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第8章 濡れた髪と夏の予感

試験が終わり、三人とも無事に乗り越えて、長かった一学期もようやく終わりを告げようとしていた。

体育館は、夏の熱気に包まれていた。

終業式の日。

 窓から差し込む陽射しが床を照らし、生徒たちの制服が白く輝いている。光の粒子が空気中に浮遊し、まるで見えない霧のように体育館全体を満たしている。扇風機が首を振り、生温い風を送っているが、焼け石に水だ。モーターの唸る音が、低く響く。汗が額に浮かび、制服のブラウスが肌に張り付く。背中も、脇も、じっとりと湿っている。誰もが早く式が終わることを願っている。そんな空気が、体育館全体を満たしていた。

 壇上では、校長先生が演台に立っている。マイクを通した声が、スピーカーから響く。でも、その言葉は誰の心にも届いていない。

 誰も、真面目に聞いていない。みんな、夏休みのことで頭がいっぱいだ。窓の外を見つめたり、隣の友達と小声で話したり。ハンカチで汗を拭う子、うちわで顔を扇ぐ子、目を閉じてうつらうつらしている子。私も、ぼんやりと校長先生の声を聞き流していた。

 美緒は、隣でスマホをいじっている。制服のスカートのポケットに隠して、画面を覗き込んでいる。先生に見つかったら没収されるのに、美緒は平気な顔をしている。

 さらに隣のクラスの列には、遥が座っている。彼女だけは、背筋を伸ばして真剣に話を聞いている。メモ帳まで開いて、何か書き留めている。真面目だな、と思う。でも、その真面目さが、遥を支えているんだろう。

 やっと、式が終わった。

「それでは、良い夏休みを」

 校長先生の言葉で、体育館が一気に騒がしくなった。

 生徒たちが立ち上がり、出口へ向かう。椅子を片付ける音、足音、話し声。それらが混ざり合って、体育館全体が大きな音の渦に包まれる。廊下が人で溢れ、みんなの話し声が響く。

「やっと夏休みだ!」

「海行こうよ!」

「プール!」

 解放感が、校舎中を満たしている。誰もが笑顔で、誰もが軽やかな足取りで歩いている。制服の袖をまくり上げ、リボンを緩め、みんなが夏休みモードに切り替わっていく。

 昇降口で私と美緒と遥で待ち合わせた。

 人混みの中、三人で集まる。周りでは、他のクラスメートたちが靴を履き替え、鞄を肩にかけ、帰り支度をしている。

「ねえねえ、夏休み、楽しもうね!」

 美緒が、満面の笑みで言う。彼女の目が、期待に輝いている。金髪が、窓から差し込む光を受けてキラキラと反射する。

 美緒の言葉に、私たちは頷いた。

 でも、その直後。

「……私、夏休みは夏期講習があるから」

 遥が、小さく言った。

 声のトーンが、急に落ちる。周りの騒々しさとは対照的に、遥の言葉だけが静かに沈んでいく。

「え?」

 美緒が、驚いた顔をする。

「成績維持しないといけないからさ。だから、夏休みもほとんど勉強」

 遥の声が、少し沈む。彼女の肩が、わずかに落ちる。眼鏡の奥の瞳が、どこか遠くを見ている。

「そっか……大変だね」

 美緒も、申し訳なさそうな顔をする。さっきまでの明るさが、少しだけ陰る。

「そういう私も、バイトで忙しいんだけどね」

 美緒の声も、少し曇る。彼女が鞄の紐を握る手に、少しだけ力が入る。

 私は、二人を見た。

 それぞれに、事情がある。

 夏休みだからって、自由に遊べるわけじゃない。

 そして、私も。

 母の監視が、厳しくなる。夏休みは、家にいる時間が長い。どこに行くにも、誰と会うにも、報告しなければいけない。特に、美緒と会うことは、許されないだろう。母の顔が、頭に浮かぶ。あの厳しい視線。あの冷たい声。

