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第7章 図書室のプリズム

 期末テスト一週間前。

 図書室は、いつもより静かだった。

 普段はページをめくる音や小さな咳払いが混じる空間が、今はさらに息を潜めたような静寂に包まれている。試験勉強に追われる生徒たちが、それぞれの席で黙々と教科書を開き、鉛筆の先がノートを擦る微かな音だけが、時折響く。窓の外からは、夏の陽射しが差し込み、棚の影を長く伸ばしている。埃の粒子が光の中で舞い、部屋全体に淡いベールをかけるようだ。

 私は、窓際の席で数学の問題集と格闘していた。

 ノートに計画表を書き、今日やるべき範囲を赤ペンでチェックしていく。直線が引かれる感触が、指先に伝わる。計画的に進めれば、テストまでに全範囲を網羅できる。そう信じて、一問ずつ丁寧に解いていく。計算ミスをしないよう、消しゴムで何度も修正し、式の流れを追いながら、頭の中でグラフを描く。外の蝉の声が遠くに聞こえ、集中を試すように響く。

 シャープペンシルの芯が、カリカリとノートに数式を刻む。二次関数の頂点を求める問題。軸の公式を思い出しながら、慎重に計算を進める。間違えたら、最初からやり直し。この繰り返しが、私の勉強法だった。

「愛子〜!」

 突然、後ろから声がかかった。

 その声は明るく、静かな図書室に小さな波紋を広げる。周りの生徒が、一斉にこちらを見た気がした。振り返ると、美緒が満面の笑みで手を振っていた。派手なヘアピンが、蛍光灯の光を反射してキラキラと輝き、金髪が軽く揺れている。彼女の鞄が肩に食い込み、歩くたびに小さな音を立てる。制服のリボンが少し緩んでいて、いつもの美緒らしい少し崩した着こなし。

「また教えてよぉ! 私、数学マジ無理〜」

 美緒が、隣の席にどさっと座った。

 その勢いで、机が少し揺れ、私の筆箱が転がりそうになる。彼女の甘いシャンプーの香りがふわりと漂い、柑橘系とフローラルが混ざった匂い。鞄から教科書とノートを取り出すが、ノートはあちこちに落書きがしてあって、真面目に勉強している形跡がない。ハートマークや星のイラストが、数式の間に散らばり、ページの端が少し曲がっている。誰かの似顔絵まで描いてある。

「美緒、静かに……」

 私は小声で注意した。声が少し震え、周囲の視線を気にする。図書室のルールを破るのが、怖かった。司書の山田先生に注意されたら、どうしよう。でも、美緒は気にせず、私のノートを覗き込んでくる。彼女の息が近く、胸の奥がざわつく。美緒の体温が、すぐ隣に感じられる。

「愛子のノート、きれいだね。私のと大違い」

 そう言いながら、美緒は自分のノートにまたハートマークを描いた。

 赤ペンの先が紙を擦る音が小さく響き、可愛らしい形がすぐにできあがる。線が太くて、はっきりしている。美緒らしい、大胆な筆跡。私は、少し困った顔をしながらも、美緒に数学を教え始めた。美緒の苦手な二次関数。グラフの書き方から、丁寧に説明する。指でノートをなぞり、軸の求め方をゆっくり示す。

「まず、この式を標準形に変形して……」

 私が説明すると、美緒が真剣な顔でノートを見る。でも、すぐに「わかんない」という表情になる。眉が寄って、首を傾げる。

「ここがさ、わかんないんだよね」

 美緒が、問題集を指さす。

 彼女の指先がページに触れ、紙の感触が伝わるように見える。爪には、淡いピンクのネイルが施されている。学校では禁止されているはずだけど、美緒はいつも堂々としている。

「ここは、まず軸を求めて……」

 私が説明しようとしたとき。

「……うるさい」

 低い声が、斜め前から聞こえてきた。

 その声は冷たく、静かな図書室に鋭く刺さる。周囲の空気が、一瞬で凍りついたように感じた。顔を上げると、一人の女子生徒がこちらを睨んでいた。短めの黒髪が耳にかかり、細いフレームの眼鏡が光を反射する。制服はきちんと着こなされていて、リボンも完璧に結ばれている。机の上には整然と参考書が並び、鉛筆が揃えて置かれている。ノートも、定規で線を引いたように綺麗だ。

