3 作戦
「で、エリコさん。ハラダを『ぎゃふっ』って言わせるって、具体的にはどうするの?」
その後、公園のベンチに座って少し落ち着き、ぼくらはこうして話をしている。
幸い、今はだれもいない。ランドセルのほうは片付けて膝の上だけれど、濡らされてしまったノートは植え込みの縁石に広げて乾かしてある。
エリコさんは見るからに気が強そうな感じのお姉さんだけど、実はけっこう話しやすい人だった。
「『ぎゃふっ』じゃなくって『ぎゃふん』よ。まあ死語よね。こんなの最近の小学生に言っても通じないわよねえ、ごめんごめん」
「いや、いいんだけど……」
「ハラダについては、やり方は色々あるわね。さっきみたいにくしゃみと鼻水を止まらなくする、なんて可愛いことならすぐできるけど、そんなもんじゃ、ああいうバカな真似をやめるところまでは行かないでしょうし」
「あ、あれ、やっぱりエリコさんだったんだ。あれってどうやったの?」
「簡単よお。あいつらの鼻の穴に、こっそりコショウの粉をさらさらっと」
「えええ!」
ぼくと握手もできないはずなのに、どうやってコショウの粉を触ったのかな。
「そのへんはよく分からない。でも、なんとなく風を起こしたりはできるのよ」と、エリコさんは赤いマニキュアをした指先で唇あたりをなぞりながら言った。
なんだかいい加減なんだなあ。
「いい加減よねえ。っていうかそもそも、このあたしの状態がいい加減そのものよ。食事をしなくていいっていうのは助かるんだけど、物の中を必ずしも通りぬけられるとも限らないし。実はコショウだって、かなり集中して『つかむぞ、つかむぞ~』って思わないと動かせなかったの。あ、出どころはそのへんのラーメン屋さんなんだけど」
「ふーん」
「もともと、自分がどこの誰だったかもよく覚えてないし。……ああ、でも、ふわふわしてた時に誰か真っ白いおじいさんみたいな人に会って、『どうせなら綺麗な若い頃の姿にして』ってお願いしたのは覚えてるかな」
「え? キレイな……?」
それはその、妙ちくりんなかっこうのことだろうか。
ぼくがまじまじとその赤いスーツ姿を見つめてしまったら、エリコさんは太い眉をつりあげて大声をあげた。
「ちょっとお! オサムくん! これはいわゆる『失敗』ってやつですからね? ちょっとした誤算とも言うわ。あたしとしては単純に、『若くてきれいだった頃のあたしの姿にしてちょうだい』っていうつもりで言ったのよ。それなのに、あいつがご丁寧に服や化粧のセンスまで当時のものに戻してくれちゃってさあ。まったく、サービスがいいんだか悪いんだかわかりゃしない」
「あ、ふーん。そうなんだ……」
ということは、エリコさんってけっこうな年齢なのかな。今は「お姉さん」って感じだけど、ほんとうはオバ……うん。やめておこう。エリコさんに人の心を読む能力があったら大変だし。ハラダの前に、ぼくの命が危なそう。
「これはこれで、当時はかなりイケてたんだから。ワンレン・ボディコン、トレンディードラマの全盛期。テレビに出てる女優だって、みーんなこんな格好だったわよ。あたしはばっちり、お立ち台の世代ですからね」
「オ、オタチダイ……??」
「ああ、いいのいいの、こんな話は。で、ハラダとその腰ぎんちゃくのことよねえ」
それから明日に向けてひと通りの作戦を立て、ぼくは遅くなりすぎないうちに家に帰った。
◇
ぼくの家は大きなマンションの四階にある。
「ただいま」と声を掛けてドアを開けると、部屋の中はまだ暗かった。パパもママも仕事で遅い。僕は用意してもらっているおやつや何かを食べながら、宿題をしてママを待つ。塾がある日はお弁当もちでそっちに行くけど、今日はたまたま塾もない日だ。