「じゃあ……夏休み、会えないかもね」

 私が、小さく言うと、美緒が寂しそうな顔をした。

 彼女の目が、わずかに潤む。でも、すぐに笑顔を作る。いつもの、明るい美緒の笑顔。でも、その笑顔の裏に、寂しさが隠れているのがわかる。

「そっか……でも、LINEはするよ! 毎日!」

「うん」

「遥も!」

「……うん」

 三人で、ハイタッチをした。

 パン、と手のひらが合わさる音。でも、その手のひらには、寂しさが混ざっていた。いつもより、少しだけ力が弱い。いつもより、少しだけ温度が低い。

 窓の外では、蝉の声が響いている。ミンミンゼミの高い鳴き声が、夏の始まりを告げていた。


夏休みが始まって、一週間。

 私は、家で退屈な日々を過ごしていた。

 朝起きて、朝食を食べて、宿題をして、本を読んで、昼食を食べて、また本を読んで、夕食を食べて、寝る。毎日、同じことの繰り返し。時計の針が、ゆっくりと進んでいく。窓の外からは、蝉の声と、時々通る車の音。それ以外は、静寂。外に出るのは、近所のスーパーに買い物に行くときくらい。母が、いつも一緒についてくる。

 部屋の温度計は、三十二度を指している。エアコンをつけても、暑さは完全には消えない。ベッドに寝転がって、天井を見つめる。天井のシミが、何かの形に見える。それを数えて、時間を潰す。

 美緒とは、毎日LINEをしていた。

 美緒からのメッセージは、いつも明るい。

「今日もバイト頑張ったよー! 疲れたけど、お客さん喜んでくれて嬉しかった♡」

 画面に表示されるハートマークが、妙に眩しい。美緒の笑顔が、文字の向こうに見える気がする。

「愛子、何してる? 暇だったら電話しよ!」

 電話したい。美緒の声が聞きたい。でも、母がいる。母に聞かれたくない。だから、いつも文字だけで返す。

「今日、可愛い服見つけた! 愛子に似合いそう! 今度一緒に買い物行こうね!」

 一緒に、買い物。その「今度」は、いつ来るんだろう。夏休みが終わってから? それとも、もっと先?

 そのメッセージを読むたびに、胸が温かくなる。スマホの画面を見つめて、小さく微笑む。でも、同時に切なくもなる。会いたいのに、会えない。この距離が、辛い。物理的な距離はそれほど遠くないのに、心理的な距離が、どんどん広がっていく気がする。

 遥からも、たまにメッセージが来た。

「夏期講習、地獄。でも、頑張ってる」

 短い言葉だけど、遥の疲労が伝わってくる。

「美緒、元気? 愛子も元気にしてる?」

 遥なりに、私たちのことを気にかけてくれている。それが嬉しい。

「新作、少し進んだ。また読んでね」

 短いメッセージだけど、遥らしい。彼女も、頑張っている。勉強の合間を縫って、漫画を描いている。その努力が、尊い。

 ある日、どうしても家にいるのが辛くなって、明美に連絡した。

 スマホを握る手が、少し震えている。誰かと話したい。誰かに会いたい。この閉塞感から、逃れたい。

「明美、今日カフェ行かない?」

 送信ボタンを押す。すぐに既読がつく。

 すぐに返信が来た。

「いいよー! じゃあ、駅前のカフェで14時に!」

 明美の軽快な返事。その明るさが、救いだった。

 母に、「明美とカフェに行く」と伝えると、少し考えてから許可が出た。

「明美ちゃんなら、いいわ。でも、十七時までには帰ってきてね」

 母の声は、いつも通り冷静で、でも有無を言わせない強さがある。

「うん、わかった」

 やっと、外に出られる。

 玄関のドアを開けると、熱気が押し寄せてきた。でも、その熱気さえも、嬉しく感じた。


 駅前のカフェは、冷房が効いていて快適だった。

 ドアを開けた瞬間、冷たい空気が肌を撫でる。汗ばんだ額が、一気に冷える。店内の温度は、おそらく二十四度くらい。外との温度差が、心地よい。

 窓際の席に座り、アイスコーヒーを注文する。外は灼熱の太陽が照りつけているが、ここは涼しい。ガラス窓越しに見える外の景色が、陽炎で揺れている。店内には、他にも数組の客がいて、静かに会話を楽しんでいる。カップが置かれる音、スプーンが触れ合う音、低い話し声。BGMが小さく流れ、心地よい空間を作っている。ジャズ。ピアノの音色が、静かに流れている。