 見たことのある顔だ。確か、いつも成績上位にいる……。彼女の視線は厳しく、眉が少し寄っている。唇が、薄く結ばれている。

「図書室は、集中する場所なのに」

 彼女が、きっぱりと言った。

 声に棘があり、周囲の空気が少し重くなる。他の生徒たちも、チラチラとこちらを見ている。恥ずかしさと、申し訳なさが、胸を締め付ける。

「そんな軽いノリで『教えて』とか。真面目に勉強してる人の邪魔になるって、わからないの?」

 美緒が、ムッとした顔をする。

 彼女の眉が上がり、頰が少し膨らむ。美緒は、普段は明るいけど、理不尽なことを言われると黙っていられない性格だ。

「何よこの子……私だって真面目に勉強してるんだけど」

 美緒の声は、少し大きくなった。周りの生徒が、さらにこちらを見る。私は、どうしようもない焦りを感じた。

「真面目? そのノート、落書きだらけじゃない」

 彼女が、美緒のノートを一瞥する。その視線は冷たく、容赦ない。ノート上のハートが、まるで非難されているように見える。美緒の顔が、さらに赤くなる。

 私は、慌てて仲裁に入った。

 胸の奥がざわつき、手が少し冷たくなる。こういう場面が、一番苦手だ。人と対立するのが、怖い。

「ごめんなさい、静かにします……」

 私の声は、小さくて震えていた。相手の女子生徒を見ることができず、視線を下に落とす。

「……」

 彼女は何も言わず、また自分の勉強に戻った。

 視線を落とし、鉛筆を握り直す姿が、背中から見て取れる。肩の線が固く、緊張しているように見える。私と美緒は、顔を見合わせた。美緒の目が少し怒りに満ち、私は小さく息を吐く。心臓が、まだ早く打っている。

 私たちは、声のボリュームを落として勉強を続けた。

 でも、斜め前の彼女の存在が、妙に気になった。

 背筋がぴんと伸び、時々ため息をつく様子。鉛筆を持つ手が、少し震えている気がする。なぜ、あんなに怒っていたんだろう。彼女の参考書のページがめくられる音が、静かに響く。一ページ、また一ページ。彼女のペースは速く、理解力が高いことが伺える。

 窓の外では、蝉の声がさらに大きくなっていた。夏の暑さが、図書室の中まで侵入してくるようだ。


 翌日の放課後。

 私と美緒は、また図書室で勉強していた。

 窓の外は夕陽が沈み始め、オレンジの光が棚を染めている。部屋の空気が少し重く、勉強の疲れが体に溜まる。一日分の授業と、放課後の勉強。肩が凝って、首が痛い。でも、テストまであと少し。頑張らなきゃ。

 そして、昨日の彼女も、同じ席に座っていた。

 彼女は、相変わらず黙々と問題集を解いている。時々、計算用紙に数式を書いては消し、また書いては消し。ものすごい集中力だ。鉛筆の先が紙を擦る音が、リズミカルに響く。彼女の横顔は真剣で、眉間に少しだけ皺が寄っている。眼鏡の奥の瞳が、ノートに吸い込まれるように集中している。

 私たちは、できるだけ静かに勉強した。美緒も、昨日のことがあったからか、いつもよりおとなしい。彼女の息遣いが、控えめになる。ノートに書く音も、普段より小さい。たまに、美緒が私の方を見て、小さく苦笑する。「気を遣ってる」というサインだ。

 でも、数学の問題で詰まると、どうしても相談したくなる。

「愛子、ここどうやって解くの?」

 美緒が、小声で聞いてくる。声が少し震え、ノートを指さす指が止まる。彼女の眉が、困ったように寄っている。問題集の余白には、何度も消した跡がある。

「えっとね……」

 私が説明しようとしたとき。

「……そこ、こう解くの」

 突然、斜め前の彼女が口を出してきた。

 声は低く、抑揚がない。でも、説明は明確だった。私たちは、驚いて彼女を見た。彼女は、相変わらず自分の問題集を見たまま、冷たい口調で続けた。眼鏡のフレームが、光を反射する。

