4話 波に揺られて進む先には
鼓膜を揺する涼やかな波の音。鼻を擽る潮の香りを肺一杯に吸い込む。
ここは、大陸の最東端に位置する港町。つまり、東の果て、絶海の孤島鬼ヶ島に最も近い場所。
名をワタツミ。漁業が盛んなこの街は、今日も酒と喧騒が溢れている。
◆ ◆ ◆
「おなしゃっす! 頼んますよダンナァ! 後生の頼みッ! 一生のお願いっ! 雑用でもなんでもやらせて頂きますんで、どうか、どうかっ! 『鬼ヶ島』に連れてってください!」
「勘弁してくれニィちゃん、いくら金を積まれようと俺ァあそこに近付くのだけは御免だぜ」
「だってだって! ワタツミ一勇敢と言われる貴方が断るってんだったら! 一体誰が僕を連れてってくれるんですか!」
「知るかよ、だが誰も首を縦に振らねェんじゃねェのか? 悪いことは言わねェ、諦めな」
「ちょっとちょっと! そんな逃げ腰じゃ勇敢の二文字が笑いますよ!」
「勝手に笑わせりゃいんだそんなモン、命あっての人生だろォが」
「そんな馬鹿な! 困るよっ、そう、今まで黙ってたけど実は僕は王様の命を受けて……」
「おいおいニィちゃん、嘘つくならもっとマシな嘘つきな。いい加減にしねェと俺も怒るぜェ? 自殺なら別の場所でやるこった」
「あぁぁぁああ! 待ってぇぇぇぇエエエエ!」
必死に手を伸ばすも、無情にも彼は行ってしまう。
これで二三連敗。最早打つ手が無い。龍神様という難関を突破したと思ったら、思わぬ落とし穴に嵌ってしまった。
なんてことだ。
項垂れ、迸り溢れ出す雫で地面を濡らしている僕の頭を、心底同情するといった表情でミュウは優しく撫でてくれた。
正直髪の毛がぐしゃぐしゃになるので止めてもらいたい。
「で、どうするんですギフトさん? まさかの事態ですよ、私、流石にこれは予想できませんでした」
「僕もさ……。ずっと鬼ヶ島に着いた後のことを考えてた。まさかこんなところに落とし穴があるとは……」
早、二ヶ月。このワダツミに来てから経過した時間である。
王様からの猶予は六ヶ月。ドワーフの里及び龍獄山で一ヶ月と五日、ここまで来るのに一週間と三日、そしてワダツミ滞在期間驚きの二ヶ月。
三ヶ月と一五日、既に半分を切った計算となる。
傷を癒すのに一週間程滞在するつもりだったが、気づけば二ヶ月も経っている。
こんな筈ではなかった。予定では既に鬼ヶ島に到着してなくちゃいけないのに。
予想外の足止めを食らうこととなった原因は、たった一つ。
龍神様との全力戦闘の結果が生み出した、思わぬ障害。
地面に蹲ったまま、ぼんやりと手のひらを見つめる。
僕は今まで全力で戦ったことが二回ある。
一度目は自惚れて調子づいていた頃の、師匠との初めての邂逅。
ボッコボコにされて強制的に王宮に拉致られたトラウマである。
そして二度目、龍神様との戦闘。
僕は全力で戦った、本気の本気で戦った。
その結果、僕の魔力は完全に底をつき……なんと、未だに回復に至っていない。
力なく視線を落とした手のひらは、いつも以上に力を感じさせない。
そうなのだ。
今現在の僕は、魔力を一切行使することのできない、つまりなんの取り柄もないキングオブヘタレ。
魔力がなければ魔術を使えず、魔術を使えない以上、絶海の孤島鬼ヶ島に行くには足がいる。
だが、結果は惨敗。生きて戻った人が居ないといわれる『鬼ヶ島』に連れて行ってくれる猛者、狂人、もしくは自殺志願者は存在しなかった。
「どうしましょか、ギフトさん。私こんな所で、こんなくっそしょうもない理由で終わるのヤです。散るなら劇的に散って逝きたい」
「どうするもこうするも、どうしようもないさ。船もない、乗せてくれる人もいない、魔力は未だ回復の兆しを見せない、僕の未来は処刑台」
「ギロチンで首落とされるときに、なにか歴史に名を残すような名言を声高々に叫んでくださいね? 私、安全地帯で見守ってますんで」
「いやだぁぁぁ、死にたくないよぅ。くそぉぅ龍神めぇぇぇ!」
残り二ヶ月とちょっと。それまでに鬼ヶ島に行って魂をもらい、精霊王の涙を取って王宮に帰還しなければ僕に未来はない。
なんでこんなことにっ。
思わず呆然と空を仰ぐ。
憎たらしいぐらいに光輝く太陽が、何故か笑っているような気がした。
結局協力者を見つけることができないまま、今日も宿屋のベッドに頭から突っ伏した。
魔力があれば、楽々『鬼ヶ島』にいけるのに。
残念ながらミュウの扱う魔術の中に、僕らが『鬼ヶ島』へいける様な魔術は存在しなかった。
やっぱり僕の魔力が回復しないと駄目なのだ。
いや、というか王様が少しでも僕に協力してくれたらイイのに。
ミュウに『手紙鳥』を造ってもらい、事情を詳細に記して王様に送ったというのに、返信は『我関せず、許せ』。許すかふざけるなボケぇ。
最近わりとマジで王様は僕を殺したいのではないのだろうかと考えるようになった。
だってそうじゃん! 旅の資金はでない! 協力者はいない! 龍獄山の立ち入りは許可されない! 協力要請は拒否される!