 明美が、向かいの席に座った。

 彼女は、白いブラウスに水色のスカート。爽やかな夏の装い。髪を後ろでまとめていて、涼しげに見える。

「愛子、久しぶり! 元気だった?」

 明美の声は、いつも通り明るい。その明るさが、私の心を少しだけ軽くする。

「うん……まあ」

 私の返事が、歯切れ悪い。自分でも、元気がないのがわかる。

「どうしたの? 元気なさそうだけど」

 明美が、心配そうに聞く。眉を少し寄せて、私の顔を覗き込む。

 私は、少し迷ってから、話し始めた。

 言葉を選びながら、でも正直に。

「夏休み、つまらなくて……」

「え? なんで?」

 明美が、意外そうな顔をする。夏休みは楽しいもの、というのが普通の感覚だから。

「美緒も遥も忙しくて、会えないし。家にいるだけで、何もすることない」

 愚痴を言うつもりじゃなかったのに、言葉が溢れてくる。堰を切ったように、言葉が出てくる。ストローでアイスコーヒーをかき混ぜながら、視線を下に落とす。氷がカラカラと音を立てる。

「お母さん、厳しいもんね」

 明美が、同情するように頷く。彼女は、私の家庭事情を知っている。母の厳しさを、理解している。

「うん……特に、美緒と会うのは反対されてる」

 その言葉を口にすると、胸が痛む。なぜ、母は美緒を嫌うんだろう。見た目だけで判断して。美緒の本当の優しさを、知ろうともしない。

「そっか……」

 明美が、同情するように頷く。

「でも、美緒ちゃんとはLINEしてるんでしょ?」

「うん、毎日」

 毎日、欠かさず。朝起きて最初にすることは、美緒からのメッセージを確認すること。夜寝る前の最後も、美緒へのメッセージ。

「じゃあ、それでいいじゃん」

 明美の言葉は、優しい。でも、違う。LINEだけじゃ、足りない。

「でも……会いたいんだ」

 その言葉が、自然に出てきた。

 会いたい。美緒に、会いたい。声を聞きたい。笑顔を見たい。一緒にいたい。その気持ちが、抑えきれない。

 明美が、少し考えるような顔をして、それから微笑んだ。

 優しい笑顔。でも、その目には、何か知っているような光が宿っている。

 私は、アイスコーヒーを一口飲んだ。

 冷たい液体が、喉を通っていく。苦味と甘みが混ざった味。でも、胸の熱さは消えない。むしろ、ますます熱くなっていく。

 明美は、何も言わなかった。

 ただ、優しく微笑んでいた。

 その微笑みが、まるで「わかってるよ」と言っているようだった。


 その夜。

 私は、ベッドに横たわっていた。

 エアコンが効いた部屋で、天井を見つめる。白い天井。小さなシミが、いくつか見える。それを数えながら、ぼんやりと考える。

 明美との会話が、頭の中で繰り返される。

 会いたい、と言ってしまった。

 その言葉の重みが、今になってわかる。ただ友達に会いたい、というのとは違う。もっと強い、もっと切実な気持ち。

 スマホが光った。

 暗い部屋の中で、画面の光が眩しい。手を伸ばして、スマホを取る。

 美緒からのメッセージ。

 心臓が、少し早く打つ。

「愛子、起きてる?」

 すぐに返信する。指が、少し震える。

「起きてるよ」

 送信。すぐに既読がつく。美緒も、スマホを見ていたんだ。

「よかった! ねえ、明後日、屋外プール行かない?」

 屋外プール?