「因数分解してから、解の公式を使う。基本中の基本でしょ」

 その言い方は、少し棘があった。でも、確かに正しい。美緒が、ノートに式を書き始める。

「え……あ、ありがとう」

 美緒が、戸惑いながら答える。声が小さく、遠慮がちだ。普段の美緒らしくない。

 彼女は、何も言わずにまた自分の勉強に戻った。鉛筆を握り直す手が、素早い。まるで、何も起きなかったかのように、また問題を解き始める。

 私と美緒は、顔を見合わせた。

 何だろう、この人。昨日はあんなに怒っていたのに、今日は教えてくれる?

 彼女の背中が、少し柔らかく見えた気がした。肩の線が、昨日より緩んでいる。

 しばらくして、美緒がまた別の問題で詰まった。

「これもわかんない……」

 美緒が、ぼそっと呟く。声が小さく、ため息混じり。鉛筆を置いて、頭を抱える。

 すると、また彼女が口を出した。

「……そこは、グラフを書いて考えるの。視覚化すれば、すぐわかるから」

 声は淡々としているが、説明は的確。彼女の声には、教えることに慣れているような響きがあった。

「あ、そっか! ありがとう!」

 美緒が、素直に感謝する。目が少し輝く。ノートに、小さなグラフを書き始める。今度は、スムーズに解けたようだ。

 でも、彼女は相変わらず無表情で、何も言わない。視線を自分のノートに戻す。まるで、関わりたくないけど、放っておけない。そんな矛盾した態度。

 そんなやりとりが、何度か続いた。

 美緒が詰まるたび、彼女が短く的確なアドバイスをする。でも、こちらを見ることはない。声だけが、斜め前から聞こえてくる。不思議な関係だった。

 休憩時間になって、美緒が思い切って話しかけた。

 彼女の声が、少し明るくなる。いつもの美緒に戻っていく。

「ねえ、あなた、名前は?」

「……」

 彼女は、少し迷ったような顔をしてから、小さく答えた。眼鏡の奥の瞳が、ちらりと私たちを見る。初めて、こちらを直視した気がする。

「遥。白石遥」

 その声は、思ったより柔らかかった。名前を名乗るとき、彼女の表情が少しだけ緩んだ。

「私は桐谷美緒! で、こっちが水原愛子!」

 美緒が、明るく自己紹介する。彼女の笑顔が、部屋の空気を少し柔らかくする。遥が、小さく頷いた。

「……知ってる。成績表に名前出てるし」

 遥が、そっけなく答える。声に少し棘があるが、昨日より柔らかい。視線が、また自分のノートに戻る。

「遥って、いつも成績上位だよね。すごいね!」

 美緒が、素直に褒める。本心からの言葉だ。

「……別に。必要だからやってるだけ」

 遥の声が、少し低くなる。

「必要?」

 美緒が、首を傾げる。

「奨学金。成績が下がったら、打ち切られる。大学に行けなくなる」

 遥の声が、少し硬くなった。彼女の指が、鉛筆を強く握る。関節が、白くなる。

「だから、毎日こうやって勉強してる。遊んでる暇なんてない」

 その言葉に、重みがあった。胸の奥が、ずしりと響く。遥の表情が、少し暗くなる。眼鏡の奥の瞳に、疲れが見える。

 美緒が、少し申し訳なさそうな顔をする。眉が少し下がる。

「そっか……大変なんだね」

「……別に。自分で選んだことだから」

 遥は、また問題集に目を戻した。

 でも、その横顔は、どこか寂しそうに見えた。肩が少し落ち、視線が遠くを向く。鉛筆を持つ手が、少し震えている。

 私は、遥のことが少し気になり始めていた。

 成績優秀で、真面目で、でもどこか孤独そうな彼女。

 何か、抱えているものがあるんじゃないか。

 そんな予感がした。部屋の空気が、彼女の言葉で少し重くなる。夕陽の光が、彼女の横顔を照らし、影を作る。


 数日後。

 私たちは、また図書室で一緒に勉強していた。

 窓の外は夕陽が沈み、部屋がオレンジ色に染まる。勉強の疲れが体に溜まり、鉛筆を持つ手が少し重い。肩が凝って、首を回すと小さな音がする。でも、テストまであと少し。ここで諦めるわけにはいかない。