ふざけんなあんのくそオヤジィ! 絶対勇者召喚を成功させる気無いだろ!
「うがァァァァ! 逃げ出したいィィィィ」
枕に顔を埋めて腹の底から叫ぶ。王様から頂いた旅の資金はとっくに尽きた。
この宿屋に止まる金だって、僕が師匠の肩を揉んだりして貯めた金なのだ。
なんでこんなことの為に使わなければいけないのか。
「まぁまぁギフトさん落ち着いて、なにか方法を考えましょう」
ギロリ、と僕は隣のベッドでゴロンゴロン楽しそうな笑い声を上げて派手に転がっているミュウを睨む。
そう、この部屋なんと一人部屋ではなく二人部屋である。
どうせミュウは妖精だし、人に見られるとまずいから基本隠れてるしで、僕は一人部屋を取ろうとしたのだ。
しかしそこでミュウが猛然と抗議を始めた。
『私だって人権てきなものはある』『いないものとして扱われるのは気分が悪い』『旅の醍醐味である宿屋イベントで除け者はヤだ』
ギャーギャーワーワー耳元で騒がれては堪らない。
結局折れたのは僕の方だ。断腸の思いで必要もない二人部屋を予約、倍近い金額を払うこととなった。
「むむむ。なんで睨むんですか、私変なこと言った覚えないですけど」
「うるさいうるさいっ。ともかく、あと三日だ。それでも見つからなかったら少なくとも、宿屋はもっと安い場所に移るぞ、勿論一人部屋だ」
「えーっ! ヤーだヤーだっ! ……と言いたいですが、まァ仕方がないですかねえ。ギフトさん、お金ってあとどれくらいあるんです?」
「……三食お腹いっぱい食べるとして、あと一ヶ月はなんとか……」
「ご飯は妥協しませんよご飯は! 『庭』では決して食べることのできない外の料理! 私いつもすーっごく楽しみにしてるんですからっ」
「わかってるよ、あれだけ美味しそうに食べるんだもん。でもなァ、お金がなァ」
ミュウは僕の言葉を聞き、この世の絶望を知ったかのように今にも泣き出しそうに顔を歪める。
そんなに嫌か、大食い美食キャラだとは思わなかったぞ。
確かに、ミュウは食べる。よく食べる。基本、僕のお腹辺りに引っ付いて、隠れながらだが本当に美味しそうに食べる。
ミュウは体が小さいため、食べる量は多くはないが高い安い関係なく様々なものを食べようとする。
僕に着いてきている理由の一つとして、食べたことのない美味しいものが食べれるというのはあるのだろう。
そんなミュウは、節約の為にご飯を食べれなくなるというのは中々に辛いものがあるようで。
だが、結局お金を払っているのは僕で、あまり我が儘も言えないと思ったのか、小さな声で了承してくれた。
顔を伏せてぷるぷる震える姿を見て、僕は無性に謝りたくなってきた。
何故だ、お金が足りないから食べる量を減らす。至極当然の選択をした僕が、何故罪悪感的なものに悩まされなければならない!