パパはそんなに乗り気じゃないけど、ママはどうやらぼくを私立の中学校に入れたいみたい。あのハラダみたいに勉強が嫌いなほうじゃないからそんなに苦にはならないんだけど、ミユちゃんと離ればなれになるのはちょっとつらいかなあ、なんて、ぼんやり思う。
だってママが行かせたがってる私立は、だいたい男子校なんだもの。ミユちゃんが来るはずないもんね。
「ねえ、オサム君。ひとりなの?」
「ひゃあ!」
リビングのテーブルでぼんやりとカップアイスを食べていたら、頭の上からいきなり声がしてびっくりした。
見れば天井のライトのすぐそばから、長い髪を垂れさせてエリコさんがさかさまに顔をのぞかせていた。
「び、びび、びっくりした……。おどかさないでよ、エリコさん!」
「あ、ごめんごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど」
言ってエリコさんはふわりとそこから出てくると、ゆるやかに空中を漂ってきて、当然のように僕の向かい側の席に座った。うっすら透けている足をひょいと組むのが、なんとなくカッコいい。
「いつもこんな風なの? お父さんとお母さんは?」
「仕事だよ。ママはもうすぐ帰ってくるかな」
壁の時計を見ながらそう言ったら、エリコさんはふうん、とあいまいな声を出した。
「じゃ、それまでここにいようかな」
「え?」
「話し相手になってあげる。優しいでしょ? あたし」
「いや、ええっと……」
それ、逆に困るんだけど。ママが帰ってきたら大変なことになっちゃうよ。まあ、ママにエリコさんが見えたらの話だけどね。
第一それ、エリコさんがおしゃべりしたいだけなんじゃないのかなあ。
と、突然エリコさんが真顔になってこっちを向いた。
「変わってるわよねえ、君」
「え? ……う、うん。そうかも」
「あら。自覚あるんだ? あたしみたいなのに出くわしてもそんなに驚いたようじゃなかったし。一見ひょろひょろしててそんな風には見えないけど、けっこう肝がすわってるのね」
「いや、そんなことないよ……。おどろいたよ、めちゃくちゃ」
そもそも最初は、「ちょっと変わった人が道のはしっこにいるなあ」って思ってただけなんだし。
ハラダたちがああいうことになって、エリコさんが突然現れたときだってそうだ。あれは単純に、驚きすぎて声も出せず、動くこともできなくなってただけだもん。
「あら、そうなの? じゃ、自分が変わってるっていうのはどういうところだと思ってるわけ」
「えっ。あ……えーと、それは、いろいろ……」
実はぼく、結構な「おたく」なんだ。友達にはバカにされないように黙っているけど、深夜にやってるアニメなんかにも詳しいし、マンガやゲームにも興味がある。ゲームについては自分でやるのも好きだけど、いずれはゲームデザイナーなんかになるのもいいな、なんてちょっと思ってるぐらいなんだ。
でもそれは、パパやママだって知らないことだ。
口ごもってしまったぼくを見て、エリコさんはふふっと笑った。
「あ、いいのよいいのよ。無理に言わなくても。誰にだって、人に言いたくない趣味のひとつやふたつ、あるものね。子供なんだからなんでもオープンにしゃべって当たり前、なんて思ってないから安心して」
と、エリコさんが言った時だった。玄関のほうでがちゃりと鍵を開ける音がして、すぐにママが帰って来た。
「ただいまあ。……ん? どなたかいらっしゃってるの? オサム」
「えっ? い、いや、えーと──」
慌てて目を走らせたけれど、テーブルの向かいにはもうだれもいなくなっていた。
と、頭の中でエリコさんの声がした。
『じゃ、また明日ね。オサム君』
とっさに目を走らせたら、ライトの近くの天井に、するっと長い黒髪が吸い込まれていくのが見えた気がした。