 もう、遥の存在にも慣れてきた。彼女は相変わらず黙々と勉強しているけれど、時々美緒に勉強を教えてくれる。そのたびに、美緒は「ありがとう!」と嬉しそうにする。遥の声が、少しずつ柔らかくなっている気がする。最初の冷たさが、少しずつ溶けていっているようだ。

 ある日、休憩中に美緒がスマホで何かを見て、笑っていた。

 画面の光が彼女の顔を照らし、くすくすと小さな笑い声が漏れる。彼女の目が、画面に釘付けになっている。

「何見てるの?」

 私が聞くと、美緒が画面を見せてくれた。スマホのケースが、キラキラしたストーンで飾られている。ピンクとゴールドの組み合わせ。美緒らしい、派手で可愛いデザイン。

「漫画。百合ものなんだけど、めっちゃ尊いの」

 画面には、二人の女の子が手を繋いでいるイラストが表示されている。

「百合……?」

「うん。女の子同士の恋愛。すごく繊細で、綺麗なんだよ」

 美緒の目が、輝いている。彼女の指が画面をスクロールし、次のページに進む。吹き出しの中のセリフが、感情豊かに描かれている。

 そのとき、遥が少し反応した。

 チラッと、こちらを見た気がした。視線が、素早く逸らされる。でも、確かに興味を示した。遥の鉛筆を持つ手が、一瞬止まった。

 美緒が、それに気づいて声をかける。

「遥も漫画読む?」

「……読む」

 遥が、短く答える。声が少し低くなる。でも、拒絶しているわけではない。

「どんなの?」

「……いろいろ」

 曖昧な答え。でも、美緒は諦めない。

「百合とか読む?」

 美緒が、さらに踏み込む。好奇心が声に混じる。

 遥の顔が、少し赤くなった。頰がほんのり染まり、眼鏡を直す手が震える。耳まで、赤い。

「……読む、けど」

 その答えに、美緒の目が輝いた。

「やった! 同じ趣味じゃん! ねえ、おすすめ教えて!」

 美緒が、興奮気味に言う。体を少し前傾させる。机に手をついて、遥の方を見る。

 遥が、少し戸惑ったような顔をして、それから小さく呟いた。声が、部屋の静けさに溶ける。

「……実は、描いてる」

「え?」

 美緒と私は、同時に声を上げた。周りの生徒が、こちらを見る。慌てて、声のボリュームを下げる。

「漫画。描いてる。百合もの」

 その言葉に、私たちは驚いた。胸の奥が、ぴくりと動く。遥が、漫画を描いている? しかも百合?

