プロローグ
これもまあ、だいぶ前に投稿したやつのリライトですね。大幅に改稿しながらになるので更新はとびとびになりそう。
密室やそれに準じるトリック小説ではなく、猟奇に振りつつロジック中心な感じでしょうか。一応、高校生が主人公のミステリです。
風が吹いた。湿り気を帯びた生暖かい風が。そして、〝それ〟を少し揺らす。
怪鳥の如き鳴き声が、抗議するように響いた。羽ばたく音。真っ黒で艶やかな羽の群れ。まるで、闇が蠢いているかのよう――。
そこへ、今度は突風が舞い込む。木々はザワザワと身を揺らす。そうとうの風。群がる闇がめくり上がる。やかましい鳴き声と羽ばたきを残し、彼らは〝それ〟から離れた。
取り残されて、ぶらり、ぶらり、とかすかに揺れる――少女。
木の枝からぶら下がるロープに首を巻きつけ、そのぐにゃりと曲がった首が露になる。目が在ったはずの場所には、ぽっかりと空いた二つの穴。もう、どこを見ることもない。
鳴き声が響く。カラスどもの鳴き声が。
それは、何かを予知しているかのような鳴き声だった。
そして、まもなくポツ、ポツ、と木の葉を打つ音。それらは次第に大きくなり、やがて、雨粒が、すべてを打つ音で包まれていく。白くけぶる、幽幽とした空気が満ち始め、あたりはその姿を一変させはじめていく。
少女の死をぽつんと、そこに留めたまま――。
天上から無造作に下ろされた雨のカーテン――そんな夕立が街を白くけぶらせる中、志帆は重い学生鞄を抱えて走っていた。
――ああ、もう、どうして雨なんか降ってくるのよ! 心の中で愚痴りながら、路地を駆ける。早くもアスファルトには、所々小さな水溜りができており、パシャパシャと、踏み込んだ足の下から小さな音がする。制服はあっという間に、じっとりと湿り気を帯び、体に張り付くようにもなって、不快感はいやが上にも増す。肩あたりまでのを短いポニーテールに纏めた髪も、かなり水を吸っている。
雨音がさらに大きさを増す中、志帆は雨宿りできそうな場所を必死で探していた。路地を曲がり、さらにスピードを上げる。大きく上下にぶれる視界――その端に、屋根が大きく張り出した建物が捕らえられる。
しめた、とばかりに屋根の下へと一目散に駆け込む志帆。なんとか雨粒の猛攻撃から解放され、ほっとしたものの、今度は雨の勢いが、みるみるうちに弱まっていく。屋根の先から滝のように流れ落ちていた水も、同じようにして勢いを失い、雨はやがて降るか降らないかの小雨に成り果て、やんだ。
なんともあっけない、そして、あっという間の出来事――。
「な、なんなのよ……」
前髪を、額に張り付かせたまま、志帆は呆然とうめく。いまいましいというか、なんというか、ただもう苦笑めいたものを、口の端に張り付かせるしかない。
そこへ誰かのひどく掠れた小さな悲鳴が、いきなり志帆の耳に入ってきた。距離は意外と近い。反射的に足が動き、志帆は意識した時にはすでに声の元へと向かっていた。
建物の裏側へと回りこむと、すぐに声の主は見つかった。志帆と同じ制服姿の女の子が、ぬれた地面にへたり込んでいる。志帆と同じくずぶ濡れで、短くカットされた襟足が、細い首筋にべったり纏わり付いていた。
少女に声をかけ、近寄ろうとした志帆だったが、ぴたりと動きをとめる。少女の向こう側にある異様なものが、目に入ったからだった。
爪先を僅かに、地面につけるようにして、少女が浮かんでいた。志帆やもう一人の少女と同じくらいの年頃で、同じ制服姿。
ロープが絡みつく青白い首。そして長く、うらやましいくらいに綺麗な黒髪が、濡れそぼって、益々艶やかに、そして黒く輝く。
うつむき加減にもかかわらず、髪留めのおかげで、顔が露わになっている。だから、見えてしまった。
――眼球が、在るべき場所にない、その空洞を。
両目とも、くり貫かれたように空っぽだった。そして、その空洞は、何ものかにつつかれたような、赤いささくれに、縁取られていた。
自然と意識することなく、志帆の咽喉がヒュッと音を立てる。
座り込んでいた少女が、びくりと肩を震わせ、そろそろと振り返った。
青白く引き攣った顔は、志帆を認めると同じ女の子ということで、少し安堵した様子を見せたが、それでもひどく混乱していることはあきらかだった。
「さ、さつきちゃんが……どうして」
訴えるように、少女は口を動かす。どうやら吊るされている少女のことを知っているようだ。
「……何で、どうして吊るされているの?」弱々しい言葉が続く。
志帆自身も、あまりのことに言葉を失っていたが、相手のほうがひどく取り乱していたせいか、いくぶん冷静さをとどめることができた。
とにかく死体から離れよう――。志帆はわななく相手をあやすようにして立ち上がらせ、そばに落ちていた彼女の鞄も手に取る。
そうして、少女とともに先ほど雨宿りしていた地点まで戻っていった。
屋根の下、少女はぐったりとしたようにその場に座り込んでしまう。志帆は放り出していた自分の鞄から携帯電話を取り出すと、少し震える指で警察への通報を行った。
つっかえ、つっかえ、何とかそのしんどい作業を終えると、志帆は携帯を閉じ、力でも抜けたように溜息を深くついた。うつむいた拍子に、つうーっと、水滴が額をつたう。
――なんというか、えらいことに遭遇してしまった。
この屋根の下に飛び込んでからの展開があまりにも目まぐるしくて、もう何がなんだか。現状を整理するのも億劫だ。
