雪村さつき
「追いかけてみればよかったのに」
要の無責任な言い草に、志帆はいささかむっとして、
「簡単に言わないでよ。得体の知れない人間がこっち見てたってだけでも鳥肌物なのに」
しかし、電話越しの要の声はいつも通りの調子で、
「にしても、うちの高校ねえ。学年とかは分からなかったの?」
「だから、顔も見なかったって言ったでしょうが。襟章とか見えたわけじゃ無いし……ってか、ぼやっとした姿を一瞬見たくらいだから」
正直何とかして顔を確認できればよかったのだが、やはり薄気味悪くてしょうがなかった。
「そもそも、そんなに気味悪がること、ないんじゃない? 単純にこう、悩める純情な少年って可能性も……あるかもよ、どっちを見てたかは知らないけど」
そんなわけあるか。あのじっとりとした視線の感じはまるで、獲物を値踏みするような感じで、それこそあの時現れた烏みたいな感じだった。
受話器越しに志帆の様子を察したのか、要は口調を改めて、
「……まあ、そうだね。確かに怪しさ満点。ていうか、怪しい。もしかしなくても、犯人ってオチなのかね……」
そう独り言つようなつぶやきから、気を取り直すようにして、
「しかし、そいつが犯人だとしても、うちの学校の男子ってことだけじゃあね……。そこから絞り込んでいくのは、かなり難しいと思うけど」
「う、そりゃそうなんだけどさ……ちょっと待って」
志帆は少し考え込むようにして、
「たとえば……そうだ、うんと背の高い人は除外できるのかと……」
要は無言。はは、と志帆は苦笑しつつ、
「でも、数少ない身体的特徴だよ。のっぽじゃなかったよ……たぶん」
しかもたぶん、ね――と、要の冷たい声。
「むしろのっぽっていうなら、まだしもね」
「うう、だって本当にちらっと見ただけだし……」
ええと、ほかに何か無かっただろうか? 志帆はなんとか、曖昧化している記憶の中から有益なものを取り出そうとしてみるが、もやもやとしていて、もう何もカタチを整ったものを取り出せそうにない。ただ、男子の制服だけが、やけにくっきり浮かぶだけだ。そこに人物の輪郭はない。
だめだ――。こうなったら稲生高校の全男子生徒について、あの時間帯のアリバイを調べるぐらいしか――。いや、そんなことは非現実的だしもうそこまでくると、警察の範疇だ。警察に相談――したことはしたのだ。ただ、あまりにも志帆の話が曖昧すぎたせいか、事件のショックで何か過剰に反応しているのだろうと、あまり相手にされなかったのだった。それとなくカウンセリングをすすめられたし……。志帆はその時のことを思い出して顔をしかめる。
そんなことを思い出していた志帆だったが、ふとそこに割り込むような要の声に引き戻される。
「……もしかするとこれはまずいことになっているかもしれない」
「え、何、どういうこと?」
先ほどとは打って変わっての、要の真剣な声に、志帆は警察の対応も手伝ってか、思わず身を乗り出すような調子で問いただす。しかし、
「いや、まあ、私の空想というか、はっきりいって無責任な妄想だから、今のところはっきりしたことは言えないんだけど」
固唾を飲む志帆をすかすように、要はあくまで仮説の話をするつもりはないらしく、
「……やっぱり、とりあえずは北川先輩に話を聞きにいかなくてはいけないかな……」
一人で独白するように続ける。すかされた志帆だったがすかさず、志帆はおっかぶせるように、
「明日、北川先輩の自宅に行ってみない? 一応、私、住所知ってるから」
「え? うん……そうだね、そうしてみようか」
要は一瞬、躊躇するように声を落としたものの、志帆の言葉に同意したようだった。携帯の向こうで小さく何度も頷いている様子が伝わってくる。だが、なんだかそれは自分自身、何かの決心をつけようとしている、そんな感じだった。
「それから、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「ん、何?」
志帆が聞き返す。
