最初の人 ーヨブ・キリスト・ニーチェー
1 ヨブ
文章を書くという事はどういう事だろうか。私は、ヨブ記からキリストへ至る文章を何度か書こうとしたが、書けなかった。
私は考える。考えて、思いついた事を書こうとする。この時、思想は固定化されている。固定化された思想を表現として、文章として展開しようと試みる。しかしいざ書き出してみると(どうもこれとは違う)と感じる。
私は「ヨブ記」を読み直す。パラパラとめくってみる。そうすると、以前とは違う風景が見えてくる。私は自分の固定した思想を撤回し、新しい思考、新しい感情を言葉にしようとする。しかしそれも晴天の雲のように頼りなく過ぎ去ってしまう。
私は何をしているのか。何を語ろうとしているのか。思うに、これは批評というものの限界ではないか。私は対象との間にある種の真摯な関係を気づこうとするが、それが「真摯」であろうとするまさにその理由によってその関係は破綻してしまうのである。
しかしこんな事を言ってもどうにもならない。とにかく書き出してみよう。
※
「ヨブ記」は旧約聖書の中でも単独で取りあげられる事が多い。この物語は非キリスト教徒にとっても興味深い表現が多くある。
私は「ヨブ記」は「義人の苦しみ」をテーマにした作品だと思う。…ちなみに私はキリスト教徒ではない。だから私にとって聖書は答えではない。聖書は問いの道中で参照するものとなる。なのでキリスト教徒にとっての神学的な形態は私が求める真実と合致しない限りは、全くどうでもいいものとなる。
私はこれからヨブ記と福音書を文学作品として取り扱う。物語という形式で現実に存在した苦難や苦痛をどのように乗り越えようとしたか、という事が焦点となる。キリストが実在したかどうかも問わない。私はキリストの物語を完結した形式として取り扱う。私の目線は文芸批評的なものである事を先に断っておきたい。
「ヨブ記」に戻る。ヨブ記は「義人の苦しみ」をテーマとしている。これは「義人は何故苦しまなければならないのか?」という問いに対して、古代人が経験と論理を合致させ、「ヨブ記」という形で解答しようとした、そうしたものだという意味だ。
何故これがテーマになったかと言えば、そのような現実があったからだろう。それは天災や戦争、病、飢饉など、様々な形で人間を襲う暴力が現実にあったという事だ。これを想像するのはそれほど難しくはない。現在でも同様にあるからだ。
問題はこのような「理不尽な暴力」をどのように理解し得るものに変えるか、という事にある。同様に「悪は何故あるのか?」という問題も歴史的に問われてきた。
ただ私が考えるべきだと思うのはそもそも人間は何故「理不尽な暴力」をそのようなものとして認識するのだろう?という事だ。
津波が起こるとする。津波はAさんを殺し、Bさんを殺した。Aは悪人でありBは善人だった。Aに関しては因果応報であり、Bに関しては理不尽である。
このように感じ、考えるのは普通の事だが、人は何故このように考えるのか。太陽は善人と悪人を区別して照っているのか。津波は善人と悪人を区別するのか。
おそらくは古代において倫理が定立され、その時、義人と悪人というような区別ができた。それは人間という種にとって恣意的な区別であろう。問題はその恣意的な区別を今度は、自然の方に当てはめる事にある。
自然は善と悪を区別しない。…しかし話は逆であり、善も悪も融合して存在していた自然の中から、世界を善や悪といった観念によって切り分ける人間という種が表れ出てきた。
この人間という存在は、自分達にとって好都合なものを善と呼び、そうではないものを悪だと考えた。
ヨブは神を信仰している。一方で神はヨブを信じていない。神はヨブを試そうとする。悪魔の囁きに乗って。悪魔はヨブから全てを奪う。家族を殺し、家畜を殺し、ヨブを皮膚病にする。ヨブは全てを失い、神への怒りの言葉を述べながらも、神への信仰を失わない。
途中でヨブの友人が出てくる。この友人というのは、まさに今インターネット場で「論破」がどうのと言っている人々によく似ている。友人らは理屈がうまい。
友人らはヨブを責める。ヨブが何か良からぬ事をしたから、その因果として今のように残酷な運命の仕打ちを受けているのではないか。そう責める。これは理屈である。
ヨブはそれを肯定しない。彼は引かない。彼は自分の信仰にも、自分の義にも確信を持っている。友人らはそうではない。彼らはある意味でヨブよりも賢い。しかし、もう少し正確に言うと、彼らは理屈に逃げ込むのである。
