黒田監督は、武藤や教え子の高梨に対しあえて「復讐に燃える悪役」を演じ続けることで、兄の遺志を繋ぎ、高梨を精神的に成長させようとした黒田の狙い通り高梨は周囲の愛に気づいて成長、黒田は演舞の完遂を悟る。
あの頃・・・・
東京武道大学剣道部は、学生剣道界の頂点にあり、団体戦二連覇、個人戦でも上位を独占する強さを誇っていた。
その強さを支えていたのが、主将・武藤鉄心、副主将・黒田無双。
そして、黒田無双の弟の俺、黒田幻想だった。
武藤鉄心主将は柔の剣、兄・黒田無双は豪の剣。そして、俺は武藤主将の剣に心服し、徹底的に兄にしごかれ、両者の剣を模倣しつつ自分自身の剣を探し求めていた頃だった。
武藤鉄心主将は、古来からの武道を精神論に固執しようとする論理を嫌い、常に進化していく技術を許容し、自己の鍛錬によって、その先に見えて来る自己自身の精神的支柱を見いだすことこそ、武道の精神である理と説いた。
兄・黒田無双は、武道は、幾多の時を重ねて先人の教えが体系化され、それが精神論に昇格されたもので、根本には、確固たる妥協を許さないイデオロギーがあり、そのイデオロギーの具現化こそが技術であり、根源的な精神論を自己のものとして捉え、自身の精神を鍛えることこそが武道であり、その成熟性が技術として現れると説いた。
両者共に、学術の徒である限り、武道に対する学術的なアプローチや自説の確立は自身のアイデンティティーを確立する為に必要なものであった。
ただ、あの時の俺には、学術的な研究材料としての武道という概念にはさほど興味が無く、両者の論理は、結果として行き着く先は同じではないか。勝ったものだけの論理ではないのか・・・・としか思えなかった。
あの頃の武藤鉄心主将は、自信に満ちあふれ、自身を厳しく律する分、他者に対して優しく、剣道部員は元より、大学学内の学生らから尊敬され、次代を継ぐ者として大学上層部や剣道界から将来を嘱望されていた人物で、俺自身も武藤鉄心主将に憧れ、主将の様な生き方をしたいと心から思っていた。
武藤鉄心を支柱とした俺たちの世界観が一気に崩壊したのは、あの時からだ。
武藤鉄心主将と、兄・黒田無双が四年生となった最後の全日本学生剣道選手権大会。
団体戦で俺たちは三連覇を果たし、個人戦でも、二連覇がかかった武藤鉄心と、兄・黒田無双の同門対決となった。
勝負は、武藤鉄心の渾身の突きで終焉した。
兄・黒田無双は、準決勝で突きを外され、そこを執拗に狙われながらも決勝戦へと駒を進め、武藤鉄心との試合に臨んだ。
誰もが兄の怪我を懸念したが、手負いの獅子ほど恐ろしいことを誰よりも知っていたのは武藤鉄心だった。
兄は、武藤鉄心の渾身の突きで、卒倒し、そのまま病院に担ぎ込まれる。
そして・・・・下半身不随という最悪の状況に陥った。
その事故以降、大学内、剣道部内の空気は一変した。
誰もが憧れ、尊敬の念を抱いていた武藤鉄心は、卑怯者との烙印を押され、剣道部内での排斥機運によって、自ら部を去っていった。
俺自身も、武藤鉄心を憎んだ。尊敬し、憧れていた分、憎しみは増殖された。
ただ、他の者と違っていたのは、武藤鉄心を憎んだのは、兄を下半身不随にしたこと以上に、武藤鉄心がその重圧から逃げる様に剣を捨ててしまったからだ。
兄は、苦しいリハビリを続けながら、武藤鉄心に剣道を続けることを願った。
武藤鉄心も、大学卒業後、高等学校の教員となり、再び剣をとり、各地の道場を渡り歩いて自身の剣を求め続けた。
しかし、武藤鉄心の六段審査の時、兄は不慮の交通事故で他界した。
武藤鉄心は、それを契機として剣を捨てた。
・・・ 鉄心に伝えてほしい・・・・剣の心を子供達に伝えてくれ・・・
これが兄の最期の言葉だった。
俺の武藤鉄心に対する憎しみは消えていった。
誰よりも苦しかったのは、武藤鉄心だったと、兄の言葉によって気づかされたからだ。
大学に残り、講師、助教となった俺は、学生達に武道という概念論を教授する内、兄の願いの意味、兄の願いに込められた武道精神の断片を理解できるようになったのかも知れない。
俺は、野に下った武藤鉄心を再び剣道界に呼び戻し、兄が最後に願ったことを実現して欲しいと懇願し続けた。
東京武道大学の助教となった俺は、日本剣道連盟の理事に名を連ねていた。
その代表理事の一人に、琢成館館長の藤森という人物が居た。
武藤鉄心という人間を育てた藤森師範。この人物なら、武藤鉄心の心を動かせるかもしれない。
そう思った俺は、失礼を顧みず、いきなり立ち会いを願い出た。
誰もいない深閑とした琢成館道場。
勝負は一本勝負。
快く俺の申し出を受けてくれた藤森師範は、ひょうひょうと俺の前に対峙した。