「ああ、まあ、そんなにたいしたことじゃないんだけど。雪村先輩の持ちものでスケッチブック以外に無くなっていた物とか、なかったのかなと、それを確認したくて」
「無くなっていた物? それは……特に無かったはずだけど……あ」
そこで、志帆は説明しそびれた事柄に気がついた。
「確か、他に持って行こうとしたかもしれないって刑事さんたちが言ってたような……。そうだ、雪村さんの鞄から誰の指紋も出なくて、犯人が物色したからじゃないかって言ってた」
ふつ、と要が黙り込んだ。志帆は慌てたように、
「でも、結局鞄から何か持っていかれた形跡は無かったってことに落ち着いてたし……」
犯人がスケッチブック以外の何かを持っていこうとした、ということを要は重要視しているらしい。そう思って、なんだか取り繕うような言い方になる。しかし当の要は、少々ブツブツ言っただけであまり気にするような風ではなく、
「……ふうん、まあ、本当にそうなっちゃうの……かな。」
「何? もしかして、犯人について何か手掛かりでも浮かんだ?」
要のいかにも思わせぶりな言葉に、思わず志帆の声は高く跳ねる。しかし、要は、
「まだなんともいえない。ただ、事件の大体の形はつかめるかもしれない」
「それって、すごいじゃない」
なかなか気を持たせることを言う。しかし、それ以上は言えないと要はきっぱり言った。
「それじゃあ明日」
そういって要は電話を切った。
それにしても、今の要の思わせぶりっぷりはなかなかすごかったなと、志帆は振り返って苦笑いする。古典的な名探偵、というところだろうか。要としては、そういうつもりではないんだろうが。
それにしても、北川先輩の自宅へ、か。そう志帆は独り言つ。そういえば、要はさっき北川に何か良くないことが――まずいことになるかもしれない、そういうふうなことを言っていたな……。
やっぱり狙われているのかもしれない。あのいやな視線の人影――。志帆はそのときのことを思い出し、少し身震いした。
学校は一見、平生を装いつつも、やはりその水面下でザワザワと浮き足立っていた。おおっぴらに、あるいは隠れるようにして事件についてが語られ、なんだか良く分からない憶測や噂のようなものの断片が、無造作に転がっているといった有様だった。普段、話すことのあまりない生徒が、ここぞと志帆に話しかけてくることもしばしばで、学校中の妙な空気とあいまって、志帆は正直、辟易していた。聞くところによると、やはり今日も北川は学校に来ていないらしい。
昼休みに入り、志帆は逃げるようにして教室を離れ、トイレに入る。しかし、一時的に逃げ込んだだけで、また教室に帰って弁当を広げなければならない。何か億劫だな――そう思いつつ、トイレを出たところ、
「あ、志帆ちゃんじゃない」
見知った先輩に声をかけられた。くっきりした目鼻立ちと意思の強そうな目をもつ、背の高い少女――。
「小野寺先輩――」
髪の毛先が、少しカールしたセミロングの良く似合う三年生の小野寺真由子は、文芸部の部長をしている。特に部として活動しているわけではない志帆たちだが、時々小説を書いているということで、よく文芸部が発行する機関誌への寄稿を――まあ、スペースが開いたら、と言うことだが――求められていた。ちょっと前までは盛んに文芸部への入部を進められてもいたのだが、ようやく、それはあきらめたらしい。
「志帆ちゃん、お昼いっしょに食べない? 今度発行する機関誌についての話もしたいしさ」
気軽な声の調子と屈託のない笑顔に、志帆は、そのまま引き込まれるようにして頷いていた。
志帆と小野寺は食堂の隅っこのほうで弁当を開く。この学食では、デザートを頼むため、食堂に弁当を持ち込む女子生徒は多い。小野寺もさっそく一番人気のエクレアを確保していた。
「なんか、大丈夫そうみたいで、お姉さんちょっと安心したよ」
「ええ、まあ、ただちょっと巻き込まれたってだけですし……」
志帆が言うと、小野寺はそう、というふうに頷いて穏やかな笑みを見せると、それ以上事件についての話は何も聞いてはこなかった。