剥き出しの不条理を人間は目の前に置いておく事はできない。誰しもがそれに合理的な理屈をつけようとする。私もそうだ。
誰かが悲惨な殺され方をしたとしよう。その人間が非の打ち所がない人間だったとしたらどうするか。その人間の「非」を無理やり見つけるか。あるいは、その人間をそのような状況に追い込んだ制度や構造を問題視するか。あるいは加害者に対して怒りを覚えるか。
加害者を八つ裂きにしても、被害者の痛みや苦しみ、死が消えるわけではない。つまりどうやっても不可解な、残酷な運命の真実は残る。
ヨブは友人との討論をして、一歩も引かない事によってこの真実を露わにする。
人間は進歩した、と人は言う。過去を覗き込む事もなく、現在が一番優れていると人は言う。
しかし今、様々な正論が溢れているがそれはヨブの友人の議論に似ていないだろうか。そしてヨブ記という古代の物語の時点で既にその友人の議論は越えられていた。
この議論を超えるのは理屈ではない。理屈を越えた現実があり、それは決して避けられないものだという事をヨブが身をもって晒す事によって越えられたものだ。
この実存的なあり方を現代の様々な正当化の論理、正論の群れは果たして越えた、と言えるだろうか。
※
しかしヨブ記には限界もある。私はそのように考える。
ヨブ記の限界は、ラストの部分において、物語そのものがヨブの友人らの「正論」と同様に、無理やり「義人の苦しみ」を解決してしまおうとしている点にある。
ヨブ記の最後には神が出てきてヨブを説得する。この説得にはあまり納得感はない。
【(略)わたしが君にきくから、わたしに答えよ。
地の基いをわたしがすえたとき君は何処にいたのか。
語れ、もし君がそんなに利巧なら。
君が地の量り方をきめたのか、ーー君が知っているのなら。】
(「ヨブ記」 関根正雄訳 岩波文庫p142)
神はヨブを説得する。これは力のある人間が力を誇示するのと同じで、神が自らの力を自らの言葉で示そうとする故にかえって神の存在を卑小なものにしてしまっている。ここには、後で取り上げるが、『神が語る存在』であるという事が問題となっている。
神が人間の言葉を話し、人間に己の力を誇示する事によってかえって神の存在そのものが人間化され、人間と同程度の卑小な存在になっている。口の悪い言い方をすれば、こうした力の誇示はどこぞのキャバクラで「力」や「金」を持つ人間が自慢話するのと大差ない。
それに対して驚いた事にヨブは屈してしまう。ここは普通に読めば疑問を持たれる点だろう。
【わたしにはわかりました、
あなたは何事でもおできになる方、
どんな策をも実行できる方であることが。
(略)わたしはあなたのことを耳で聞いていましたが
今やわたし眼があなたを見たのです。
それ故わたしは自分を否定し
塵灰の中で悔改めます。】
(同p160)
このようにヨブは神に屈服してしまう。あれほど強烈な、垂直的な精神を持って神と人間の狭間に立っていたヨブはその終わりに至って別人のようになってしまう。
ヨブはこのように神に屈服する。そうして神によって奪われた「持ち物」を二倍にして返してもらう。ヨブは家畜や家族を奪われていたのだがそれらが戻って来る。直接書かれていないが、病も治っている(長寿の人生を送ったという記述がある)。
これはヨブが深淵まで降りてまた日常に戻ってくるという、そうした物語の形式を取っている。ヨブの復帰は、後にキリストの復活やラザロの復活という形で再び演じられる。
ヨブはこのようにして日常に復帰するのだが、しかし神が自分の力を誇示して、ヨブが屈服する事によって「復活」するというのはあまり納得できるものではない。ここで「義人の苦しみ」というテーマは一旦挫折してしまう。
ヨブの友人らはヨブに対して、「神があれほど怒っているのだから、君は何か怒らせる事をしたのではないか?」と執拗に問う。ヨブはそれに対して一歩も引かない。
この事によってヨブの不幸は因果から切り離され、理屈というものから切り離され、徹底的にそれ自体として存在する垂直な形式として我々の前に現れた。この事はよく見ておかなくてはならない。
しかしヨブ記の最後においては、「神は人間を越えた強大な力を持っており、ヨブは神に対して悔い改めたからヨブは復活できた」という、無理やりねじこまれた因果によって、ヨブは全てを取り戻す。
