はじまりの村の防衛線
天を突く紫煙と血の匂いが充満する魔王の間。魔王の胴体には、勇者の聖剣が深々と突き刺さっていた。
崩壊の瓦礫の隙間から、途切れ途切れの陽光が差し込んでいた。長きにわたる旅の果て。俺たちの前で、伝説の聖剣を握りしめた少年——勇者が、肩で息を吐いていた。
「……終わった、んだよな」
背後で誰かがそう呟く。俺——戦士もまた、刃のこぼれた大剣を床に突き立て、荒い息を吐きながら膝をついていた。全身が裂けるように痛む。だが、ついに俺たちは勝ったのだ。この男を倒せば、世界を覆っていた惨劇の歴史は潰える。
そう、信じていた。
「——ク、クハッ……クハハハハハ!」
聖剣を刺されたまま、魔王が血の泡を吐きながら狂気に満ちた声をあげた。
枯れ木のような指先が胸元へ伸び、古びた真鍮の「懐中時計」を引き抜く。そこに集まりだしたのは、魔王が死に際に残した全魔力。生々しい紫の光条が時計の歯車を包み込み、空間そのものが歪み始める。
「お前たちは、またしても……」
魔王が何をしようとしているのか、直感が警鐘を鳴らした。
考えるより先に、身体が動いていた。俺は大剣を投げ捨て、残された全ての力を脚に込めて床を蹴った。
「くそッ、はなせぇぇッ!!」
後ろから魔王の太い首と腕を強引に抱え込み、全体重をかけて羽交い締めにする。
暴れる魔王の力に骨が軋む。だが、絶対に解かない。
「いけぇぇぇッ! 魔法使い!!」
俺の叫びに応え、隣で魔法使いが必死に展開した防壁の光が二人を包み込む。
直後、奪い取るように抑え込んだ時計から圧倒的な光芒が溢れ出し、世界を丸ごと塗り潰した。
視界が白に染まり、全身の感覚が溶けて消えていく——。
◆
小鳥のさえずりが、遠くで聞こえた。
不意に鼻腔をくすぐったのは、懐かしい「土と乾燥した木の実」の匂い。
(……生き、ている……のか?)
俺は勢いよく体を起こした。
手についた感覚は、硬い石畳ではなく、使い古された木板の感触。天井を見上げれば、隙間から日の光が漏れる小さな木造の屋根があった。
自分の手を見る。大きくて無数の傷に覆われていたはずの手が、信じられないほど小さく、柔らかい。
「……まじ、かよ」
声が高かった。喉が細い。身体の中に渦巻いていたはずの圧倒的な戦気は消え去り、かわりに残っていたのは十二歳当時の、頼りないほどの軽さと貧弱さだった。
見回せば、そこはあまりにも見覚えのある場所だった。
柱には不揃いな線で刻まれた背比べの傷跡。壁には下手くそな木彫りの飾り。
村の大人たちに秘密で、森の奥に俺たちで作った「秘密基地」だ。
人の足音が聞こえる、と静かに木戸が開いた。
光を背にして立っていたのは、一人の少年だった。
大きすぎるローブのかわりに泥のついた服を着た、細身の少年。手には、使い古された木製のペンを一本、しっかりと握りしめている。
二人は言葉を交わさなかった。
ただじっと、お互いの目を見つめ合う。その瞳の奥に宿る、数々の修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ静かな光。
(お前も……戻ってきたんだな)
言葉にしなくても分かった。俺たちは、記憶を持ったまま過去へ飛んだのだ。
魔法使いは静かに歩み寄ると、手にしたペン先をそっと机にかざした。
指先から小さな「種火」の光が灯り、ペン先へと吸い込まれていく。かすかな魔力の粒子がペン先から立ち上り、簡易的な術式を描く。杖すら持たない十二歳の身体で、手近な道具を触媒にして魔力を練り上げる——彼なりの生存戦略であり、戦闘準備だった。
俺は壁に立てかけられていた、埃をかぶった木刀を取った。
軽く振ってみる。軽い。軽すぎる。かつての大剣の重みを知る手には、あまりにも頼りない。
(だが……十分だ)
俺たちは机の上に残されていた、幼い字で描かれた手書きの地図を囲んだ。
今夜、この村は魔物の襲撃を受ける。
本来の歴史では、その襲撃によって村が焼き払われ、勇者の妹が失われた。絶望した少年は伝説の剣を抜き、悲劇を背負った「勇者」として旅立つことになったのだ。
だが、俺たちの目的は「強い勇者を育てること」じゃない。
勇者が勇者にならなくていい歴史。
あの日亡くなってしまった妹が笑って明日を迎えられる、何事もない日常。
俺たちは顔を見合わせ、深く頷き合った。
誰に褒められることもない、歴史の裏側の戦いが、いま始まろうとしていた。




