人生はやり直せるが、一度きり。
5月のある雨の日。
仕事帰りや宴会などで賑わっている音が通り過ぎていく中、地面に打ってくる激しい雨の音が一段と聞こえていた。
道路を走る車の光は雨に反射しながら道を照らす。
自分が着ていた半袖花柄のワンピースは雨でグチャグチャ。
走ったシューズは跳ね返った泥で汚れていた。
大通りを抜けた道にある小さな旅館の角でしゃがみこみ、少しでもこの肌寒い風を凌ごうと
隣に置いてあった段ボールを膝にかけた。
「お母さん、お父さんはどこにいるの?」
疲れてしゃがみ込んでいる私に、心配そうに声をかけてくれる人はいなかった。
それはそうだろう。ダンボールの中で身を縮こませ、服も靴もボロボロ。
夜は暗くなり、人通りは少なくなったが、車の行き交う音は段ボールをかぶっていても聞こえた。
その旅館は夜の準備のために換気扇を回しながら、厨房で料理の支度をし始めていた。
包丁で食材を切っている音も混じりながらに聞こえていた。
換気扇から漂ってくる料理の匂いは、私のお腹を一層そそらせて音をならした。
今日の料理は、焼き魚なのかな。あったかいスープとかあるのかな。
鼻から感じる料理を想像しながらスカートのポケットに何度も手を入れてみるが、お金はやっぱり入っていなかった。
入っていたのは、黒いねこが付いている髪のピンとりんご味の喉飴の袋だけ。
今に必要なものは何も手に持っていなかった。
私は、髪ピンを出してダンボールのなかでそのねこと話した。
話すことしかできなかった。
「ねこちゃんはお腹空いてない?」「寒くない?」
「お腹すいたよね。」
話しているうちに、厨房からの料理の匂いや明かりは消え、辺りは一瞬で暗くなった。
人の声も聞こえなくなり、私はねこにおやすみと言って自分の手に握り占めた。
段ボールの中は真っ暗。
寝むれなかった。
とたんと涙が出てきた。
段ボールは雨で染み込んできて冷たくなってきた。
手は赤くしもやけで、感覚がなくなっていた。
手の拳を開くことすら出来なくなっていた。
私は段ボールから抜け、三角座りの隙間に顔を入れ縮みこもった。
誰かたすけて、たすけて!
雨の音でかき消される私の声。涙は雨とともに流されていった。
すると突然、雨の音が薄くなり、私の肩に手が触れた。
「パパ!?」
私は思わず顔をあげた。
「大丈夫か!こんなところでしゃがみ込んで何してんねん。風邪ひくやろ。」
男の人の声だった。
傘を私に向けて差した。
私は肩に置かれた手の温もりを感じた。
「助けてください。」
そう言った私は、彼の言葉を遠ざがりながら力が抜けて意識を失った。
その夜、ある情景が夢路した。
真っ白なベッドに一人の女性。
私はゆっくりとそのベッドに近づいた。
その隣には、顔を真っ赤にしながら彼女の手を握りしめている男性がいた。
女性の顔と彼の顔はぼんやりと浮かんでいるだけで、誰なのか、この時は分からなかった。
彼は息を荒く、首につけた銀のネックレスを揺らしながら泣いていた。
彼が何度も同じ言葉を叫んでも、彼女の目は開くことがなかった。
男性の震えるような声と同時に赤い一線に響いている機械の音。
その機械の奥には、透明の花瓶に入った三本のカランコエの花。
見覚えのあるネックレスに赤い花。
ある確信を持った私は、『パパ?』と男性の顔をのぞかせながら問いたが、その言葉を放った瞬間、
二人の姿は見えなくなりその姿は目の前から消えてしまった。
遠くからカチカチカチという音が徐々に大きく聞こえてきた。
私は少し濡れた頬を手で拭ってゆっくり目を開けた。
家ではなかった。