これは「何故義人は苦しむのか?」「何故、この世界に理不尽な不幸はあるのか?」という根源的な問題に対して一旦は、友人との対話の後、友人らを退ける事によってその事実が徹底的に暴露されたのだが、それは物語の最後では強引に解決されてしまった状態と見る事ができる。
おそらく、ヨブ記が一つの物語である限り、何らかの合理的な解決、論理的に納得できるような形に仕上げられなければならないという、そうした要請が当時の人々の間に存在していたのだろう。それは見えないプレッシャーとして、この物語に作用しており、その為にヨブ記はこうした強引な解決を取り入れたと私は考えている。
何故そのように考えるのか。それは物語形式とは、現実を理解する一つの形式であり、それを現代の「不条理劇」のような形で空中に投げ出す事は古代の人間からすると、彼らの要請と食い違うものであったのだと思う。
当時は科学もなく、科学的思考もなく、この世界が存在するという不条理な事実を納得させる形式が必要だった。この必要に駆られてヨブ記はつくられたのではないか。…ただ私が思うのは、ヨブ記はその最後で強引な解決を見たのだが、同時にこのテキストは歪んでおり、明らかにヨブの強烈な嘆きは当時の生々しい現実を映し出しているという事だ。
現実を理屈に沿って納得したいという願いと、現実の不条理さを徹底して露わにさせようという、真実を求める視線がヨブ記においては争っている。この闘いは「神にヨブが屈服する」という形で強引な解決を見た。
ただこれは、納得できる形で論理的に解決できなかったから、無理やり挿入されたラストと見る事ができる。この問題、つまり何故世界に理不尽な暴力があるのか?という論理的な解決はその次の物語、つまりキリスト(福音書)の物語に委ねられた。
2 キリスト
ヨブ記の後にキリストが来る。キリストは、様々なものを背負わされている。
キリストは人間であるにも関わらず神の子である。キリストは人間であるにも関わらず、人類の罪を背負っている。その背中には色々なものが背負わされている。
キリストを「義人は何故苦しまなければならないのか?」という問いの観点から考えるなら、重要なのは、キリストは能動的に苦しみを受け入れる存在になった、という事にある。これは重要な転換だろう。
キリストはヨブのように偶然的に苦しみを受ける存在ではない。キリストは人類の罪を背負い、最大の苦悩や苦痛を自ら受け入れる。この点は、ニーチェが直感していたような病的な転換があると見る事ができる。
この転換を病的なものと見る視点で考えてみよう。人間は自然から理不尽な暴力を被っていた。これには義人と悪人の区別もない。ここには理解しがたいものがある。
このベクトルをひっくり返すとどうなるか。燔祭に使われる子羊が、自ら台の上に寝転がり、殺害されるのを望んだらどうなるか。
これはおそらく古代においては人柱のような形で実際に行われていたのだろう。つまり、自然は人間を理不尽に殺す。それならこちらの方から理不尽に殺される犠牲を差し出せばいい。それなら、自然は怒りを鎮めるに違いない。相手が望む犠牲をこちらから差し出したのだから。そのような論理の組み立てを古代人は行ったのではないか。
極端に言えばキリストもそのような人柱の一種だと考える事ができる。これは間違った因果関係であり、過去の迷妄だと断ずる事もできなくはない。
この視点に立つと見えてくるのは、本来は理不尽な暴力というのは、人間の理性が現象を理解しようとした時に剰余として出てくる領域なのだが、問題はそれを無理やり理解可能なものにしようとした事だという事になる。
現代は古代と違い、社会が発展している。だから現代の人間の気に入るように言うなら、理不尽な暴力性は政治や医療、科学の発達や防災と言った様々な相対的なものの前進によってそうしたものを減らしていくしかないし、その余剰として現れてくるものは諦めて受け入れるしかない、という事になるだろう。これは健全な考え方と言える。
ただ、このような健全な考え方をどのように突き止めてもやはり最後の余剰部分、「変えられないものは受け入れるしかない」の部分で、どうしても納得できない感情が現れてくる。この余剰に関しては私は未来においてもなくなる事はないだろうと思う。
この部分は、例えまやかしであるとしても究極的な解決が望まれなければならない。なぜならそもそも人間の核の部分にはそうしたもの、究極的なものへの希求が宿っているからだ。
そうしたわけで、再びキリストの物語に戻ってくる事にしよう。
