第2章 ノートに咲いた小さなハート
翌朝、私はいつもより三十分ほど早く家を出た。
理由は、自分でもはっきりとはわからない。ただ、胸の奥に落ち着かないざわめきがあって、部屋にじっとしていられなかった。朝の空気はまだ肌寒かった。
学校に着くと、昇降口はまだ静かだった。生徒の姿はまばらで、遠くから体育館の方でバスケットボールの跳ねる音が響いてくる。私はいつもの場所で上履きに履き替えながら、ふと後ろから弾んだ声に肩を震わせた。
「あ、愛子! おはよー!」
振り返ると、美緒がこちらに向かって大きく手を振っていた。朝の薄い光の中で、金髪がまるで別物の金属のようにきらめいている。スカートは昨日より明らかに短く、裾が歩くたびにひらりと揺れる。赤いリボンは規定の結び方ではなく、わざと崩したような形になっていて、彼女の首元で小さく跳ねていた。
「お、おはよう……」
「早いね! 私もなんか早く来ちゃった!」
美緒は私の隣に立って、慣れた手つきでローファーを脱ぎ、上履きに足を滑り込ませる。その間も、彼女の甘いシャンプーの香りがふわっと漂ってきた。
「そうなんだ……」
彼女は鞄のチャックを開け、昨日借りた文庫本を取り出すと、ぱたぱたとページをめくって見せた。
「ねえねえ、昨日の本、もう読んじゃった!」
「え? もう?」
「うん! めっちゃ面白かった! 続き、ある?」
私は目を丸くした。あの本は三部作の最初の一冊で、文章もやや重めだったはずだ。一晩で読み終えるなんて、想像もしていなかった。
「……あるよ。図書室に二巻と三巻、両方ある」
「やった! じゃあ今日も放課後、一緒に行こ!」
私は小さく頷くしかなくて、言葉の代わりに唇の端がわずかに上がるのを感じた。
彼女は満足そうに笑って先に歩き出し、私はその後ろ姿を追いかけるように廊下を進んだ。朝の廊下はまだ人気が少なく、靴音が響き合う。美緒は歩きながら、昨日の本の登場人物について熱っぽく語り始めた。
「あのね、主人公の女の子、すごく可愛いよね! でもさ、相手の男の子、ちょっとウザくない?」
「え……そう?」
「だって、自分の気持ち全然はっきり言わないし、女の子困らせてばっかりじゃん」
私は少し考えて、昨日何度も読み返したページを思い浮かべた。確かに、男の子の態度は曖昧で、読んでいてもどかしさが募った部分はあった。
「……まあ、確かに」
美緒の読み方は、まるで刃物のように鋭くて潔い。私が何度も行間をなぞって探っていた微妙な感情を、彼女は一瞬で「ウザい」と斬り捨てる。その率直さが、なぜか痛快で、胸の奥がくすぐったくなった。
「愛子はどう思う?」
「私? うーん……男の子も、不器用なだけだと思うけど」
「へえ。愛子、優しいね」
美緒が振り向いて、にっこりと笑った。
教室に入ると、すでに明美が窓際の席でノートを広げていた。
「おはよー、愛子。あれ、美緒ちゃんも一緒?」
「おはよー! 今日もよろしくね!」
美緒の声は朝の教室に明るく響き、明美も自然に笑顔を返した。二人が楽しそうに本の話を始めるのを、私は少し離れたところから見つめていた。
美緒は明美ともすぐに打ち解けている。
それを見ていると、ほんの少しだけ安心した。
お昼休みのチャイムが鳴ると、教室は一気に賑やかになった。窓から差し込む春の陽光が机の上を白く照らし、誰かが開けた弁当の蓋から漂う卵焼きの甘い匂いが教室に広がる。私はいつものように机に頬杖をついて本を開こうとしたけれど、今日はその気になれなかった。
「愛子ー、ここここ!」
美緒が私の机の横に立って、ぴょんと椅子を引いた。彼女の鞄からはさっきの文庫本の角がのぞいていて、表紙が少し擦り切れているのが見えた。一晩で読了した証拠だろうか。
「数学、教えてくれるって言ったよね?」
「あ、うん……」
私は頷いて、昼食を後回しにノートを広げた。美緒は自分の弁当箱を机に置くと、すぐに数学の教科書を開いて、赤ペンでぐちゃぐちゃに丸がついたページを指差した。
「ここ。ここが全然わかんなくて……」
問題は二次方程式の文章題だった。確かに、条件が複雑に絡み合っていて、初めて見る生徒にはハードルが高い。私は深呼吸して、ゆっくり言葉を選びながら説明を始めた。
「まず、この『合計が』って部分をxとyで表すと……」