 心臓の鼓動が、さらに早くなる。

「私、バイト休みなの。せっかくだから、みんなで遊びたいなって」

「みんな?」

「愛子と、遥と、明美ちゃんも誘おうかなって。四人で!」

 四人で、プール。

 美緒に、会える。

 その事実が、胸に響く。心臓が、早く打ち始めた。ドクン、ドクン、と音が聞こえそうなくらい。

 でも、母が許してくれるだろうか。

 不安が、頭をよぎる。美緒と会うことを、母は許さない。でも、みんなで行くなら……。

「お母さんに、聞いてみる」

 指が震えながら、文字を打つ。

「うん! 絶対来てね! 待ってるから♡」

 ハートマーク。

 その記号が、今まで以上に特別に見える。画面を見つめる。美緒の顔が、浮かんでくる。笑顔。キラキラした目。

 私は、ベッドから起き上がった。

 足が、少し震える。心臓が、まだ早く打っている。

 リビングに行くと、母がテレビを見ていた。

 ニュース番組のアナウンサーの声が、静かに流れている。母は、ソファに座って、じっとテレビを見つめていた。

「お母さん、明後日、友達とプール行ってもいい?」

 声が、少し震える。母が、こちらを見る。

「プール? 誰と?」

 母の声は、いつも通り冷静。でも、その瞳が、私を値踏みするように見つめる。

「明美と……あと、クラスメート」

 嘘じゃない。でも、美緒の名前は出さない。母の顔が曇るのが、怖い。

「クラスメート?」

「うん。遥って子と、美緒」

 美緒の名前を口にした瞬間、母の顔が、少し曇った。

 やっぱり。母は、美緒のことを良く思っていない。

「美緒って、あの転校生の?」

 母の声に、棘がある。

「うん……」

「愛子、あの子とはあまり……」

 母が、言いかける。その先の言葉がわかる。「関わらない方がいい」と言うつもりだ。

「お願い。みんなで行くから」

 私は、必死に頼んだ。両手を合わせて、懇願する。

 母が、ため息をついた。

 長い、深いため息。その音に、諦めと不満が混ざっている。

「……十八時までには帰ってきてね」

「ありがとう!」

 許可が出た。

 胸が、喜びで満たされる。会える。美緒に、会える。

 私は、部屋に戻ってすぐに美緒に返信した。

 指が、興奮で震える。

「行ける!」

 送信。すぐに返信が来た。

 美緒も、待っていたんだ。

「やったー!! 楽しみ! 愛子に会えるの、すごく嬉しい♡♡♡」

 ハートマークが三つ。

 画面を見つめる。文字が、光って見える。

 私の心臓が、激しく跳ねた。

 嬉しい。美緒も、私に会えるのを楽しみにしてくれている。

 スマホを抱きしめる。画面が、胸に当たる。

 会える。あと二日で、会える。


当日。

 朝から、緊張していた。

 目が覚めたのは、朝六時。いつもより二時間も早い。でも、眠れなかった。今日、美緒に会える。その事実が、興奮と緊張を呼ぶ。

 何を着ていこうか、鏡の前で何度も着替える。

 クローゼットを開けて、服を一枚ずつ見ていく。白いTシャツ。ピンクのブラウス。ベージュのワンピース。どれも、しっくりこない。何を着ても、自分が地味に見える。

 水着は、去年買ったワンピースタイプ。黒地に、小さな白い水玉模様。地味だけど、これしかない。鏡で確認する。やっぱり、地味だ。美緒みたいに、可愛いビキニを着る勇気はない。

 その上に、白いTシャツとデニムのショートパンツ。シンプルだけど、これが私らしい。でも、美緒の隣に並んだとき、釣り合うだろうか。不安が、頭をよぎる。

 鞄に、タオルと日焼け止めと飲み物を詰める。財布も忘れずに。鏡で自分の姿を確認する。髪を結び直して、少しだけリップを塗る。淡いピンク。ほんの少しだけ、顔色が明るくなる。