ヨブからキリストへと苦しみの主体は変わった。ここでの変化は苦しみが主体的に受け入れられるものになったという事だ。
苦しみが主体的なものへと変化すると、何が変わるのだろうか。キリストの死と、復活の場面を考えてみよう。
キリストは磔になり、まさに死のうとする時、「エロイ エロイ ラマ サバクタニ!」と叫ぶ。これは(わたしの神様、わたしの神様、なぜ、わたしをお見捨てになりましたか!)という意味だ。
キリストは処刑され、死ぬが、復活する。この復活に関してマルコ書は極めて簡潔にしか書いていない。手元の岩波文庫の福音書で読んでいてもほとんどページ数を割いていない。
ヨブ記と違ってもはや神は話さない。神は語る事がない。キリストが「エロイ エロイ ラマ サバクタニ!」と悲痛な叫びをあげても、何も答えない。
この沈黙は極めて大きな意味を持っている。神は話さない。ヨブに対して神は、自分の力を誇示した。神はべらべらと話した。それによって神は強引にヨブを屈服させたが、キリストに対しては何も語らない。
神はただキリストを復活させる。また、その後には「天にあげられて 神の右にお座りになり」とあるから、神は復活したキリストを天に引き上げたのだろう。しかしこれも詳細は語られていない。
ここでは、キリストという物語がいかなる物語か、またこのような簡潔な終わり以外には適当な答えは決して無いだろう、と思えるほどにその形式は突き詰められている。私はそう考える。
何故そう思うかと言うと、キリストが主体的に苦しみを受け入れる存在になった事で、キリストの苦しみは偶然的なものから必然的なものへ移ったからだ。また、キリストという存在そのものも、ヨブとは違ってその唯一性が主張しやすくなった。
どうしてかと言えば、ヨブが苦しみを受けたのはたまたま悪魔がヨブに目をつけ、神に取引を持ちかけたからである。ヨブと同じような義人が他にいる事も考えられなくはない。
しかしそうなると最後のヨブの復活も、物語形式としては弱くなる。なぜなら、「他にも苦しんでいる義人がいるのに、何故ヨブ一人だけそのような復活が可能なのか」と疑問視する可能性を生んでしまうからだ。
確かにヨブは苦しみに耐え、友人達との議論に一歩も引かなかった。しかし物語の発端はあくまでも受動的な、偶然的な苦しみである。悪魔が気まぐれを起こさなければ、神はヨブにそのような災難を与えなかっただろう。
ヨブは最後に持ち物を二倍にして返してもらう。となると、何故このような恩恵をヨブだけが受けられるのか、と考える事もできる。他にも義人はいるだろう。何故他の義人ではなくてヨブという一存在だったのか。この問いに「ヨブ記」は答える事ができない。
一方、キリストの場合は主体的に苦しみを負うのはキリスト一人、という事になる。
もちろんこれも偶然だと考える事はできる。キリストの他にも原罪の浄化の為に苦しみを望んだ人もいるかもしれない。ただ、福音書は他にも色々な技巧を凝らしてキリストの唯一性を高めている。
キリストが主体的に苦しみを受け入れる存在だという事と、キリストが復活するという因果関係は、ヨブの物語よりは納得しやすい。ここでは偶然性は廃されている。キリスト自らが人類の為に苦悩を、苦痛を求め、その通りに最大の苦痛と共に処刑されたからこそ、彼は「復活」の権利がある。ここには不自然な感じはない。
神が沈黙したのは、キリストの死と復活という物語がそれ自体で成立していたから、と言っていいだろう。因果関係としてごく自然にこの二つは結びあわす事ができる。だから神はほんの少しだけキリストの復活を手助けすればそれで良かった。
必要だったのはキリストが「復活」したという事実だ。神という超越的な存在は確かに存在する。その力も嘘ではない。
しかしこの超越的な存在である神が人間にべらべらと喋り、自分の力を誇示し、相手を屈服させようとすると途端に神は人間的な次元に引きずり込まれてしまう。神は偉大なのかもしれないが、それはせいぜい人間の尺度でも測れるような偉大さに過ぎない。
キリストの場合は、キリストと弟子達、キリストに救われた者、キリストを売った者、彼を処刑した者、最後の復活。これらでドラマは成立している。
それでは神の仕事とは何だったか。それはキリストを地上に送る事。キリストを復活させる事。復活のあと、キリストを天に回収する事。これだけで十分なはずだ。後は人の子、キリストが自分で人間世界を動き回って物語を作り上げてくれるはずだ。