道場には、俺と藤森師範の気勢だけが響いている。
藤森師範の構えには何の邪念もなく、ただあるのは 無 だった。
俺はその何も無い空間に飛び込む隙が見いだせず、ただただ、間合いを図るのに汗だくとなり、時間だけが刻々と過ぎていく。
竹刀の重さは、精神的疲労に比例していき、気づけば、俺は道場の隅に追いつめられていた。
俺は、思わず竹刀を納め、その場に正座してしまった。
・・・・まいりました・・・・
互いに面を脱ぎ、改めて対峙して正座した。
汗だくとなっている俺に対して、藤森師範は汗ひとつかいていない。
俺は、ここに赴いた理由も忘れ、ただ、藤森師範の強さにひれ伏した。
「黒田さん。あなたは武藤君の後輩でしたね」
突然の藤森師範の問いかけに俺は我に返った。
「・・・ハイ」
「お兄さんのことは、残念でした・・・・。心が痛みます」
「・・・ハイ・・・痛み入ります」
「今日は、よい稽古をさせていただきました」
「いえ、こちらこそありがとうございました」
藤森師範は笑顔をくずさず、俺を見つめている。
「黒田さんは、演舞というものを見たことがありますか」
「演舞・・・ですか」
「居合いや武術の演舞に限らず、能や歌舞伎などもそうです」
「・・・・・・」
「あれは、何時見ても心が打たれますね。何故か判りますか」
「・・・はぁ・・常人ではできない鍛錬の結果を見せられるからではないでしょうか」
「はぁはぁ・・・確かにそうでしょうね。けれど、私は武術や芸術でも、演技者が、完璧なほどにその人物や役割を演じ切っていることに、無性に感動を覚えます」
「演じきる・・・・」
「演じきるには、その人物になり切ることが必要でしょう。つまり、自分を捨ててこそ見るものを魅了する演舞となる」
「・・・なるほど・・・」
「今日の私は、黒田さんには、どう映りましたか」
「・・・無 そのものでした」
「そうですか・・・でしたら、今日の私は、何もない自分を演じることに成功したわけですね」
それから俺は、藤森師範の言葉を考え続けた。
・・・演舞・・・
自分を捨ててこそ演舞は演舞たり得え、人の心を動かす。
人の心を動かすものは、自我を捨てて何かになりきった姿。
なりきる心は、自己そのものを形成する。
その後も俺は、武藤鉄心と会い続けた。
但し、以前とは全くことなる、悪者としてでだ。
「・・武藤に借りを返させろ。俺が果たせなかった夢を武藤に継がせろ・・」
これが、兄の最期の言葉だったことを告げ、責任を採ることを迫った。
武藤鉄心は、それが兄の遺志であるならばと、再び剣を握ることを約束した。
そして、その約束の履行を確かなものとする為に、三年後、お互いに高等学校の剣道部監督となって部員を育成し、兄の遺志を実現させる約束をした。
武藤鉄心は、俺の演舞に気づいていたと思う。
その演舞に乗って来たのは、武藤鉄心自身も武道を心から愛し、戻る道を模索していたからだったとも思う。
俺は、この演舞を完遂させる為に、自我を捨てた。
東京武道大学准教授の座を捨て、兼務していた筑波学園剣道部監督、湘東学園剣道部の顧問を捨て、福岡崇徳学園の剣道部監督に就任した。
そして、空き巣となった湘東学院剣道部の監督に、なんとか手をまわして、武藤鉄心を監督として迎え入れさせた。
武藤鉄心もまた、我を捨て、後身を育成する武道家たらんとする演舞家となった。
武藤鉄心が再び剣を持つ決意をした時期。
俺は、一人の少年剣士と出会った。
全国道場大会の小学生個人戦部門で、一人異彩を放ち、圧倒的な強さを見せる少年。
高梨龍。
当時から東京の筑波学院の剣道部監督をしていた俺は、高梨という少年に目を奪われ、同時に育ててみたいという強い願望が生まれた。
北海道の片田舎の道場。
その道場を運営している木下館長に面会を求め、少年の生い立ちや生活状況を知り、少年の、誰も寄せ付けようとしない鋭い眼光の意味を知った。
母親の他界を契機として、俺は、高梨龍を筑波学院の特待生として入学させた。
持って生まれた資質は申し分ないが、少年の心は年齢不相応に荒廃しており、剣道を続ける目的も一人で生きていく手段に過ぎないものと考えている様子だった。
心の成長の無い剣は、先行きどこかで破綻する。
まして、動機が憎しみや怨讐である限り、武道という理が身に付かないまま終わる。
愛情に包まれたことのない子は、人を信じず、排他的になる。
俺は、高梨少年を育てるに当たって、悪役の演舞者となる決意をした。
彼に俺自身の醜聞や悪気を見せることによって、その卑しさ、醜さを知って欲しい。そして、俺に反発することによって、自分と自分を取り巻く環境を客観的に判断できる人格を養って欲しい。そう思ったからだ。