 午前九時半、家を出た。

 母が、玄関まで見送りに来た。

「十八時までよ」

 念を押す母の声。

「わかってる」

 ドアを閉めて、外に出る。

 太陽が、すでに高く昇っている。空は、雲一つない青。蝉の声が、けたたましく響く。

 駅前で、明美と待ち合わせ。

 駅のロータリーで、明美が手を振っているのが見える。

「おはよう、愛子!」

 明美が、元気に手を振る。彼女は、ピンクのワンピースを着ていて、麦わら帽子を被っている。夏らしい、可愛い格好。大きなトートバッグを肩にかけている。サングラスまでかけていて、完璧な夏のコーディネート。

「おはよう、明美」

 私の声は、少し小さい。

「楽しみだね! プール!」

 明美の目が、輝いている。

「うん……」

 私の返事が、少し弱い。緊張で、声が震える。

「緊張してる?」

 明美が、私の顔を覗き込む。

「ちょっと……」

「大丈夫だよ。楽しもう!」

 明美の笑顔に、少し安心した。彼女がいてくれて、よかった。

 電車に乗って、隣町の屋外プールへ向かう。窓の外の景色が流れていく。田んぼ、住宅街、川。夏の風景が、目に映る。稲が、風に揺れている。子供たちが、川で遊んでいる。車内は冷房が効いているが、窓から見える外の景色は陽炎で揺れている。

 三十分ほどで、目的地に到着した。

 駅を降りると、熱気が押し寄せてきた。アスファルトから、熱が立ち上る。空気が、歪んで見える。

 すでに美緒と遥が待っていた。

 改札の外。人混みの中。美緒の金髪が、すぐに目に入る。

「愛子ー!」

 美緒が、大きく手を振る。

 その声を聞いた瞬間、胸が高鳴った。

 彼女は、白いノースリーブのワンピースを着ていて、サングラスを頭に乗せている。金髪が、太陽の光を反射してキラキラ輝いている。大きなビーチバッグを持っている。ピンクと白のストライプ。美緒らしい、派手で可愛いバッグ。

 遥は、地味なTシャツとジーンズ。グレーのTシャツに、色落ちしたジーンズ。いつも通りの格好だけど、眼鏡をコンタクトに変えている。少し印象が違って、新鮮だ。眼鏡がないと、遥の顔立ちがよくわかる。意外と、整った顔をしている。

「久しぶり!」

 美緒が、私に駆け寄ってきた。

 サンダルの音が、カツカツと響く。

 そして、いきなり抱きつかれた。

「会いたかったよ、愛子!」

 美緒の体温が、伝わってくる。甘いシャンプーの香り。フルーティーな、甘い匂い。柔らかい感触。美緒の腕が、私の背中を抱きしめる。夏の日差しの中で感じる温もりが、妙にリアルで生々しい。

 心臓が、爆発しそうだった。

 ドクン、ドクン、と音が聞こえる。美緒に聞こえてないだろうか。この鼓動。

「わ、私も……」

 やっとそれだけ言えた。声が、震えている。

「じゃあ、行こうか!」

 美緒が、私の手を引いて歩き出す。

 その手が、温かい。少し汗ばんでいるけど、それがまた生々しい。

 もう、離したくない。

 この手を、ずっと握っていたい。


屋外プールは、人でごった返していた。

 入口を抜けると、一気に喧騒が押し寄せてくる。

 子供たちの歓声、水しぶきの音、音楽。夏の喧騒が、プール全体を包んでいる。スピーカーから流れるポップスが、空気を震わせる。太陽が真上から照りつけ、プールの水面がキラキラと輝いている。光が反射して、目が痛いくらい。浮き輪やビーチボールが、カラフルに水面を彩る。赤、青、黄色、ピンク。色とりどりの浮き輪が、プールに浮かんでいる。