ヨブにおいては、ヨブの苦しみは偶然的だった。ヨブの苦しみが神によって取り去られたとしてもそれは当然のように思えるし、悪魔の誘いに乗る神の方が、苦しみに耐え続けるヨブよりも劣った存在にも見えてしまった。これらの問題はヨブ記の内部では解決できなかった。
キリストの物語においては、キリストという存在が自ら苦しみを受け入れる。それも自分の為ではなく人類の為だ。このような、いわば能動的な燔祭の子羊役を自ら買って出た為に、物語は完成された形になった。
自ら苦しみを受け入れた人間に対する恩としての復活。この二つは釣り合っている。そしてこの二つを釣り合わせる際に重要になる「神」という超越的存在も、もうその存在がごたごたと描かれる必要はない。神はほんの一振り、キリストを復活させるだけで十分だ。キリストは復活し天に返った。これだけで十分だ。
この物語は確かに、極めて優れた、完全な物語かもしれないが、それはあまりに完全過ぎるという批判も成り立つかもしれない。ただそれを考える前に、私が最初に言っていたような、「何故、義人が苦しまなければならないのか?」という問題はキリストの物語でどのように変形され、昇華されていったのかについて考えておこう。
3 キリストとニーチェ
私が言ったのは、まず存在したのは災害、戦争、病などといった事柄が善人悪人関係なく暴力を振るうという事実だった。この事実から出立した。
この事実、つまりこれら人間の能力が及ばない運命的な事実に関して古代の人間は「神」という主体を考え出した。「神の思し召しだから仕方がない」という形でこのような運命は受け入れるしかなかった。
しかしこの運命に立ち向かう事は許されないのか、この運命を理不尽だと告発する事はいけないのか。この強烈な垂直的な精神の叫びとしてヨブという人物は造形された。
ヨブの友人は因果論でヨブをやり込めようとする。ヨブに何か至らぬところがあったから、ヨブは罰を受けたのだ、と。ヨブは肯んじない。
しかしそんなヨブも最後には神の説教に屈服する事になる。神は自分の力が人間よりも遥かに大きい事を示す。それに対してヨブは「悔い改める」と言って、失ったものを二倍にして受け取った。
この「理不尽な暴力」はキリストという形象においては、主体的に求められるものになった。ここにニーチェ的に倒錯を見るのはおかしい事ではない。
ただ、この自然の暴力を主体的に人間の側が受け入れる事によって、いわば人間の外部にあった理不尽な存在が、人間存在の内側に取り込まれる事になった。
キリストの物語はキリストが苦悩を受け入れ、復活する物語だ。自然という外部性は消されている。自然は内部化される。物語としては形式が整う。
自然の理不尽な暴力は今や、キリストという唯一者が主体的に引き受けるものとなった。キリストは原罪をもその身に背負っている。原罪はアダムとイブが誘惑に乗った事から生じている。原罪という受動的に形成された罪に対して、主体的に罰を受けに行く行為が贖罪として機能する。
最初の問題は「何故、義人が苦しまなければならないのか?」だった。この問題は反転される。「最大の義人は自ら苦痛を求める。その上、当人以外の罪も背負う」。このような物語に改変される事によって、精神的な"塔"がこの世界に打ち立てられた。
何故、"塔"が打ち立てられたなどと私が言うのか。それは「キリスト」という形象、その物語ができた事によって、それ以降の各人はこの世界の理不尽な暴力を受けた時、(自分以上の苦しみを背負って他人の為に生きた人間)を思い浮かべる事ができるからだ。
その上にキリストは復活しているのだから、理不尽な暴力に苦しんでいる自分もいつかは復活できるかもしれない、という希望を持つ事ができる。
このような形での「希望」の核をキリストという形象は世界に振りまいた、と言う事ができる。しかしこの物語はあまりに美しすぎるのではないか? という問いもまた私には正しいものだと思われる。
どうしてかと言うと、このような形が、「理不尽な暴力」がこの世界に存在する事を許している面もあるからだ。これはいじめられっ子が、いじめてくる相手と戦うのを放棄し、(自分はいじめられているが、耐える事によっていずれ救われるのだ)と考えるようなものだ。
問題なのは、その子がそう思う事の当否ではない。その子がそう思う事によって、いじめる側も、それを見ている周囲も、構造そのものを変えずに済んでしまうという点だ。
