三
土曜日、約束の十分前には指定された駅に着いた。
リィンが指定した駅は学校の最寄り駅から二駅の場所だった。
歩いて通える距離に住んでいる奏は、電車通学は大変そうだなぁと、ぼんやり考えながら待ち人を待つ。
手土産は買ってきた焼き菓子があるし、服装もだらしないものではないし、問題はないと思う。
休日に友達の家へ遊びに行くなんてことも、経験のない奏にはとても緊張するものだ。
ドキドキしながら、リィンを待つ。だけど、このドキドキも、なんだか楽しい気がした。
「奏!」
彼女の声に名前を呼ばれると、なんだかとても、嬉しくなる。
声のした方に視線をやると、私服姿のリィンと美里が手を振りながら歩いてきた。
制服じゃないなんて、新鮮だ。
「偉いね〜、五分前行動は大事ですって、修三さんが言ってた。」
修三さんとは誰だろう?とは思ったけれど、褒められたのが嬉しくて、奏はにっこり笑った。
リィンの家は駅から歩いて十分位の場所にあるらしい。そして、美里の家はその隣だという。
なら二人は幼馴染なんだね、と言ったら、何故か美里は視線を逸らし、リィンは笑った。
「美里ちゃんとはね〜、中学からのお付き合い。幼馴染なのは真人だね。」
「そういえば、今日真人いるの?」
「いるよ〜。奏がくるって話したら、なんかよくわかんないこと言ってた。」
「えー、あのシスコンいたらウザくない?」
あははと、リィンは声を出して笑う。
話しを聞くに真人という人物はリィンの兄のようだ。
真人と美里は幼馴染で、リィンと美里は違うと言うのは…何か事情があるのかもしれない。本人から話さないということは、あまり詮索すべきではない。奏は、深く考えない事にした。
リィンの家は普通の一軒家だった。チラリと見えた表札には『細川』と書かれていて、リィンの名字を知らなかった奏はぼんやりと『細川リィンっていうのか』と考えていた。
「ただいま〜」
スリッパを用意してくれたリィンに礼を言い、お邪魔しますと声を掛けてから上がる。
リィンがリビングに繋がっているのだろうドアを開くと、なんだか美味しそうな匂いがした。
「あらあらあら、いらっしゃい。どうも、母の翔子です。」
台所から、にこにこ優しそうな女性が出てきた。
挨拶を交わし手土産を差し出すと、気を使わなくていいのよと微笑まれた。
「いらっしゃい。鈴から話はよく聞いているよ。ゆっくりしていきなさい。」
奥のソファから立ち上がった男性が父親で、リィンの言う修三さんは彼のようだ。修三が呼ぶリィンの名前が少し、気になった。
「来たか!どんな男だ!」
浮かんだ疑問は、バタバタとした足音と共に現れた声で掻き消された。
「真人、うるさい。シスコンキモい。」
「おっまえはほんと可愛くねぇな!沙智を見習いやがれ!」
「うわ、シスコンの次は彼女補正。まじキモい。」
「奏、あれが真人だよ。」
「どうも、兄の真人ですー。」
リィンの家族と挨拶を交わしながら奏は思った。リィンは、彼等の誰とも似ていないなと。
三人とも黒髪で黒目。紛うことなき日本人だ。真人はなんとなく、翔子と修三の面影を持っていた。
「翔子さんのご飯美味しかったでしょ〜?お腹いっぱい?」
「うん。久しぶりに、沢山食べたよ。あったかいご飯も久しぶりだったし…あのスープ、始めて食べる味だったけど、とっても美味しかった。どこか外国の料理かな?」
先程食べた料理の味を思い出しながら、奏は頬を緩ませた。特にスープは今までに食べたことがない味で、また食べてみたいなと思った。
「ふっふっふっー。スープは私が作ったの!また作ってあげる!」
得意そうに胸を張るリィンは、微笑ましい。
「また、食べたいな。…リィンは料理、好きなの?」
「ん〜、特に好きな訳じゃないけど、女の仕事だったから出来るよ。でも、こっちの料理はまだ勉強中〜」
こっちの料理というのは、和食のことだろうか?もっと色々聞きたいけれど、突っ込んで聞くのは憚られる。もう少し仲良くなったら、聞けるだろうか…話しながらテレビへと顔を向けたリィンの横顔を見て、奏はひっそり、思いを募らせた。
現在奏とリィンは、リビングのソファで格闘ゲームの対戦を観戦中だ。
やったことがない奏と、同じくやったことがないと言うリィンは二人で、美里と真人の対戦を見守っていた。
罵り合いながらも楽しそうにしている美里と真人は、幼馴染だけあって仲が良いのだなと、奏も見ていて楽しくなる。
「大人気ない。シスコンあんど彼女補正で大人気ない真人。」
「成人しても学生はまだ子供なんですよー。」
「高校生を本気で叩きのめす大学生はイヤだ。」
ぽんぽん言い合う二人は見ていて面白い。