 更衣室で、水着に着替える。

 ロッカールームは、女性客でいっぱい。話し声、笑い声、ロッカーの開閉音。みんなが、それぞれ着替えている。

 私は、地味な黒のワンピース水着。

 鏡で確認する。やっぱり、地味だ。体のラインも、あまり出ない。これでいいんだ、と自分に言い聞かせる。

 明美は、ピンクのビキニ。

 彼女のスタイルの良さが、際立つ。明美は、自信を持って着こなしている。

 遥は、紺色のスクール水着。

 シンプルで、機能的。遥らしい選択。

 そして、美緒は――。

 白いビキニ。

 更衣室の中で、美緒が着替えている姿が目に入る。

 大胆なデザインで、美緒の体型を際立たせている。

 私は、思わず目を奪われた。

 美緒のスタイルの良さ。くびれたウエスト、引き締まった脚、健康的な肌。鎖骨のラインが美しく、肩の丸みが柔らかい。お腹が平らで、脇腹に影ができる。

 見てはいけない、と思いながらも、視線が離せない。

 美緒の肌が、照明の光を受けて輝いている。水着の白が、肌の色を際立たせる。

「愛子、どうしたの?」

 美緒が、不思議そうに聞く。

 彼女が、こちらを見ている。私が見ていたことに、気づかれた。

「え、あ、何でもない」

 慌てて視線を逸らす。顔が、熱い。耳まで、熱くなっている。

「愛子も可愛いよ! その水着、似合ってる!」

 美緒が、笑顔で言う。

 その言葉に、胸が温かくなった。嬉しい。美緒が、褒めてくれた。

 四人でプールサイドに出る。

 ドアを開けた瞬間、熱気が押し寄せる。

 強い日差しが、肌を刺す。太陽が、容赦なく照りつける。日焼け止めを塗る手が、少し震える。白いクリームを手のひらに出して、腕や脚に伸ばしていく。ひんやりとした感触。でも、すぐに肌に馴染んで、温かくなる。

「じゃあ、まずは流れるプールから!」

 美緒が、先頭を切って歩き出す。

 私たちも、後に続いた。

 プールサイドが、熱い。素足に、焼けたタイルの熱が伝わる。ちょっと痛いくらい。足早に、プールへ向かう。


 流れるプールに入ると、水の冷たさが心地よかった。

 足を浸けた瞬間、ひんやりとした感覚が全身に広がる。

 ゆっくりと、体を水に沈める。肩まで浸かると、暑さが一気に消える。

 ゆっくりと流れる水に身を任せ、四人で輪になって浮かぶ。太陽が真上から照りつけ、水面が眩しく光る。水の流れに体を委ねると、自然と四人が近づいたり離れたりする。ゆったりとした流れが、体を運んでいく。

「気持ちいいね!」

 美緒が、笑顔で言う。

 彼女の髪が濡れて、顔に張り付いている。金髪が、水を含んで少し茶色っぽく見える。それを手で払う仕草が、やけに色っぽく見えた。細い指が、髪を耳にかける。水滴が首筋を伝い、鎖骨のくぼみに溜まる。そこから、胸元へ。

「うん……」

 私は、短く答えるのが精一杯だった。

 美緒の姿が、目に焼き付いて離れない。濡れた肌、水滴が滴る髪、笑顔。すべてが、美しすぎる。水着姿の美緒。普段は制服で隠れている肌が、露わになっている。それが、妙に刺激的で。

「愛子、大丈夫? 顔、赤いよ?」

 明美が、心配そうに聞く。

 彼女の目が、少し意味ありげに見える。わかってる、という目。

「え、う、うん。日焼けかも」

 嘘をつく。でも、明美は気づいている。

「じゃあ、日陰で休憩する?」

「ううん、大丈夫」

 私は、必死に平静を装った。

 でも、心の中は大嵐だった。

 美緒の身体に、目が行ってしまう。

 見てはいけない、と思えば思うほど、視線が吸い寄せられる。水面に映る美緒の姿さえも、妙に意識してしまう。揺れる水面に映る、歪んだ美緒の姿。それさえも、美しい。

「ねえ、次はウォータースライダー行こうよ!」

 美緒が、提案する。

 彼女が、プールから上がろうとする。両手をプールサイドについて、体を持ち上げる。その動作。腕の筋肉が、少し浮き上がる。背中の筋肉も。

「いいね!」

 明美が、賛成する。

 遥も、小さく頷いた。

 私たちは、流れるプールから上がった。

 体から、水が滴る。髪から、肌から、水着から。水滴が、タイルに落ちて、小さな水溜まりを作る。

 プールサイドを歩きながら、美緒が隣に来た。濡れた体が触れ合いそうな距離。肌から水滴が滴り、足元に小さな水溜まりができる。美緒の肩が、私の肩に触れそうになる。その距離が、近すぎる。