この事は問題として残る。更には、そもそも理不尽な暴力として外在していたものを、理不尽な暴力として直視する力を失った為に不自然な、いわば内部だけでつじつまを合わせた「キリスト」という物語を無理やり造形した事そのものも問題と考えられなくはない。
ただこれを解決しようとすると、ニーチェがそうしたように、永劫回帰や運命愛といった、世界の理不尽さを強引に乗り越えようとする強烈な力が必要となる。
現在の地点から見ると、ニーチェの哲学もキリストの物語もこの世界の深淵をいかに人間という種が乗り越えようとしたかという一種の実験に見える。最後にはこれについて私がどのように考えるかについて書いてこの稿は終える事にする。
※
キリストの物語はヨブ記が洗練されてできたものだと私は考える。これまでその事について書いてきた。
この場合、キリストの物語という形で洗練された存在が打ち立てられ、精神世界に一つのモニュメントが設立された。キリストの死後、長い時を経ても未だに強烈な懐疑的知性を抱いた人間がキリストを結論として自らの問いを研ぎ澄ませる事が可能なのは、この物語がそれほど完成度が高いものだと言う事ができるだろう。
もっともこれをニーチェのように病的なひっくり返しと考えるのはおかしな話ではない。自然が理不尽な暴力を振るうのは自然の本性としてある事であって、それを人間が求めるもの、受け入れなければならないものと考えるのは、別段必然的であるわけではない。
ただ私がふと思ったのは、このようにしてキリストの物語を、精神による反省をひっくり返したニーチェという存在、この単独者の前にはもはや何も残っていなかったという事だ。
この世界の理不尽に押し潰される魂はキリストを想い、憩う事が許される。だがそれを拒否したニーチェにはそのような憩いは許されなかった。それ故、自己演出も含めて彼は大仰な身振りでこの世界の荒野、というより、「世界」という名前で呼ばれる荒野の中でたった一人で歩いていかなければならなかった。
事後的にはこれはキリスト本人と似た姿とも言えるだろう。キリストは死の前に「エロイ エロイ ラマ サバクタニ!」と叫んだ。これはキリストの前にキリストはいなかったという事を意味する。
キリストの前にキリストはいなかった。ヨブはいたが、完全な存在ではなかった。キリストは彼一人だった。だからこそ、キリストの悲痛な叫びは歴史の中を貫くものとなった。
キリストその人の悲痛な死、その実存としてのあり方を契機にそれ以降の人々は、その存在を起点として自らを計る事ができる。良くも悪くも。そのような倫理をキリストは打ち立てた、と言えるのだが、キリストその人はそのような倫理に預かる事はなかった。彼はキリストとは別様の"最初の人"だったからである。
キリストもニーチェも一人で世界に向かっている。彼らの前に「哲学」や「宗教」が存在するのではない。目の前には何もない。あるのは荒野と自分だけ。そのような存在だからこそ、彼らのした事は後の「哲学」や「宗教」そのものとなった。
私が思いを馳せたいのはこのような個人、"最初の人"であるこのような個人そのものだ。あくまでもそのような個人の存在そのもの、彼がそのように存在している存在そのものだ。
それは制度としての宗教や、ジャンルとしての哲学ではない。平凡な人間に慰めを与える物語としての形式ではない。そうではなく、彼が一人の人間である事によって軋みを生むしかない、そのような彼ら自身の"声”だ。彼らの実存に参加する時、あらゆる音楽が止み、宗教や哲学といった豊富な音は消える。
しかしその音は彼らの事後、つまり彼らが歩いた軌跡から立ち上がってくる。後から、全ての制度や権威は生まれる。だが問題はそこにはない。問題が発生し、それに向かっていたのはおそらくは、我々も当たり前のように知っているはずのごく普通の人間、すなわち我々が同じ人間だと"認めうる"ような一人の人間に過ぎない。
"最初の人”は物語の渦中の人間である。彼らは物語の主人公であるが、物語がどうなるかは知らない。苦しみの最中、キリストは自らの復活を認識できない。ニーチェは自らの哲学が後に評価され、復活する事を知らなかった。彼らの前には何もなかった。しかし、彼らはそのような道に赴いたからこそ、事後的には他者がそこから何もかもを汲み尽くせたのだ。
だからこそ私には彼らは希望であり、また私が私自身を生きなければならない絶望とまっすぐに繋がっている。私はそのように考える…いや、そう感じる。




