5 悪夢のスパイラル
それから。
ハラダの様子は目に見えておかしくなった。
なんだか急におとなしくなって、休み時間になってもぼんやりしている。今までだったら授業が終わったとたんに「ああ、終わった終わった~」なんて大声をあげて伸びをして、嬉しそうにぼくのところへやってきていたのにだ。
一日じゅう顔色が悪くて、元気がない。ひどく眠そうにも見える。もちろん、いつもの子分たちを連れてはいるんだけど、昼休みなんかにぼくを見つけても別にちょっかいは掛けてこない。
いや、どっちかというとその逆だった。
ある日、たまたま廊下で出くわしたとき、ハラダはぼくを見てぎょっとしたように凍りついた。ぴたりと立ち止まり、青白い顔がよけいに青ざめて、じりじりとぼくから距離を取る。子分たちの「どうしたんスか」とかいう問いかけにも「うるせえ」とうなるように言っただけで、いまいましそうに舌を鳴らし、ぷいと向こうへ行ってしまった。
「そりゃそうでしょうね。夢見は最悪のはずだから」
家に帰ってから、現れたエリコさんに聞いてみたら、あっさりそんな言葉が返ってきた。
果汁百パーセントのオレンジジュースをちょっとずつストローで吸い上げているぼくの前で、エリコさんがいつものように足を組んで座っている。
ちなみにうちは、ママが果汁三十パーセント以下のジュースはいっさい飲ませてくれないんだ。ぼくが世の中に炭酸飲料という飲み物があることを知ったのも、幼稚園に入ってからのことだったりする。うちのママ、みんなが大好きなあの黒い炭酸飲料なんて、まるで毒入りジュースでも見るような目で見るんだよね。まあぼくも、あれはそんなに好きじゃないからいいんだけど。
「このところ、あたし、あの子の夢に出演してるの。現実世界では動きを制限されるけど、どうやら人の夢の中ではわりと好きにできるみたいなのよね」
「えっ。そ、そうなの……?」
「ええ。せいぜい怖い思いをしてもらってるわ。大きなナメクジに飲み込まれるとか、恐竜に頭から食べられるとか。こわ~い幽霊に井戸にひきずりこまれるとかね。ま、その幽霊を演じてるのはあたしってことなんだけど」
「うわああ……」
それ、かなり怖いな。
それはちょっと、ぼくも遠慮させてもらいたい。
「あとは、深層意識に刷り込みね。『オサム君にちょっかい出したら、あたしが黙っていないわよ。これ以上の目に遭わせてやるから』みたいなことを、まあちょこちょこっと」
ちょこちょこっと、って。
めちゃくちゃ怖いよ。はんぱないよ。
聞いているだけでも、ぼくはちょっとハラダが気の毒になってきてしまった。
「けど、大丈夫なの? そんなことして、エリコさんのことがもしもばれたら……」
「ああ、そこは大丈夫。起きたら具体的なことはほとんど忘れているはずよ。それでも、あなたの顔を見ると無意識にも怖くなるわけ。深層意識って怖いわよね。あんな風に人を操ることができるんだもん。あの子、学校じゃ普通を装ってるけど、ほんとは夜におねしょしちゃうぐらいびびってるんだから。こないだなんかもう我慢できなくなっちゃって、『ママと一緒に寝たい』って、半泣きでお願いまでしてたわよ」
「う、うわあ……」
ぼくは背筋がぞわぞわした。
エリコさん、容赦ない。
なるほど、それでハラダはここんとこ、ぼくを避けるみたいにしていたのか。直接なにかに脅されているっていう意識はなくても、深層心理に刷り込まれた根深い恐怖がいじめを思いとどまらせていると。
エリコさんがなんとなく、ふうとひとつ息をついた。
「もう心配いらないと思うわ。ハラダがあなたに何かしてくるってことはもうないでしょう。けど……」
エリコさんが珍しく、ちょっと複雑な顔をしている。胸の前で腕組みをして、なにか考え込んでいる様子だ。
「ん? どうしたの、エリコさん」
「ああ。うーん。ごめんね、オサム君。あたしどうも、この件は釈然としてないのよね」
「シャクゼンと、してない……?」
「そ。なんだかこれじゃあ、根本的な解決になってないんじゃないの、って気がして」
この、なんでもかんでもはっきりきっぱり、さばさばの女王様みたいな人にしては珍しく、あれこれ思い悩んでいるようだ。エリコさんはしきりに黒髪を払いながら首をかしげ、足を組みなおした。
「なんかねえ。思っちゃったわけよ。いじめっ子って、別に生まれながらのいじめっ子ってわけじゃないのねえって。……ま、そんなのあたりまえなんだけどさ」
「えっ……?」
「そりゃまあ、生まれつきいじわるな子っていうのは確実にいるわよ? 心の中に『いじわる虫』を飼ってる子ね。世の中、『どう考えたってあの親からこんな子が生まれるって信じられない』っていう親子だっていくらでもいるしね。でも、そういう子の全部が全部、いじめっ子になるわけじゃないじゃない? そうなるには、そうなるだけのファクターがあるわけよ。つまり、理由ね」
「あ、うん……。それは、そうだよね」
「もちろん、いじめをする子がほめられたもんじゃないのは事実よ。そうしないように我慢できる子だってたくさんいるはずなんだから。そこは間違えちゃいけないんだけど」
「えっと……。つまり、どういうこと? エリコさん」
エリコさんは「んー」と言いながらしばらく自分の唇のところに人差し指をあてて考えていた。
「ま、いいわ。これについてはあたしにちょっと時間をちょうだい。もうちょっといい方法がないか、考えてみたいから。いいかしら? オサム君」
「あ、う……うん」
そんなのはもちろんだ。ぼくのほうはもうほとんど、実害みたいなものはなくなっているんだし、そもそもぼくはエリコさんの行動にあれこれ文句をいうような立場でもない。ぼくは今までどおり平和に、ミユちゃんやほかのクラスメイトと楽しく学校生活が送れるならなにも文句はなかった。
ただ、エリコさんが何にひっかかっていて、問題をどうやって「解決」したいと思っているのかは興味をひかれた。
◇
それからしばらくは、何もなかった。気が付けばもう、エリコさんに会ってから一か月近くが過ぎようとしていた。
本当にあったんだかなかったんだかよく分からないうちにテレビの天気予報は「梅雨明け」を宣言し、街の中のあっちこっちで蝉の声がしはじめている。
放課後になり、ぼくはいつものようにランドセルをしょって教室を出た。ミユちゃんは友達と約束があるみたいで、今日はもう先に帰っている。というか、基本的に人の目につくところでは、ぼくらはそんなに一緒にすごすことはないんだけれど。
「よう。ハナカ……水上」
子供にしてはちょっと低い声が後ろから呼び止めてきて、ぼくは足を止めた。
振り向いてびくっとする。すぐ後ろに、ハラダが一人で立っていた。今日はいつもの子分たちは連れてないみたいだ。
ぼくはしばらく、自分がなんて呼びかけられたのかを何度か耳の中で繰り返した。
──「水上」。
彼は間違いなく、ぼくをちゃんとした名前で呼んだ。
「なあ。ちょっと、いいか」
いつまでたってもウンともスンとも言わないぼくに少し苛立ったみたいに、ハラダが眉間のところにしわを寄せて言った。
「あ、……うん。なに……?」
そう返事はしたけれど、ぼくは思わずこくりとつばを飲み込んだ。





