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オバケでバブルなエリコさん  作者: つづれ しういち
第二章 性格は薄くないのに
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7 サヨナラ



「でも……。じゃあ、もういいの? それは」

「え?」


 不思議そうに見返されて、ぼくはむらっとおなかの底に火がついた。


「だって、そうでしょう。エリコさん、もうそんなに透明になっちゃって、今にも白いおじいさんのところへ行ってしまいそうなんでしょう。もうその気持ち、もやもやしてないの? どうして?」


 ぼくの声にはどうしても、エリコさんを責める調子が混ざってしまった。だけどエリコさんはちっとも気分を害した様子はなくて、むしろふふっと優しく笑った。


「……そう。それが不思議だったの」


 自分に思い出せないこの世への未練を知らないうちにも、エリコさんはぼくやあのハラダのことや、ミユちゃんのことに関わるうちに、どんどん体が軽くなるのを感じていた。

 そしてとうとうあの日、ミユちゃんやぼくを心配してパパやママたちが駆け付けたあの日に、「ああ、もういいんだわ」って思ったんだって。


「あたし、たぶん『自分の子』ってことにこだわりすぎてたの。よく考えてみたら、人類は全体でひとつの(しゅ)なのにね。ましてやあなたたちは同じ国の人間、その子供たちじゃない」

「え……」


 いきなり思ってもみなかったことを言われて、ぼくはろくに返事をすることもできなかった。ただじっとエリコさんを見つめるばかりだ。


「本当の親じゃなくたって、子供たちを幸せにするお手伝いぐらいはできる。今のあたしはもう死んじゃってるわけだけど、その子たちを助けて、ちょっとでも幸せにしてあげられたんならもういいじゃない、って思ったのよ。それがたとえ、ほんのわずかな人数だったんだとしても」

「エリコさん……」

「オサム君もミユちゃんも、それにちょっと腹は立つけどあのハラダだって、わたしたちみんなの子。そういう風に考えられたら……自分をもっと広くして、まわりを見ることができたらいいわよね。そうしたら、不幸な自分の考えに囚われて、あの黒い霧みたいにならずに済むのかもしれない。……ちょっと、そんな風に思ったのね」


 「だから」と言って、エリコさんはベッドから立ち上がった。もちろん床を歩いてくるわけじゃない。すうっとそのままぼくの目の前にやってくる。


「だから、オサム君にはお礼が言いたかった。あたしのせまーいせまーい視野を、ちょっと……いえ、いっぱい広げてくれたんだもの。ぐだぐだ変なことにこだわって、次の新しいステージに行くことを拒んでいたあたしの心、溶かしてくれたのは君だから」

「そ、……そんな」


 ぼく、そんなえらそうなことは何もしてない。

 ぼくはただ、エリコさんに助けられて、ずっとあたふたしていただけじゃないか。

 気が付いたら、ぼくはあんまりにも力をこめてこぶしをにぎりしめていた。爪が手のひらに突き刺さって痛いことさえ、今になってやっと感じたぐらいだった。

 エリコさんが静かに腰をかがめて顔をぼくに近づけた。


「だから。……あたし、これが言いたかったの」


 そう言って、これまでで一番きれいな笑顔になったエリコさんは、ぼくにこうささやいた。


「ありがとう、オサム君」

「…………」

「あたしのこと、幸せにしてくれて……ありがとう」


 喉の奥から恥ずかしい声があふれてしまいそうになって、ぼくは必死でもっとこぶしをにぎりしめた。それだけじゃ足りなくて、ぐっと奥歯もかみしめた。そうしたら、がまんした分だけ目のほうがあやしくなった。


「……な、の……イヤだ」


 ちがう。そうじゃない。

 ぼくが今、エリコさんに言いたいのは別のことだったのに。

 先にこぼれおちてしまったものがぽろぽろっと頬をつたって唇をぬらし、すこししょっぱい味がした。


「イヤだ。イヤだよ……エリコさん、行っちゃ……イヤだ」


 小さい子みたいに声が震えてしまうのをこらえるので精いっぱいで、ぼくは何を言っているのかもよく分からなかった。


「それ……ぼくが、言いたかったのに」

「えっ? なにを?」


 エリコさんの体が、さっきよりもさらに透明になって光を増している。エリコさんがどんどんまぶしくなっていき、輪郭がぼやけて、また小さな光の玉に戻っていこうとしているようだった。

 もう最後なんだっていうことが、いやというほど伝わってきた。


「エリコ、さん……!」


 触れられないことは分かっていた。でもぼくは、エリコさんに向かっていっぱいに両手をのばした。手のひらに温かいものがふわっと触れて、またエリコさんがきらきら光ったような気がした。


「ありがと、エリコさん。……いっぱい、いっぱい……ありがとう」


 ぼたぼたこぼれ落ちるものはもうそのままにして、ぼくは精一杯笑って見せた。

 エリコさんがもうまぶしいぐらいに輝きながら、にっこりと笑ってくれたようだった。


「それはこっちのセリフだから。ありがとう、オサム君」


 そう言いながらも彼女の姿はどんどんぼやけて、遂にもとの小さな光の玉に戻った。


「いい男になってね。……サヨナラ」


 ぱちんと背後で音がして、びっくりして振り向いたら、サッシの鍵が勝手にくるりと回っていた。そのままするっと窓が開く。光の玉になったエリコさんが、ちかちかと光りながらそこへまっすぐ飛んでいく。


「エリコ、さん……!」


 ぼくは窓のそばに駆けよった。エリコさんの光は外へ出て、そこで少し止まり、こちらを振り向いたような感じがした。

 そこから、しばらく沈黙があった。もしかしたらエリコさんは、何か言おうとして迷っていたのかもしれなかった。


「あの……あのね。オサム君」

「ん、なに……?」

「笑っちゃイヤよ」

「そんな。笑わないよ。……なに?」

「えっと……いつかね」

「うん。いつか……?」

「いつか、あたしの……あたしのね」

「うん、なに?」


 ぼくはエリコさんにちょっとでも長くここに居て欲しくて、話を続けようとあいづちを打ち続けた。

 そうするうちにもエリコさんの声は、どんどんもとのような片言に戻っていく。

 それはとても聞き取りづらくて、ぼくは必死で窓から上半身を乗り出すようにして耳をすませた。


 だからそれは、ぼくの聞き間違いだったかもしれない。

 でもたぶん、その時エリコさんはこう言ったんだ。



『カゾクニ……ナッテネ』



 それが聞こえたかと思ったら、光の玉はまるで、天から吸い上げられるみたいにしてしゅうっと空へ舞い上がっていった。

 まるで地上から、彗星が生まれて飛び上がっていったみたいに。



「エリコさああ────ん!」



 絶叫した。

 何度も何度も。

 ぼくは、空に向かってエリコさんの名を叫びつづけた。


 エリコさん。

 エリコさん。

 エリコさん……!


「ど、どうしたのっ? オサム……!」


 ぼくのすごい声を聞いて、リビングにいたママが飛んできた。一人で窓を開けて大声を出しているぼくを見て、一瞬、ドアのところで棒立ちになる。とてもびっくりしたようだった。

 でもぼくは、そんなことはどうでもよかった。

 そのままママに見られていることも構わずに、まるで小さな子にもどったみたいになって、ぼくはわあわあ泣き続けた。



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