「あの……早瀬……さん?」不意に名前を呼ばれる。
座り込んでいた少女が、志帆を見上げていた。目を赤く腫らしていたものの、ある程度冷静さを取り戻したようで、声はしっかりとしていた。
「え、えっと、どうして私の名前を……」
戸惑い気味、というかいささかぎょっとした態の志帆に、彼女は苦笑して、
「だって、さっき電話で言ってた……」
「あ……ああ、そうか、あはは……」
まったくしょうがない――。志帆は照れ隠しでもするように、前髪をいじり、そういえば、と相手の名前を尋ねる。
彼女の名は北川小夜子。そして、志帆の通う高校の三年生ということだった。北川はかなり幼い顔立ちだったので、一年先輩だと聞いて、志帆は少し驚く。
その北川が、おずおずといった調子で、
「あの、早瀬さんはどうしてここに?」
先程の志帆ではないが、相手の質問はいささか妙な感じだった。
「え、その、私は雨宿りのために、たまたま寄ったんですけど……」訝しげに言葉を返す。
「あ、そう……だよね。いきなり雨が降ってきたのよね」
北川は思い出したように言う。どうも彼女は、志帆と同じくたまたま雨宿りに寄った、というわけではなさそうだった。まあ、それより彼女にはまず、確認しておきたいことがある。志帆は幾分慎重に切り出す。
「あの……あそこで吊るされていた人のこと、もしかして、知ってるんですか?……」
北川は少し俯き、わずかな間押し黙ると、やがて低い声で彼女の名前は雪村さつきだと答えた。
「あたしの……友達……」
そう……ですか、と志保はあいまいな相槌を打つ。
――もしかして、北川は何らかの目的があって、この場に居たんじゃないだろうか? どうもそんな気がする。突っ込んで聞いてみようかどうかと志帆は迷う。が、迷っている間に、北川はそのまま勢いづくようにして、言葉を続けていく。
「一番奥の部屋の奥――ちょうど、建物の裏側にある――窓からね、見えたの。さつきちゃんが。木の枝で隠れてて、胸ぐらいまでしか見えなかったんだけど、すぐさつきちゃんだって分かった……」
それで、建物の裏へと回り込み、それから、悲鳴を聞きつけた志帆がその場に駆けつける――という次第になったわけか。……もしかして、こんな所で待ち合わせでもしていたのだろうか? 志帆は首をひねる。
「あたし、何がなんだか分かんなくて、しばらくぼうっとなってて……分かんないよ、どうして? どうしてさつきちゃんは吊されてたの?」
北川の言葉は、ほとんど独り言のようになってくる。死体発見時のショックがよみがえったのか、声も不安定な響きが大きくなった。
志帆はあわてて北川をなだめにかかる。
何とか落ち着きを取り戻したらしい北川だったが、ふと気がついたように、「そういえば、あたしタオル、中においてきちゃった……」
ずぶ濡れの頭を拭こうと思い立ったらしい。志帆は、私が取ってきますと言い、「これ、使っててください。ちょっと濡れてますけど」
ハンカチを差し出し、そのまま北川に押し付けるように渡すと、志帆は開けっ放しになったアルミ製の引き戸をくぐり、建物の中に入っていった。
この建物はもともと、かなり小さな工務店か何かだったのかもしれない。入ってすぐの部屋は、事務室っぽい所で、それらしき名残があった。部屋としては少し狭く、窓はない。そして、さらに奥の部屋へ。入ると、さっきの部屋よりぐっと広くなっている。
中はやたら雑然としていた。角材やら、金属のパイプなどの金物がそこらに散らばっているし、部屋の両脇には作業台のようなものや、何に使うのか良く分からない機材がつんであって、側面の窓は塞がってしまっている。
志帆は奥の窓へ歩を進める。大きな窓が二つ、どちらもガラスが羽目殺しになっている。
窓に向かって左側の壁際におそらく、雪村のものであろう学生鞄が、縦にして壁と接するように置いてあった。鞄の端には小さなウサギの人形が付いている。そういえばさっきの少女の鞄にも同じものが付いていたな、と志帆は気づく。鞄のすぐ近くに白いタオルが落ちていた。さっそく志保はそれを拾う。
タオルを拾い上げた拍子に、窓の外へ目が行く。――なるほど、確かにここから雪村が見える。北川が言ったとおり、胸から上は張り出した枝と葉に隠れていて見えない。その奥のほうは斜面になっているのか、木々が段々になって高くなっている。
――窓の外で、鳴き声がした。いびつで、耳障りなほどに割れた鳴き声。志帆の視界の端で、禍々しいほどの黒が、緑の間をよぎる。
「やっぱり、カラスか……」
志帆は眉を顰めつつ、ポツリとこぼす。雨が上がったのをみて、屍肉あさりを再開するつもりなのか。不快感とともに、雪村の顔――顕わになった眼窩と、赤くささくれ立った目蓋や目尻が思い出され、思わず目を背ける。
「――やっぱり、夢なはずないよね……」
ふいに背後から呟くような声。志帆が振り返ると、北川が部屋にふらふらと入ってきていた。彼女は窓の外を憑かれたように見ている。
志帆は北川の視線を遮るようにして近寄り、出ましょう、と促した。
外に出ると遅まきながら、警察のものらしい赤色灯が近づいてきていた。雨もすっかり上がり、志帆はやっと安堵感を覚える。ただ、背後で響く鳴き声は、次第にその数を増やしていく。まるで、不吉が降り積もっていくように。空もやけに赤く、心の中でわだかまるザワザワとした気持ちは、むしろ大きくなっていくようだった。
そしてまたひとつ、カラスの鳴き声が赤い空に響くのだった。