美緒は最初、眉を寄せて首を傾げていたけれど、私が式を一つ書き終えるごとに、少しずつ目が輝き始めた。彼女の長いまつ毛が、ノートに落ちる影を揺らす。
「あ……! そっか、そういうことか!」
理解が追いついた瞬間、美緒はぱっと顔を上げて、私の腕を軽く叩いた。その感触が、予想以上に温かくて、私は一瞬言葉を失った。
「愛子、教え方めっちゃ上手! 先生より全然わかりやすいよ!」
「そ、そんな……普通に説明しただけだよ」
「普通じゃないって! 頭いいし、優しいし、最高!」
美緒の声は無邪気で、悪意が一切なかった。それが逆に私の胸を締めつける。中学の頃、数学のテストで良い点を取るたびに聞こえてきたのは「ガリ勉」「キモい」「調子乗ってる」といった言葉ばかりだった。褒められることに慣れていない私は、顔が熱くなるのを抑えきれず、視線をノートに落とした。
「……ありがとう」
小さな声で呟くと、美緒はにこっと笑って、また問題に目を戻した。
しばらく二人で問題を解いていると、美緒がふと手を止めた。彼女は私のノートをじっと見つめていて、指先で小さなハートマークをそっと描き足した。赤ペンで書かれたその小さな図形は、まるで秘密の印のようにそこにあった。
「え……」
「えへへ、記念♪」
美緒は悪戯っぽく笑う。私はそのハートを消すこともできず、ただ見つめるしかなかった。胸の奥が、じんわりと温かくなる。こんな小さな落書き一つで、こんなに心が揺れるなんて、自分でも不思議だった。
「ねえ、愛子」
美緒が少し声を潜めて、私の顔を覗き込む。
「私、愛子みたいな子、初めて会ったかも」
「……え?」
「だってさ、普通、私みたいな見た目の子ってすぐ『チャラい』とか『勉強できないんでしょ』って決めつけられるじゃん。でも愛子は、ちゃんと話聞いてくれるし、本貸してくれるし、こうやって勉強も教えてくれるし……」
彼女の声が、ほんの少しだけ震えた。
「だから、嬉しいんだ」
私は何も言えなかった。
実は私も、最初は美緒の金髪や短いスカートを見て、同じようにレッテルを貼っていた。「派手な子は苦手」「きっと本なんて読まないだろう」と、心のどこかで線を引いていた。
それが、どれだけ浅はかだったか。今なら痛いほどわかる。
「……ごめん」
私がぽつりと言うと、美緒がきょとんとした。
「私も、最初は見た目で判断してた。美緒のこと、ちゃんと見れてなかった。ごめん」
美緒の目が、ゆっくりと丸くなった。そして、次の瞬間、うるっと光った。
「愛子……」
彼女は突然、私の手を両手で包み込んだ。
ひんやりしていた指先が、すぐに私の体温で温まる。心臓が、耳の奥まで響くほど大きく鳴った。
「これから、ずっと仲良くしてね」
「……うん」
私は小さく頷いた。
美緒の手は柔らかくて、少し汗ばんでいて、でもそれがとても心地よかった。
教室の喧騒が遠くに聞こえる。誰かが笑い、誰かが箸を置く音がする。でもこの小さな空間だけは、二人だけの時間だった。
放課後のチャイムが鳴るまで、私たちは手を繋いだまま、数学の問題を解き続けた。
ノートに並んだ式と、赤い小さなハート。
それが、今の私たちの距離を、静かに証明している気がした。
放課後のチャイムが鳴り響くと、教室の空気が一気に緩んだ。生徒たちが鞄をまとめ、友達と笑い合いながら廊下へ流れていく。私は窓際の席で少しだけ身じろぎして、机の上のノートをゆっくり閉じた。赤いハートマークが、まだそこに小さく残っている。
「愛子、図書室行こ!」
美緒が私の机に両手をついて、身を乗り出してきた。金髪が揺れて、午後の陽光を細かく反射する。彼女の笑顔はいつもより少し弾んでいて、まるでこれから何か特別な冒険に出かけるみたいだった。
「うん……行こう」
私は頷いて立ち上がり、二人で教室を出た。廊下は放課後の喧騒で満ちていて、部活に向かう生徒たちの足音や、笑い声が響き合う。でも、私たちの間には不思議な静けさがあって、それが心地よかった。
図書室の扉を開けると、いつもの紙とインクの匂いがふわりと鼻をくすぐった。夕方の光が大きな窓から斜めに差し込み、棚の間に長い影を落としている。山田先生がカウンターで本の整理をしていて、私たちを見つけると柔らかく微笑んだ。
「あら、今日も二人揃って。読書週間、準備の相談ね」
「はい! 楽しみです!」