庭のライトアップされた緑の葉から水滴がポタポタポタと地面に落っていき、壁に掛けられた時計は二三時を指差していた。
畳の上に綺麗な紫色をしたギターやヘッドフォンに何枚かの楽譜。
体を起こして毛布から出ると、壁の隅には綺麗な花柄の服がきちんとたたまれていた。
布団の前には大きな湖とそこに逆さまに写る二つの山が描かれている襖。
私はゆっくりと襖を引いてわずかに開いた隙間に目を細めた。
そこにはアイマスクをつけた長い黒髪の女の人、タオルを首に巻きつけた太っ腹な男の人、寝間着を崩して大の字になりながらいびきをかいている男の人がいた。
襖の奥を覗いていると、突然後ろから肩を叩かれた。
やばいと思った私は叩かれた肩をあげて振り向いた。
「起きたんか。」
あの男の人の声だった。
紺色の丸メガネに金色の指輪を付けて、ブカブカのポンチョに黒の半ズボン。
その時、私は初めて彼の姿を見た。メガネ越しに見える大きな綺麗な瞳。
私を拾ってくれた人。
ありがとうございましたとお礼を言うべきかと眼を彼に向けて口を開けようとしたが
出来なかった。
ただ、突然の状況に目を泳がせて戸惑った。
「お腹減ってないか。」
私は首をブルブルと振った。
「もう平気か。」
私は首をコクンと頷いた。
とても安心するような優しい声だった。
下を向いていた私の目を彼はゆっくりと見上げた。
「お名前、なんて言うんや。」
「にしの…まな。」
一瞬躊躇したが、私は小声で言った。
「にしのまな。俺の名前はおおみやつよし。」
ほのかに笑う彼は、私の頭を撫でた。
まるでパパのようだった。
自分で感じたことのない、緊張から安心に変わる情感が体に染み込んできた。
「もう大丈夫や。」そう言って、彼は手に持っていた水の入ったペットボトルを私の頬に当てた。
その水は冷たくて、ペットボトルの外面に結露した小さな水滴が私の頬に吸収されていくのがわかった。
この部屋の暖かさとペットボトルから感じる冷たさが妙に気持ちよく感じた。
彼は頬からペットボトルを離し、キャップを外して私に差し出してくれた。
「飲み。飲まへんかったら脱水症状になってまうから。」
私は両手で受け取り、顎を上に向けながら口に飲んだ。
「ぷはっー。」
一瞬にしてペットボトルは空になり、私は思いっきり息をはいた。
彼は、その姿を見て大笑いをした。
「あすか、いい飲みっぷりやん。」
彼は口に拳をあてて、しゃがみ込みながら笑った。
私も彼の笑顔に吊られて笑った。
「あ、笑った。」
彼はペットボトルのキャップを閉じて立ち上がり、笑った私の顔を指差しながらニヤリとさせた。
私は開いた襖をそろりと閉じて、部屋の隙にあるワンピースを手に取った。
「これ、お兄さんが洗ってくれたんですか。」
「めちゃ雨で濡れて汚れてたからな。」
彼はグッドポーズをして、耳にかけていたメガネを頭にずらした。
「なにがあったんや。まるで捨てられた子猫のように段ボールに縮まって泣いてたからごっつい心配したんやで。」
「パパに会おうと思って。」
「パパ?」
彼は私のところにきてあぐらをかきながら聞き返した。
「パパって。迷子にでもなったんか。」
「私、託児所育ちで家族はいないんです。赤ちゃんだった私を、パパが託児所に預けたそうなんです。でも、それっきりパパは帰ってこなくて、今はずっと託児所の皆さんと暮らしています。」
私は持っていた服を握り、彼の方向に体を向けた。
私の言葉を聞いた彼は表情を変え、私の顔を真剣に見つめた。
「私はママの姿もパパの顔も思い出せません。でもパパは、布に包まれた私を小さな木の籠に入れて、託児所の人に預けにきたって聞きました。その籠の中には茶封筒に入った手紙と銀のペンダントが入っていたそうです。そのペンダントは、いつかパパの居場所を探す手がかりとなるんじゃないかなと思って、いつも首にかけているんです。」