「ま、まァあれだよ。早くに鬼ヶ島に行ければ、それだけ宿屋なんかに払うお金は減るし、うまくいけば食事回数減らさなくても良いかも……ね?」
「な、なら早く見つけなきゃですよっ! ギフトさん頑張りましょう!」
「うん、でも今日はもう終わり、勘弁して。朝からずっと頭下げっぱなしで首が疲れた」
「ギフトさんがあまりに自然に頭を下げるから、なんとも思わなかったですけど。ここ二ヶ月ずっとですもんねえ」
明日にしましょっか、とミュウはヤレヤレとでも言いたげに首を左右に振る。
そうさせてもらおう。時間がないのは確かだが、途中で倒れたら元も子もない。
人には休息が必要なのだ。それに休息は魔力回復を助ける……と思う。
魔力を使い切った結果、魔力が回復しないなんて前例がない。
このまま一生魔力が回復しないのでは、なんて密かにびびってるのは内緒だ。
「それじゃあお休み、ミュウ」
「お休みです。明日こそ見つけますよ、協力者っ」
ぐっと気合を入れるミュウを見て、思わずくすりと笑が溢れる。
うん、明日こそ見つかればいいな。
希望を胸に、僕は目を閉じた。
そして、深夜。
月が暗闇を照らし出す。
淡い光が降り注ぐ黒色の世界を、劈く一つの野太い声が切り裂いた。
「海賊だァァァァッ!」
めんどくさいことになったようだ。
寝ぼけた頭で、ただそれだけがしっかり理解できた。
◆ ◆ ◆
「どうしてこうなった」
手足を縛られ床に転がされている状態で、僕はため息と共に愚痴を零す。
鼻に付く腐った臭い、ゴロゴロと波に合わせて揺れる部屋の中を転がる。
そう、いま僕は海賊船に拉致られているのです。
「どうしたもこうしたも、『海賊が来たぞぉー』って教えてくれたのに、ギフトさんが二度寝するからでしょう。起きてさっさと逃げれば捕まんなかったですよ」
転がっている僕の胸元からひょっこりと顔だけ出して、ミュウはぷくくくと笑いをこらえながら言う。
「いやーみんな逃げ足早いね、捕まったの僕らだけだよ」
「僕『ら』って、捕まったのはギフトさんだけですよぅ。私はただ着いて来たんです」
「着いてきたってねぇ。てかミュウが起こしてくれたら良かったんじゃん。なんで起こしてくれなかったのさ」
「私、海賊船に乗るのって初めてなんですよね。体験できることは体験しとかないとっ」
このクソ妖精はどうやら、自分の命よりも好奇心を取るようだ。
僕が力を使えないのを知ってるから、それをあてにした訳じゃないだろうし。
この程度の海賊であればミュウだけでも制圧、ないし皆殺しに出来るとの考えがあるのだろう。
しかし常常思ってたけど、ミュウはいつか自分の好奇心に殺されそうだな。
「あーもう最悪だよ。僕はただ、鬼ヶ島に行きたいだけなのにっ。どうして海賊船に乗ってるのだろうか」
「行きましょうよ、鬼ヶ島」
「いやだからさ、いま僕ら海賊船に拉致られてるわけでさ」
「いやいや、だからこそですよ。海賊なんて基本野蛮な猿でしょう? こう、財宝の在り処的な感じでうまく乗せて、鬼ヶ島に誘導とかできないですかね?」
「僕にできるとでも? 僕の特技は誠心誠意心を込めた『お願い』だ」
「でしょうね、ギフトさんにはヘタレることしかできないでしょう。圧倒的魔術による『お願い』も今は出来ませんし。しかしっ、ここにはミュウちゃんがいるのですよ! 私に全て任せなさい、あっという間に鬼ヶ島の土を踏むことになるでしょう!」
「どうしよう、ものっそい不安だ」
「ぶち殺しますよ」
刺々しい空気を纏ったミュウは、しかし纏う空気に反して、惚れ惚れするような可愛らしい笑みを浮かべる。それがなおさら、恐ろしい。
くそぅ、僕が今弱いからって調子に乗ってるのか?