美緒が元気に答えると、先生は企画書を広げて説明を始めた。テーマは『心に残る一冊』。生徒たちに思い出の本を紹介してもらい、それを展示コーナーでまとめる。ポップ作りも私たちの仕事だ。
私たちは奥のテーブルに座り、早速本のリストを作り始めた。美緒は膝を立ててノートに肘をつき、ペンをくるくる回しながら考える。
「愛子はどんな本が心に残ってる?」
「……『星の王子さま』かな。何度読んでも、毎回違うところが刺さる」
「へえ……読んだことないけど、なんかロマンチックなタイトルだね。私、貸してほしい!」
美緒の目がきらりと光る。私は頷いて、自分の鞄から文庫本を取り出した。表紙は少し色褪せていて、角が丸くなっている。
「これ、今持ってるやつ。貸すよ」
「わー、ありがとう! じゃあ私は……『ハリー・ポッター』シリーズ! 全部読んだけど、特に『不死鳥の騎士団』が好き。辛いことばっかりなのに、最後に希望が見えるところが……」
美緒の声が少し低くなる。彼女は本のページをそっと撫でるように触って、遠くを見るような目をした。私はその横顔を見つめながら、胸の奥がきゅっと締まるのを感じた。
派手な見た目とは裏腹に、美緒の言葉にはいつも本気の熱がこもっている。それが、私をどんどん引き込んでいく。
私たちは本を選びながら、ポップのアイデアも出し合った。美緒は絵を描くのが好きだと言って、ノートにササッとイラストを入れてみせる。ハリー・ポッターの箒に乗った少女が、星空を飛んでいる絵。シンプルだけど、動きがあって可愛かった。
「これ、ポップに使おうよ!」
「うん……いいね。美緒の絵、すごく好き」
私が素直に言うと、美緒はぱっと顔を赤くして、照れ隠しに私の肩を軽く叩いた。
「もう、愛子ってば……褒め上手!」
その瞬間、二人の距離がまた少し縮まった気がした。図書室の静けさの中で、ページをめくる音と、時折響く小さな笑い声だけが響く。夕陽がだんだん赤く変わり、棚の木目が染まっていく。
ふと時計を見ると、もう外は薄暗くなっていた。
「あ、やば! バイト!」
美緒が慌てて立ち上がる。鞄を肩にかけながら、申し訳なさそうに私を見る。
「ごめん、愛子。先に帰るね……」
「ううん、大丈夫。気をつけて行って」
「ありがとう! 明日またね!」
美緒は駆け足で図書室を出て行った。扉が閉まる音が静かに響き、残された私は一人でテーブルに座った。
さっきまで美緒が座っていた椅子が、まだ少し温かい。ノートには彼女の描いた小さな箒と星が残っている。私はそのページをそっと撫でて、胸の奥に温もりを溜め込んだ。
一人になると、図書室の静けさがより深くなる。でも今日は、寂しくなかった。
美緒の残り香のようなものが、まだここにいる気がした。
帰り道、街灯がぽつぽつと灯り始めた通学路を歩きながら、私は今日のことを思い返した。
一緒に数学を解いたこと。
手を繋いだこと。
図書室で笑い合ったこと。
すべてが、柔らかい記憶の欠片のように胸に溜まっていく。
家に着くと、母がキッチンで夕食の支度をしていた。鍋から立ち上る湯気と、煮物の優しい匂い。
「おかえり、愛子。今日はまた遅かったのね」
「うん……図書室で」
「また? 毎日行かなくてもいいんじゃないかしら」
母の声に、少しだけ棘がある。私は鞄を下ろしながら、静かに答えた。
「でも、好きだから……」
母はため息をついて、鍋をかき混ぜる手を止めた。
「そういえば、昨日話してたその派手な子……美緒ちゃんだっけ? まだ一緒にいるの?」
「……うん。一緒に図書室行ってる」
母の眉がわずかに寄る。
「愛子。あの子みたいな子は、トラブルに巻き込まれやすいのよ。中学のときみたいに、また……」
その言葉が、胸に鋭く刺さった。中学の記憶が、一瞬でよみがえる。教室の隅で縮こまっていた自分。誰も信じられなくなった日々。
でも、今は違う。
「美緒は……いい子だよ。本当に。本が好きで、頑張り屋で、私のことちゃんと見てくれる」
私は声を震わせながら言った。母は少しの間黙って、私を見つめていた。
「……そう。ならいいけど。気をつけなさいね」
母はそれ以上追及せず、夕食を盛り始めた。私は自分の部屋に戻り、ベッドに腰を下ろした。
机の上に置いたノートを開くと、美緒のハートと箒のイラストが目に入る。
指でそっと触れると、胸がまたドクドクと鳴り始めた。