「すごい! 漫画家志望なの?」

 美緒が、目を輝かせる。完全に、興味津々だ。

「……うん。でも、時間がなくて。奨学金のために勉強優先しないといけないから」

 遥の声が、少し寂しそうになった。彼女の指が、ノートをそっと撫でる。ノートの端に、小さなイラストが描いてあるのが見えた。女の子の横顔。繊細な線で描かれている。

「本当は、もっと描きたい。でも、現実はそんなに甘くない」

 遥の声に、諦めと悔しさが混じっている。唇が、少し震えている。

「見せてよ! 遥の漫画!」

 美緒が、食い気味に頼む。声が少し高くなる。机を叩いて、身を乗り出す。

「……やだ」

 遥が、きっぱりと拒否する。

「え〜、なんで?」

「恥ずかしいから」

 遥が、顔を背ける。耳まで赤い。眼鏡を外して、レンズを拭き始める。何か、落ち着かないような仕草。

「お願い! 私、百合漫画大好きだから! 絶対感想言うから!」

 美緒が、遥の腕を掴んで懇願する。彼女の目が、真剣になる。いつもの明るさの中に、本気の熱意が宿っている。

 遥が、しばらく迷ってから、小さく頷いた。視線が少し下がる。

「……じゃあ、一作だけ」

 遥が、スマホを取り出して、画面を操作する。指が少し震え、ケースが光を反射する。パスワードを入力して、アプリを開く。ファイルの中から、一つを選ぶ。

 そして、私たちに見せてくれた。

 画面に表示されたのは、短編漫画のタイトルページ。

「ページの向こうの君」

 タイトルの文字が、手書きのフォントで描かれている。背景には、本棚と、窓から差し込む光。

 内向的な少女が、転校生の明るい女の子と出会って、少しずつ心を開いていく物語。

 絵は繊細で、表情の描き方が丁寧。セリフは少ないけど、心情が伝わってくる。線が細く、影の付け方が優しい。背景も、細部まで描き込まれている。本棚の本の背表紙まで、一冊一冊丁寧に描かれている。

 主人公の少女は、いつも図書室にいる。本を読むことで、現実から逃避している。人と関わるのが怖くて、一人でいる方が楽だと思っている。

 そこに、転校生が現れる。明るくて、積極的で、主人公に話しかけてくる。最初は戸惑う主人公だけど、少しずつ心を開いていく。

 二人が、一緒に本を読むシーン。

 一緒に図書室で過ごすシーン。

 少しずつ距離が縮まっていく様子が、繊細に描かれている。

 そして――。

「これ……私たちみたいじゃない?」

 美緒が、目を丸くして言った。声に驚きが混じる。

「え?」

「だって、内向的な子と転校生でしょ? 愛子と私みたい!」

 私も、画面を見つめた。

 確かに、似ている。

 主人公の女の子は、私みたいに本が好きで、人と関わるのが苦手。髪型も、私に似ている。表情も、どこか私を思わせる。

 転校生は、美緒みたいに明るくて、積極的。髪が明るくて、笑顔が輝いている。

 二人が、少しずつ距離を縮めていく様子が、丁寧に描かれている。

 そして、最後のシーン。

 主人公が、転校生への気持ちに気づく瞬間。

 図書室の窓際で、夕日を浴びながら。

「私、あなたのことが……好き」

 その言葉が、吹き出しに描かれている。主人公の顔が、赤く染まっている。

 その言葉が、胸に響いた。心の奥が、ざわつく。なぜだろう。このシーンを見ると、胸が苦しくなる。

「遥、これすごい……」

 私は、素直に感想を言った。声が自然に柔らかくなる。

「本当に、才能あるよ」

 絵も、ストーリーも、すべてが繊細で美しい。プロの漫画家でも、これだけのクオリティを出せる人は少ないんじゃないか。

「……ありがとう」

 遥が、初めて少し笑った。

 その笑顔は、どこか照れくさそうで、でも嬉しそうだった。唇の端が上がり、眼鏡の奥の瞳が輝く。頰が、ほんのり赤い。眼鏡を直す手が、少し震えている。

「遥、これ続き描いてる?」

 美緒が、興奮気味に聞く。

「……少しだけ。でも、時間がなくて」

「もったいない! こんなに才能あるのに!」

 美緒の言葉に、遥の表情が少し曇る。

「……才能だけじゃ、生きていけないから」

 その言葉が、重く響いた。


 それから、私たちは遥ともっと話すようになった。

 遥は、最初は無愛想だったけど、少しずつ心を開いてくれた。彼女の声が、徐々に柔らかくなり、視線が優しくなる。時々、小さく笑うようにもなった。図書室での勉強が、少しずつ楽しくなっていく。