学校では、どこかリィンを見守っているような美里だが、これが彼女の素なのかもしれない。
「現実だと私が一番強いけどね〜。ねぇ、テレビの中で戦うのは楽しいの?」
こてん、と首を傾げたリィンを、真人と美里がなんとも言えないような表情で振り返った。
「お兄ちゃん、鈴の為に買ってきました。どうかこの擬似格闘で我慢して下さいませー」
「日本人はゲームで戦う欲求を満たしてるの。あんたもやってみなさい。ハマるかもよ?」
コントローラーを差し出し頭を下げる真人からリィンはそれを受け取り、テレビに近付こうと立ち上がる。
奏さんもどうぞと、美里のコントローラーは奏の手に渡った。
「あ、あの…!」
受け取ったコントローラーを握りしめ、勇気を振り絞った奏。手が少し震えた。
「り、リィンの名前、僕…発音、間違ってるのかな?本当は小さいイは入らないで、スズのリンが正しいの?」
リィンの家族は、彼女を『鈴』と呼ぶ。間違っていたのなら、正しい方で彼女を呼びたかった。
「えー…今つっこむのそこなの?奏くんってマイペース?」
「そうか…名前が大事か…」
余り持ち合わせのない勇気を振り絞った奏には、真人と美里の呟きは届かなかった。
あぁ、また顔が熱くなってきた。自分は赤面症だったのかと奏が考えていると、上から笑った気配がした。
「細川鈴は、ここでもらった日本の名前。本当の名前はリィンだよ。奏には、リィンって呼ばれたい。」
見上げると、リィンの笑みとぶつかった。
脳みそが沸騰して、溶けてしまう。
わかったという事を伝えたくて、奏はぶんぶんと首を上下に動かした。少しくらくらしたけれど、一つ、彼女のことが知れて嬉しかった。
あの後、奏とリィンは格闘ゲームをやってみたが、二人共向いていなかったらしい。リィンは早々に飽きてしまい、今は自室から数冊の本を持ってきて奏の隣に座っている。
真人と美里は、今度はカーレースのゲームに夢中だ。
リィンの手の中にあるのは、学校の図書室でもお馴染み黒魔術関連の本。何やら熱心に読んでいる。
手持ち無沙汰にならないようにと、奏にはライトノベルが渡された。美里の物らしい。美里はこういう本を沢山持っているのだと、奏に本を渡しながらリィンが言っていた。
その本は、普通の女子高生が異世界へと召喚されて、色々事件に巻き込まれる話のようだ。
ハウツー本や参考書を読むことが多い奏には、こういう本は新鮮で、意外と面白かった。
半分程読み進めた所で視線を感じた気がして、本から顔を上げる。
隣のリィンを見ると、彼女は奏をじっと見ていた。
何か用があるのだろうと思い、奏は首を傾げて見せる。
「奏は…もしこの本みたいに、自分の世界とは違う場所に突然落とされたら、どうする?」
見上げてくるリィンの表情からは何も読み取れない。だけれど笑っていないから、奏は真剣に考えてみた。
「………すごく戸惑う、かな。寂しくて、不安で、堪らなくなっちゃいそう。…だけど、この本みたいに、最初から言葉が通じて、守ってくれる人が側にいるなら、耐えられるのかも、って思う、かな。」
「守ってくれる人?」
「うん。この本では、王子様とメイドさんが、主人公を支えてるよね。戸惑う自分を心配して、気遣って、寂しい心を包んで、守ってくれるような人。……だけど、言葉も通じなくて、異文化コミュニケーション過ぎる所に行っちゃったら、僕だったらすぐに心が折れちゃうかも。」
家族も知り合いもいない、知らない場所。そんな所に行った自分を想像して、奏は少し泣きそうになった。
泣きそうになったのを誤魔化す為に視線を本に戻した奏の肩に、リィンの頭が凭れてくる。
肩に重みを感じて、奏の身体はガチンと固まる。
「心配して、守ってくれる人がいたら、奏は帰る方法を探さない?」
固まっている奏に気づかないのか、リィンは話しを続けている。
なんとか言葉を返そうと奏は焦った。
「あ…えと、あの……家族が…生きて、元の世界に…いるなら、帰りたいと、思う、かな。…うん。……帰り、たい…家族に会いたい、と思う、な。」
「仲の良い人が出来て、支えてくれた人達にはもう、会えなくなるかもしれなくても?」
「………うーん………それは…仲良くなった度合いによるかも、しれないかな。……元の世界にいる家族より、その人達の方が大切になってしまっていたら、残って生きる事を、考えるのかもしれない。」
「………そっか。」
呟いて、リィンはぐりぐりと頭を押し付けてきた。
また顔が熱くなって身体を固まらせた奏は本から視線を上げられず、どこかから聞こえてきた鼻を啜る音が誰の物だったのか、わからなかった。