中学、高校と、高梨の生活の全ては剣道で占められ、学友らとの交友や、剣道以外に興味を持てる対象が見つからないまま過ごし、それに葛藤を覚えることも無い様子だった。
複雑な家庭環境で育ち、家族を憎しみの対象として自分の剣を磨いて来た高梨にとって、それ以外の事は不必要な因子として、故意に排除している様子でもあった。
高梨の父とは、頻繁に手紙でやり取りをし、高梨の生活模様を写真を入れて詳細に記述してきた。
父親も、高梨の行く末を案じ、俺に打開策を何時も求めてきた。
高校二年のインターハイ優勝後、俺は、何時もより輪をかけて、俺自身の醜聞を高梨に披瀝した。
東湘学園監督は敵である。
復讐する為に剣道を続けている。
お前は俺と同類だ。
この悪気に何も感じないようでは、打つ手はなくなるかも知れない。
一種の賭けだったが、俺の醜聞、悪気を披瀝すると同時に、関東遠征時に父親の家に泊まることを命じた。
そして、父親とのやりとりで、高梨が自宅に戻ったおりに、なんとか琢成館の藤森先生と面会させたいと考えた。
藤森先生なら、高梨の何かを変えてくれる。そう思ったからだ。
演舞・・・・は、予想以上の効果を上げた。
父親の家に泊まり、藤森先生と面会した高梨は、関東遠征から帰ってきて以後、明らかな変化を見せ始めた。
何時もならどんな事でも無条件で俺の指示に従うはずが、いちいち、その理由を問い、自身の意志に反している場合は、それをとうとうと捲し立て、俺の指示を拒否することも多くなった。
そして、それにもまして、自己の技を磨く事にしか興味を示さなかった高梨が、同級生と普通の会話をし、更に、後輩達の指導を熱心に行うようになった。
だが、だからと言って、試合に弱くなったわけではない。
むしろ、以前よりも増して強くなっている。邪念の無い構え、的確に打突部を捉える剣さばき。どれも、一段階段を上がったように見えた。
父親に関東遠征の際に泊まった時の様子を聞いてみても、取り立てて変わった様子は無かったし、藤森先生にはこてんぱんにされたということ以外、何も無かったという。
ただ、別れ際、数秒ではあったが、深々と礼をし、その上げた顔に、僅かではあったが涙の光があった。と言う。
三年生となり、最後のインターハイ県予選が直前に迫る頃、俺は高梨を顧問室へ呼んだ。
いつも通り無表情の高梨は、俺と向かい合って座り、正選手に選ばれた生徒の様子やその他の部員らの様子を延々と語っている。
これだけでも大変な変化だ。
高梨にとって、自分以外の者は全く無関係の存在に過ぎないものであったはずだ。
思えば、秋の関東遠征以来、既に半年が経過しており、その間に高梨の精神的変化は、堰を切ったように急速に変化してきている。
「お前の姉は東湘学園だったな。当然、今のやつらの様子、聞いてんだろうな」
「いいえ。必要ありませんから」
高梨は平然と応える。
「ほう、高梨、お前、それでやつらに勝てる自信あるんだな」
「全力をつくすだけです」
「それで、お前の復讐が果たせるのか」
「復讐・・・誰に対してですか」
「お前、忘れたのか。湘東学園の武藤という男は、俺のかたきだぞ」
「先生の私怨と、僕らの真摯な試合は関係ありません」
反抗心むき出しの言葉に俺は唖然となった。が、一方において俺が貫いてきた演舞が、高梨を変えたことに多少の満足感を与えられた。
「真摯な試合だと。生意気な口をきくな」
「そうでしょうか」
「誰のおかげで、剣道続けられてきたと思ってるんだ」
「第一に、道場の仲間、学友。第二に家族。第三にあなたです」
「・・・・ふぅむ。俺は三番目か。低く見られたもんだな」
「そんなことはありません。あなたは私を剣道に導いてくれた大切な師匠のお一人ですから」
「ふん。剣道に導いてくれたか・・・んじゃ聞くが、お前にとって剣道とはなんだ」
「生きる為の道しるべの一つです」
「ほう・・・それじゃ、生きるとはなんだ」
「今の自分を受け入れ、決別し、一日一日を新たな気持ちで大事にしていくことです」
俺は、言葉を失った。
この歳になって、教え子から人生を教えられるとは思わなかった。
俺は、高梨の父親に、高梨の心の変化と言動を詳しく手紙で知らせた。
その後、高梨の家庭に変化があり、父親が再婚し、新たな家族が増える事、高梨自身もそれに賛成し、高梨は高校卒業後は、神奈川県警に奉職したい旨を父親に伝えてきたと言う。
演舞。
心を込めた演舞は、いつしか虚像を排して真実となり、自己を形成する。
俺は、藤森先生の言葉の意味をやっと実感することができたような気がした。