 ある日、休憩中に遥がぽつりと言った。

「……最初、あなたたちのこと、嫉妬してた」

 声が小さく、ノートを指でなぞりながら。遥の指が、ページの端を撫でる。

「え?」

 美緒が、驚いた顔をする。

「美緒の自由さが、羨ましかった。私は、勉強ばっかりで、好きなことできなくて」

 遥が、俯きながら続ける。視線が机に落ちる。眼鏡が、少し曇っている。

「学校では、真面目ぶってないといけない。オタク趣味とか、百合好きとか、隠してる。でも、美緒は自分を隠さない。ギャルで、派手で、堂々としてる」

 遥の声が、少し震える。

「……それが、羨ましかった」

「遥……」

 美緒が、優しい声で呼びかける。

「だから、最初は苛立ってた。でも……」

 遥が、顔を上げる。瞳が少し潤む。光を受けて、キラキラしている。

「でも、美緒も愛子も、優しかった。私の漫画、褒めてくれた。それが、嬉しかった」

 その言葉に、胸が温かくなった。遥の本音が、やっと聞けた気がする。

「誰かに認めてもらえるって、すごく嬉しいことなんだって。初めて、わかった」

 遥の声が、柔らかくなる。

「遥、これからも一緒に勉強しよう。そして、漫画の続きも読ませてね」

 美緒が、笑顔で言う。彼女の声が、明るく響く。

「……うん」

 遥も、小さく頷いた。

 そして、初めて自分から話しかけてきた。

 それは、数日後のことだった。

 いつものように、図書室で勉強していると、遥が小さく咳払いをした。

「あのね……美緒、数学苦手なんだよね」

 遥の声が、いつもより少し高い。緊張しているのが、わかる。

「うん、超苦手」

 美緒が、素直に答える。

「……じゃあ、教えてあげる。その代わり、新作読んで感想言ってね」

 遥の声が、少し震えている。眼鏡を直す手が、いつもより速い。

「やった! ありがとう、遥!」

 美緒が、嬉しそうに飛び跳ねる。机が少し揺れる。周りの生徒が、チラッとこちらを見るけど、もう誰も文句は言わない。

 遥が、照れくさそうに言う。

「……別に、恩返しってわけじゃないから。ただ、あなたが落第したら困るから」

 その言い方に、美緒がにやりと笑う。

「ツンデレ〜!」

 美緒が、からかうように言う。

 遥の顔が、真っ赤になる。頰が熱を帯び、眼鏡を直す手が速い。耳まで、完全に赤い。

「ツ、ツンデレじゃない!」

「でも、照れてるじゃん」

「照れてない!」

 遥が、必死に否定する。でも、その様子が余計に可愛い。

 二人のやりとりを見て、私は笑った。

 遥も、少しずつ変わってきている。

 最初の冷たい態度は、きっと自分を守るためだったんだ。でも、今は違う。仲間ができた。友達ができた。それが、嬉しかった。

 図書室の空気が、少しずつ温かくなっていくのを感じた。夕陽の光が、三人を優しく包み込む。


 テスト前夜。

 私たちは、図書室で最後の追い込みをしていた。

 窓の外は、もう真っ暗。街灯の光が、窓ガラスに反射している。図書室は閉館時間を過ぎているけど、テスト前は特別に夜まで開いている。蛍光灯の白い光が、部屋全体を照らす。

 遥が、美緒に数学を教えている。

「ここは、こう考えるの。物語の展開みたいに、順を追って解いていけば、答えが見えてくる」

 遥の教え方は、独特だった。

 数式を物語に例えて、わかりやすく説明する。例えば、「この変数は主人公。この定数は、主人公を支える仲間」とか。美緒の好きな百合漫画に例えて、「この式は、二人の関係性を表してる」とか。

 美緒が、目を輝かせて聞いている。

「遥の説明、すごくわかりやすい!」

「……そう? なら、よかった」

 遥が、少し嬉しそうに微笑む。照れているのか、眼鏡を何度も直す。

 勉強が終わって、遥が帰る時間になった。

 鞄を肩にかけて、椅子を元の位置に戻す。ノートを綺麗に揃えて、鉛筆をペンケースにしまう。几帳面な動作。

「じゃあ、また明日。テスト、頑張って」

「うん、ありがとう!」

 美緒が、手を振る。

 遥も、小さく手を振って図書室を出て行った。その背中が、最初に見たときよりずっと軽く見えた。

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