七つの穴の空いている銀色のペンダントを、襟の中から出した。
「そのネックレス、ちょっとみてもいいか。」
彼は興味を持ったのか、私の首から外したペンダントをまじまじと観察した。
「それ、先っぽに口を加えると音がなる仕組みになってるんです。」
「音出るんか。笛みたいやな。」
「綺麗な音色ではないけど。」
なかなか見た事のない形と構造に関心している様子だった。
「俺も、こういうネックレス欲しいな。」
彼は私の手にそれを返しながら、言った。
「それで、会えたんか。そのパパに。」
「無理でした。」
私は、膝の上に置いている服を握りしめながら言った。
「今日のお昼頃、私は託児所の子たちと一緒に大きな公園に遊びに行っていたんです。」
託児所からいつも見える、たくさんの花が咲いている公園。
その公園はいつも人盛りで、公園の前にある大きな交差点には多くの車や自転車、人たちが行き交う場所だった。
託児所に入りたての頃は外に出ることがなく公園に行くことなど好きではなかったが、今ではいつも外で遊ぶことが一番の楽しみになっていた。
「みんなとブランコに乗ったり、男の子たちと鬼ごっことかして遊んでました。でもその途中で
パパの姿を見たんです。」
「パパの姿って言っても、ほんまにパパかどうか分からんとちゃうか。顔覚えてないんやったら、なおさら。」
「公園の外の隅で私と同じ銀のネックレスをつけた人を見たんです。顔はしっかりと見てないけど、あれはきっとパパの姿です。」
あの時、私はその銀のペンダントを見た瞬間、感情が高ぶった私は動揺し、動かしていたブランコを足のブレーキで止めた。
会わなきゃとブランコから立ち上がり、土を蹴ってパパの後ろ姿を無我で走った。
途中で雨が降り始めたが、パパに会いたいという一心で人や車も目に見ずに追いかけた。
でもパパは道の外れに停まっていた黒い車に後部座席に乗って勢いよく走っていった。
最後まで追い続けたけれど、建物を曲がるとその車は私の前から小さくなって消えた。
辺りを見回すと、大きな動物園や美術館、小さな旅館やホテルに、神社が建ち並んでいた。
自分の知らない場所だった。
完全に迷子になってしまったと気づいた私は、元来た道に戻ろうとしたができなかった。
空はすっかり暗くなり、ホテルの時計は夜六時だった。
誰かに道を教えてもらおうと思ったけれど、行き交う人たちはサラリーマンやおじいちゃんおばおちゃんが何人かと、背が高くて鼻筋の鋭いようなキャリーケースを転がしながら歩いている人でいっぱいで話しける余裕などなかった。
「結局会えなかった私は、雨に濡れながら雨宿りができる場所を探しに行きました。多分、それがこの旅館です。
そしたらお兄さんが助けてくれたんです。」
今までの事情を彼に伝えたことで、私は安堵の気持ちでもう一度泣きそうになった。
「本当にありがとうございました。助けてくれていなかったら凍え死んでいたと思います。」
声をかすれながらも、私は彼に精一杯のお礼をした。
彼は話を無言で頷きながら、私の背中をさすった。
「会えへんかったのは残念やけど、無事にいてよかった。」
机の上に置いてあったティッシュをとって鼻を拭きながら、助けてくれた人が彼でよかったと、この時実感した。
「いい匂い。」
すっかり綺麗になったワンピースは花の匂いがした。
「これ以上泣いたら、目パンパンなるで。もう遅いから布団入って寝よ。」
冗談紛れに言いながら微かに笑う彼に、私は大きく頷き笑い返した。