……いや、コイツはいつもこうだったな、うん。
つらつらと自らの不憫さに涙を浮かべて思考に浸っていると、扉の向こう側からカツリカツリと足音が聞こえてくる。
「むむっ、どうやら来たようですね」
「ホントに大丈夫? 僕死にたくないのだけど」
「大丈夫ですよぅ、私を信じなさい」
ミュウは小さな拳でペタンコな胸をドンと力強く叩き、自信満々の輝く笑顔を浮かべて、
「このミュウちゃんにお任せあれっ。作戦決行ですっ!」
「ヤバイよ……不安しかないっ」
「お黙りなさい」
「ぐぎゅぅえ」
◆ ◆ ◆
燦々と降り注ぐ陽の光を受けながら、僕はデッキの上を心を込めて掃除する。
時折投げかけられる罵声、怒号を受けペコペコ頭を下げながら、デッキをこするモップの動きは止めない。
なにせ、この後も大量の雑用が残っているのだ。
後の仕事を考え、憂鬱な気分に陥った僕は、雑念を吹き飛ばすように大きく息を吐きだした。
結果から言おう。
ミュウの試みは成功した。
捕虜から交渉を持ちかけられ、それに答えてみれば初めて見る不思議な生物との邂逅。
妖精はその希少性から多種多様な噂が囁かれる。破滅を齎す悪魔とも、幸運を運ぶ天使とも。
姿を見たことがある者など極僅かである妖精を、案の定この海賊船の一味も見たことはなかった。
人の前に滅多に姿を現さない、世間一般では半ばおとぎ話。僕も妖精を見たのはミュウが初めてだ。
ともかく妖精を名乗る可憐な少女は、呆然と目を見開く海賊一味に対し、ここぞとばかりにマシンガントークでお宝だとか億万長者だとか、世界征服だとか。
よく考えれば矛盾というか穴だらけの理論を言葉巧みにぶつけられた結果、ミュウの予想通り頭があまりよろしくなかったらしい海賊は、コロリと騙され進路を鬼ヶ島にとった。
そこまではいい。どうやら僕は『お宝の秘密を教えてくれた妖精様のオマケ』にギリギリなれたようで、命は取られなかったがこうして雑用係として日々身を粉にして働いている。
問題はそこだ。なんで僕が雑用なのさ、宮殿魔術師って言えばエリートだぜ?
おかしいよこんなの、絶対におかしい。
まぁ『僕は宮殿魔術師だーいっ』って叫んでも、魔術が使えない今の僕じゃ詐欺師呼ばわりされるだけなんですけどもっ。
ふと遠くを見れば、海賊船の船長の肩に止まったミュウが大きく口を開けて快活そうに笑い合っている。
なんとも腹黒そうな笑い声だ。腕っ節はあるがおバカな悪役とその参謀的な感じだな、お似合いだ。
じっと見ていたので視線に気付いたのか、ミュウが笑うのをやめてこちらに振り向く。
慌てて掃除に戻るが、その直前にミュウが素晴らしい笑顔でサムズアップをしているのが見えた。
『全て予定通り! 私に任せてくださいっ』
そんな幻聴が聞こえてくるようだった。
うん、そうだね。予定通り鬼ヶ島に行けるね。
でもさ、少しは僕の待遇をよくするために動いてくれませんか?
最近まともに寝てないの。
恨めしそうに睨んでみたら、ミュウは既にどこかへ飛び立っていた。
え、嘘なんで。なんでなのさ。
なんで、船長がこちらをじっと見つめてんのさーっ。
……うふふふ、だぁーっはっはっはっはーっ!(泣)
僕の仕事量は倍に増えた。
そして、凡そ二週間後。地獄の雑用生活は遂に終わりを告げた。
龍神の巧妙な策略により、凡そ三ヶ月近く足止めを喰らってしまったが、遂に僕らはたどり着いたのだ。
あの、生きて戻った者は居ないと言われる鬼ヶ島に。
……よくよく考えてみると、たどり着かない方が良かったのではないだろうか? と思ってしまったのはヒミツだ。
小型ボートに乗り込んだ僕は、横転させないように慎重な手つきでオールを漕ぐ。
僕は魔術師なのに、何故こんな肉体労働をしているのだろうか? おかしい、こんなはずでは。
「いいか雑用! 妖精様に傷を付けたらテメェの一族もろとも皆殺しにすっぞォ!」
「イエス船長っ! 妖精様には指一本触れませんとも! 」
野太い怒号に肩を震わせ、情景反射で最敬礼、元気よく服従の返事を返す。
命の危機にでも陥らない限り、僕はめんどくさがりなキングオブヘタレで間違いない。
怖いよ、あの髭達磨。ドワーフ王とどっこいどっこいの汚さ。
髭船長の肩に止まってご機嫌をとっていたミュウが、その後隠れてゲロゲロ吐きながら『く、臭い……っ』と嗚咽を漏らしていたのを先日目にしてしまった。
ミュウに僕の待遇を少しでも良くできなかったのか、と怒ってやろうと思ったけど止めにした。
ミュウ、お前も大変だったんだなぁ……。僕の肩に止まり、髪の毛の匂いを嗅いで『く、臭くないっ!』と感動していたミュウを見て、不覚にも涙ぐんでしまった。