「――でね、今回も書いてほしいんだ。どう? 出来れば一人二編くらい。作品の方向とか、全体のカラーとか、特に縛りはないから。ほんっと、情けないけど、ウチの部員って創作には及び腰で、評論――それも気が抜けた書評みたいなやつばっかなのよねぇ。
あーあ、兄貴達のころってもっとこう、創作に対する熱いものがあったのに」
小野寺は先代たちの栄光と自分らの体たらくを引き比べ、ひとしきりぼやくと、ミニトマトをほおばる。
「あ、要ちゃんにもはっきり言っといて、ぜひお願いするって。いっつも、のらりくらりと生返事ばっかりなんだから」
以前紹介――というか、勝手に志帆が要の小説を見せたのだが――して以来、小野寺は妙に要の作品を評価しているらしく、彼女の変な探偵小説モドキ――もとい、変格探偵小説には、小野寺自身が気合の入った評論を書いたりしていている。しかし、要はというと、書くか書かないかはけっこう気まぐれだ。部員じゃないし、そもそも学校違うし、書けないときは書けないでいいでしょ、という感じで逃げ回っている。たぶん志帆が勝手に見せたのを根に持っているのもあるんだと思うが。
志帆自身はまあ、無難に普段書かないようなものを、評判はともかく書かせてもらっている。
小野寺はお願いね、とかさねて念を押し、それからは、寄稿してもらう作品の長さはだいたいどれくらいの枚数に纏めてほしいとか、だいたい何日までに仕上げてほしいとかいったことを大雑把にだが、てきぱきと進めていく。
「なんかこうやって、いつもうまいぐあいに書かされちゃうんですよね」
そういうと、小野寺はニヤリと笑いながらも、
「いつものことじゃない。まあ、約一名、なかなか手ごわいのがいるけど。でも、だから逆に燃えてくる」
はいはい、と志帆は言いつつ、一応、あんまり当てにしすぎないでくださいよと付け加える。
だいたいの話が終わり、ひと段落ついて雑談に流れたところで、志帆は北川について知っているかと、比較的さりげなく聞いてみた。一瞬迷ったが、せっかく三年生がいるんだし、と思い切ってみる。
小野寺は動きを止めると、じっと志帆の推し量るようにして見つめ、それからふるふると、首を横に振る。
「北川さんも……それから、雪村さんのことも特には知らないよ。クラス違うし、友達つながりの知り合いってわけでもないし。だから、あたしからは二人について、っていうのはちょっとね……」
しかしそう言った後、ただ、と慎重そうに言葉を続けた。
「雪村さんには、一度だけ声をかけたことがあるのよね……。彼女、図書室で本を読んでいるのを最近よく見かけたから、文芸部にでもどうですかってね。まあ、あっさり断られちゃったんだけどさ。ふだんはもっとしつこく誘ったりするんだけどね……」
一応、自覚あったんだ……と思いながら、
「人づき合いが苦手そうな感じだったんですか?」
北川の話を聞いた志帆のイメージからだったが、小野寺はそれに対し、あからさまな苦笑いを返す。
「それはたぶん、全然違うと思う。よくある内向的で暗い感じの女の子って言うふうなんかじゃ無かったよ。そういう子は、人を怖がって距離を置くタイプだろうけど、あの人は何だろ……たぶん人なんか何とも思ってない。……言葉は悪いけど、すっごい怖かったのよね。……その、一瞬目をあわせただけだったんだけど」
一端、そこで小野寺は言葉を切ると、そのときのことを思い出したのか、
「あれはゾッとした……何だったんだろ、あれ。相手に感情をぶつけるなんてもんじゃなくて、そもそも何も見てないような目……」
なんだかうわごとめいてきた。自身でも自分の物言いに気がついたのか、慌てたように掌をぶんぶんふり、
「――って、あんまり本気にしないでよ? ちょっと話をしただけだし、あくまであたし自身の印象ってだけのことだから」
小野寺は話を切り上げるように、
「あたしがいえるのはまあ、そんなもん」
そうぶっきらぼうに言ってから、エクレアにかぶりつく。
志帆が北川の話を聞いていた時の雪村のイメージからはだいぶ食い違う気がしたのだが、それ以上つっこむわけにもいかず、そのまま、昼休みは終わってしまったのだった。