズは風呂場へと向かうのであった。
時を同じくして、場所は帝国北東部、辺境の田舎村アルテナ。厚手の防寒具に身を包んだ栗毛の少女が民家のドアを開け、しんしんと降り積もる雪を見て、白くなった息を吐きながら呟く。
「今年も降り始めたかぁ……。」
まだ朝早くだというのに、少女は手際よくドアを閉め、民家の外へ出ると、村の外れにある材木置き場に向かう。途中、何人かの村人とすれ違っては挨拶を交わし、目的地に到着すると、手頃な木材を拾い集め、隣接していた小屋の壁に立てかけられていた斧を手に取り、器用に六等分して薪にしていく。
コツーン、コツーンと小気味よい音を立てながら短く切断された原木を叩き割っていく少女の頬を、突如強い寒風が突き刺すように通り抜ける。少女は吃驚して目をつむり、手を止めて明るくなってきた曇り空を見上げると、首に巻いたマフラーを口元に引き上げながらぽつりとこぼすのだった。
「何だか……変な空気の匂いがするなぁ。御守りでも彫っておこうかなぁ。」