2 その名はエリコさん
「ああいうのを黙って見過ごしてると、どんどんエスカレートするだけよ? さっさと大人に言いつけるなり自分でぎゃふんと言わせるなりしなくっちゃ。いつまでも埒があかないってもんでしょう」
「あ、……はい。そうですね」
ぼくには「ラチガアカナイ」っていうのがどういう意味だかよく分からなかったけれど、とりあえずこくんとうなずいた。そうしてすぐに、女の人からじりじりと距離を取った。防犯ブザーは必ず持たされているけれど、それはさっきハラダたちに地面に放り出されたままのランドセルにくっついている。
女の人はそんなぼくの視線をたどって、派手な化粧にいろどられた両目をすうっと細めた。
「あら。いっちょまえに警戒してる。ま、それで正解だけどね」
「…………」
「最近はほんと、防犯にうるさくなったわよね。前よりは大人がずっと目を光らせてくれていて、昔に比べればずっとよくなったはずなのに、犯罪そのものはむしろ増えてるように見えるのが困ったもんよねえ」
「…………」
「って言っても、前は泣き寝入りしてる子が多かっただけかもね。報道が増えて、表に出るようになっただけ平和なのかもしれないわ」
「…………」
そこで女の人は両手を腰にあて、ぼくを見下ろして変な顔をした。
「んね。あたしだけにしゃべらせてないで、なんか言ってよ。見えてるんでしょ? あたしのこと」
「…………」
そのときはじめて、僕は背筋がぞわぞわっとした。
真っ赤なスーツのスカートから伸びている黒いストッキングをはいた足は、やっぱり派手なキラキラするハイヒールを履いているんだけれど、その靴と足首の色は微妙にうすくなっていて、向こう側の景色が見えていた。
「あ、……ああ、あふ……」
ひざがガクガク震えてきて、ぼくの喉はきゅうっと締まった。
この人、たぶん人間じゃない。
っていうか、たぶん、たぶんだけど──
女の人は首を傾け、一度自分の長い髪をさらっと片手で払うようにした。
「はじめまして。あたし、エリコって言うの」
「…………」
「坊やのお察しのとおり、生きてる人間じゃございません」
「…………」
やっぱりだ。
やっぱりこの人はユーレ──
「でもアレよ。幽霊、っていうワードは好きじゃないのよね、個人的に。地縛霊だの背後霊だの、どうも日本語のそれって全体に暗くてジメジメした響きでしょう? それで大体はなにかに恨みを持ってて、復讐してやるんだとかそういう理由でこっちに残ってるタイプ。でもあたし、そういうの性格的に合わないから」
「…………」
何を言ってるんだ、この人は。あ、いや幽霊なんだから「人」って言うのはおかしいのかもしれないけれど。
「とは言え、あたしもあんまり自分の置かれてる状況がよく分かってるわけじゃないんだけど。どうやらもう生きてる人間とは言えないみたい。でもまあ、幸い名前だけは覚えてるから、今後はそれで呼んでちょうだい」
ってなんだ。
今後があるの?
ぼくが目を白黒、口をぱくぱくさせているうちに、女の人は胸の前で腕組みをし、両足を開いて仁王立ちになった。
「もちろん、『さん』ぐらいは付けてよね?」
「…………」
「で、君はなんていうの? まさかほんとに『ハナカミ君』ってことはないわよね」
「…………」
ほんとは「あたりまえだろ」って言いたかった。言いたかったけれど、僕の舌は口のなかでからっからに乾いて、こちこちに固まっていた。喉もぎこぎこいいそうなほどに乾いていて、すぐには何も言えなかった。
女の人──エリコさん──は、ちょっと困ったような顔でまた首をかしげ、少し笑った。
「ごめんなさいね。確かに小学生の坊やにはショッキングな事態よねえ。でも今のところ、あたしのことが見えてるのって君ぐらいだったもんだから。いえ、実はほかにも何人かはいたのよ? でも中学生ぐらいになるともう、ずーっと遠くにいるときから『あ、いるわ』みたいな顔になってさあ。手前でさりげな~く道を変えられちゃって、声なんて掛けられないわけよ。あったまきちゃう」
あ、そうか。そういう手があったのか。
今度からぼくもそうしよう。
「で、もうとにかく話し相手が欲しくってさ。それで死にそうになってたわけ。って、ああもう死んでるんだからこの表現はおかしいんだけど」
「…………」
「でも、これは信じて欲しいの。あたしは別に、あなたに害をなそうと思ってここにいるわけじゃない。本来だったらとっくに天国とやらに召されているはずなんだけど、どうもこっちに思い残したことがあるようなのよねえ……。そこは覚えてないんだけど」
それ、困るじゃないか。
なんのためにここに残っているのかを覚えてないのに、幽霊としてここに居るだなんて。それじゃあ、天国に行く方法もわからない。肝心のことを忘れてるって、この人どうするつもりなんだ。
ぼくが目だけで訴えたことを察したように、エリコさんはにいっと笑った。真っ赤な口紅をひいたそれが、大きな三日月の形になる。
「だからまあ、しばらくこっちでウロウロしようかと思って。ちょうど君みたいな子にも会えたことだし。とりあえずはさっきのあいつ? ハラダだっけ。あの胸クソなガキをどうにかしましょうよって話」
「……え?」
やっと絞り出したぼくの声は、がさがさだった。
ハラダ? ハラダをどうしようって言うんだろう、この人。
「あたしねえ。大人でも子供でも、あーいう奴、大嫌いなの。裏でコソコソ動き回って弱い者いじめしちゃあ、げひげひ嬉しがってさ。バッカみたい。サイッテー。親の顔が見たいっての」
「あ……うん」
「あんなのろくな大人になんないわよ。どうせ、結構いいとこの坊ちゃんなんじゃないの? 全然似合ってなかったけど、あれブランドのTシャツだったし。あんなのが親のコネで人の上にたつような立場になるから、真面目に働いてる人が苦労するんじゃない。お灸を据えるなら今のうち。『鉄は熱いうちに打て』ってね」
「えっと……あの、エリコ、さん」
「なあに?」
ぐいと見下ろされてどきりとする。
エリコさんの瞳は、もう死んでしまった人とは思えないぐらいに生き生きしていて、きらきら輝いていた。
「オサム、……です。水上オサム」
「オサム君か。察するに、お父様かお母様は手塚センセイのファンかしら」
「え?」
「いえ、なんでもないの。じゃ、よろしくね? オサム君。とりあえずはあたしとバディになりましょう」
「ば……ばでぃ?」
「そう。要するに、あのハラダを黙らせる、あなたから手を引かせるミッションのためのバディ。そういうことでオーケー?」
すっと手を出されて、ぼくはしばらく向こう側が透けて見えるその手を見ていた。やがてエリコさんがじれったそうに「ほら、早く」とうながしてきて、やっとそれが握手を求めるものだ気づいた。
でも、おずおずと差し出したぼくの片手は、するっと彼女の手をすり抜けた。
ぼくとエリコさんの手が重なっている。触れているわけじゃないのに、また背骨のあたりがぞわっと冷たくなった。
「ひい……っ」
「あら。ごめんなさい? あたし、自分が何だったか忘れてた」
エリコさんがからからと明るい声で笑って見せた。
遠くでカラスが、まぬけな声でカアァと鳴いた。