 美緒が、微笑む。

 その笑顔が、眩しくて、私はまた視線を逸らした。

 心臓が、うるさいくらいに鳴っている。ドクン、ドクン、ドクン。早鐘を打つ心臓。

 美緒に、バレてないだろうか。この動揺。


 ウォータースライダーは、高さ十メートルほどの塔の上から滑り降りる。

 階段を登りながら、美緒が後ろからついてくる。金属の階段が熱を持っていて、素足に熱さが伝わる。一段、また一段。ゆっくりと登っていく。

 美緒の足音が、後ろで聞こえる。ペタペタという、濡れた足の音。

「愛子、怖くない?」

 美緒の声が、すぐ後ろから聞こえる。

「ちょっと……」

 高いところは、苦手だ。階段を登るたびに、下が遠くなっていく。

「大丈夫だよ。私がいるから」

 美緒の言葉が、心強い。

 でも、同時に胸が苦しい。

 美緒が優しければ優しいほど、私の気持ちは募っていく。この優しさ。この笑顔。すべてが、愛おしい。

 頂上に着いた。

 ここからの眺めは、素晴らしい。プール全体が見渡せる。人々が、小さく見える。遠くには、街の景色。

 順番が来て、私が最初に滑ることになった。

 スライダーの入口に座る。下を見ると、水面が遠い。プールが小さく見える。青い水面が、キラキラ光っている。

「いくよ!」

 係員の合図で、体を前に倒す。

 一気に、滑り落ちる。

 風が顔を叩き、水しぶきが上がる。スピードが速くて、悲鳴が出そうになる。声にならない悲鳴が、喉から漏れる。曲がりくねったコースを、体が流れていく。遠心力で体が壁に押し付けられ、次の瞬間には反対側に。内臓が、浮く感覚。

 最後に、プールに飛び込んだ。

 ドボンという音とともに、水の中に沈む。

 水の中は、静かだ。耳が、水で塞がれる。周りの音が、遠くなる。

 浮かび上がる。

 息を吐いて、周りを見る。空気が、肺に入る。

 すぐに、美緒が滑り降りてきた。

 彼女の歓声が、上から聞こえる。そして、ドボンという音。

 美緒もプールに飛び込み、笑顔で浮かび上がる。髪が顔全体に張り付いて、それを両手でかき上げる仕草。その仕草が、映画のワンシーンみたいに美しい。スローモーションで見たい、と思ってしまう。

「すごかったね!」

 美緒が、興奮気味に言う。

「うん……」

 私は、短く答える。

 美緒が、近づいてくる。

 水の中を、泳いでくる。平泳ぎで、ゆっくりと。

 濡れた髪が顔に張り付き、水滴が頬を伝う。その姿が、妙に艶っぽくて、私は目を逸らした。

 見ちゃいけない。こんな風に見ちゃいけない。

「愛子、また顔赤いよ? 本当に大丈夫?」

「う、うん。大丈夫」

 嘘だった。

 全然、大丈夫じゃない。

 美緒を見るたびに、胸がざわつく。

 この気持ち、どうすればいいんだろう。

 明美と遥も滑り降りてきて、四人でプールサイドに上がった。

「ちょっと休憩しよう」

 遥が提案する。

 彼女も、少し疲れた様子。息が、上がっている。

 私たちは、パラソルの下のベンチに座った。

 日陰が、心地よい。直射日光から逃れると、少し涼しい。

 冷たい飲み物を買って、一息つく。自動販売機で買った、冷えたスポーツドリンク。炭酸が喉を刺激して、少し落ち着く。ペットボトルが冷たくて、手のひらに心地よい。額に当てると、ひんやりして気持ちいい。