そんな彼女は現在僕の肩に止まり、もきゅもきゅと大好きと言ってやまない『木苺タルト』を頬張っている。
この航海中出された食事はどうやらミュウの口に合わなかったようで、僕に会うなりこれで安心して食べられるとお菓子を取り出し頬張り始めたのだ。
可愛そうに、ミュウは極力自分で隠し持っている食べ物なんかを食べなかったらしい。
まあ出された料理を食べず、他の物を食べていたらイラっとするだろう。
だけどあのミュウが、『ご飯に関しては一切妥協しない』と豪語したミュウが、『ご飯を妥協して』まで鬼ヶ島への片道切符をモノにしたのだ。
そんなに行きたかったのか、鬼ヶ島。行きたいと言って行くような場所じゃないんだぜ? 好奇心に忠実なのも程々にしようよ。
もきゅもきゅと幸せそうにほっぺた膨らませて頬張っているミュウを見る。ミュウは自分に向けられた視線に気づき、首を傾げて数秒悩んだ後何かを閃いたようにポン、と手を鳴らす。
いそいそと取り出したのは木苺タルト。彼女はそれを無言で僕に差し出す。
びっくりして動きを止めた僕を見て、ミュウは『いらないんですか?』というように首をかしげた。
再び涙ぐむ僕。ミュウ、君は一体いつからこんなにいい娘になったんだ。
碌な物しか口にしなかった最悪の航海、僕はミュウを全力で撫で回しながらタルトを一口で飲み込む。
その際ミュウから『むぎゅぇーっ』という抗議の声が上がったのはご愛嬌だ。
ともかく、鬼ヶ島までボードで行くことになったのは勿論ミュウの仕業だ。
海賊たちもついてきたら面倒になると判断して、言葉巧みにミュウと僕以外上陸してはダメだと言いくるめたらしい。
うまい手だ。
これで海賊たちともオサラバ。鬼ヶ島で休憩をとって英気を養い、その後で獄門へ向かおう。死霊之王がいるのは獄門の先、所謂“地獄”だ。
ふう、今更ながら怖くなってきた。一応ワタツミにいる間に、『聖水』などを買いあさっているが、やはり魔術が使えないのは心細い。
そんな僕の気持ちを察してか、タルトをぺろりと平らげたミュウが満足そうな笑みを浮かべてこっちを向く。
「心配なんですか? ギフトさんは。でも大丈夫ですよ、なんせこのミュウちゃんが居ますからねっ。今回は龍神様の時に比べたら危険も随分少ないですし、なんとかなりますよ!」
そうなのだ。前回、取らねばならなかったのは龍神の血。絶対に龍神に接触しなければ入手不可能だったのに対し、今回は死霊之王の魂。
正確には、死霊之王が受け入れた数多の魂のうち一つ。獄門の先の地獄は、三つのエリアに分かれているらしい。その最深部に存在する魂こそ、死霊之王が受け入れた魂で、今回入手するべきもの。最深部は広く、死霊之王が受け入れた魂は数百にも上ると言われているし、もしかすると死霊之王にあわなくても採取は可能かもしれない。
そんな、お気楽な考えを浮かべている時だった。
唐突に。あまりにも、突然に。
ドッバン! と劈く爆音が全身を撃ち抜いた。
同時に、波が大きくうねり、恰も嵐の真っ只中のように海が荒れ狂う。
オールはあっという間に流され、僕とミュウは慌ててボートにしがみつく。
「ななななっ!? なんっすかこれーっ!」
「僕が分かる訳ないだろーっ!」
半ばパニックに陥った僕らの目の前で、先程まで乗っていた海賊船が呆気なく沈む。海の藻屑と化す。
一体何故、なんでこんなことに!?
再びの轟音、飛沫が上がり僕らの体へ容赦なく降り注ぐ。
突然の天変地異にパニックに陥って、打開策を考えようにも魔術が使えないことを思い出しまたパニックになって、なんか分かんないけど取り敢えずパニックになって……。
一周回って冷静になった僕は、ふと思い出した。
獄門の先の地獄への道は、『真っ直ぐ前』ではないらしい。
いや、『真っ直ぐ』ではあるのだが、方向が『前』ではないらしいのだ。
獄門をくぐり、地獄へと続く道は、前でも上でもなく――――『下』。
そして、地獄は驚くほど広い。もしかすると、この僕らがいる海の上は、実は海だけではなく、地獄の上でもあるのではないだろうか?
つまり、この天変地異を引き起こしたのは――――ッ!
思考を無理やり中断させるような、本日三度目にして最大の炸裂音。
衝撃はボートをいとも簡単に宙に打ち上げ、そして二度と海面に着水することを許さない。
ゴパリ、となにもない海面に真っ黒な穴が空く。底の見えない、地獄への超速落下。
「「いやァァァァァァああああああッ!!」」
仲良く揃って悲鳴をあげながら、いざゆかん。
――――地獄の旅。