「愛子、本当に大丈夫? さっきから様子おかしいよ」

 明美が、小声で聞いてくる。

 彼女が、私の隣に座る。美緒と遥には聞こえないように、小さな声で。

「……うん」

「美緒ちゃんのこと、見すぎてない?」

 その言葉に、ドキッとした。

 心臓が、跳ねる。

「え……」

 声が、出ない。

「バレバレだよ。遥ちゃんも気づいてると思う」

 明美が、遥の方を見る。

 遥は、何も言わないけど、こちらをチラッと見た。その視線には、何か含みがある。眼鏡がない分、表情が読みやすい。その目が、まるで「知ってるよ」と言っているようだ。

 その事が痛烈に後ろめたかった。

 バレてる。私の気持ち、バレてる。

 恥ずかしさと、罪悪感が、胸を満たす。


午後、波のプールで遊んだ。

 波のプールは、一番人気のエリア。人でごった返している。

 定期的に、大きな波が発生する。サイレンが鳴って、波が来ることを知らせる。

 ウォーという音とともに、波が押し寄せてくる。

 大きな波が押し寄せてきて、体が浮き上がる。足が、地面から離れる。水の力に、体が持ち上げられる。

 美緒が、私の手を引いて一緒に波に乗る。

「きゃー!」

 美緒の歓声が、耳に心地よい。

 彼女の手が、私の手をしっかりと握っている。濡れた手のひらが、ぴったりと密着する。指が、絡み合う。

 この手を、離したくない。

 波に揺られながら、美緒の手を握る。その温もりが、水の冷たさの中で際立つ。

 波が収まり、プールが静かになる。

 足が、地面につく。でも、美緒は手を離さない。

 美緒が、私を見た。

 水滴が、睫毛についている。それが、キラキラ光る。

「愛子、楽しい?」

「うん……すごく」

 本当に、楽しい。美緒と一緒だから。

「よかった。私も、愛子と一緒だから楽しい」

 美緒が、微笑む。

波のプールの中で、たくさんの人に囲まれて、でも私の世界は美緒だけで満たされていた。


夕方、プールを出た。

 体が、疲れている。でも、心は満たされている。

 四人で、近くのファミレスに入る。

 冷房の効いた店内が、快適だった。体が冷えて、少し震える。濡れた髪から、まだ水滴が滴る。窓の外では、まだ太陽が照りつけているが、店内は別世界だ。

「お疲れ様!」

 美緒が、ドリンクバーのジュースを持ってくる。オレンジジュース、コーラ、アイスティー。それぞれが好きな飲み物を選ぶ。美緒は、メロンソーダ。グリーンの液体に、氷が浮かぶ。

「今日、すごく楽しかったね!」

 美緒が、グラスを持ち上げる。

「うん」

 私たちは、それぞれ頷いた。

 グラスを合わせて、乾杯する。カチンという音。

 遥が、小さく笑った。

「……久しぶりに、遊んだ」

 遥の声が、柔らかい。いつもの硬さがない。

「遥、勉強ばっかりだもんね」

 明美が、同情するように言う。

「でも、今日は楽しかった。ありがとう、美緒」

 遥が、素直に感謝する。

 遥が、こんなに素直に感謝の言葉を言うなんて。珍しい。

「どういたしまして! また行こうね!」

 美緒が、笑顔で答える。

 食事を終えて、外に出る。

 夕陽が、街を染めていた。オレンジ色の光が、ビルの窓に反射している。


駅で、四人は別れた。

「じゃあ、また!」

 美緒が、手を振る。

「また LINE するね!」

「うん」

 私も、手を振った。

 美緒の姿が、改札の向こうに消えていく。

 その背中を見ながら、胸が締め付けられた。

 会いたい。もっと一緒にいたい。

 でも、それは叶わない。

 夏休みは、まだ続く。でも、美緒との時間は、また遠ざかっていく。

 私は、美緒の背中が完全に見えなくなるまで、じっと見つめていた。

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