第12章 プリクラの中の3人
九月の木曜日、昼休み。
図書室の窓際の席で美緒と本を読んでいたとき、ドアが開いて遥が入ってきた。
「あ、遥!」
美緒が手を振る。
遥の肩が落ちている。目の下に薄いクマができていた。まぶたが腫れぼったく、髪が顔にかかっている。
いつもなら背筋を伸ばして歩くのに、今日は足音が重い。
「遥……大丈夫?」
私が声をかける。
遥は返事をせず、椅子に
身を沈めた。机に肘をついて、額をつける。
「……煮詰まってる」
声が掠れている。
「漫画?」
美緒が身を乗り出す。
遥は前に、自分が百合漫画を描いていることを話してくれた。ネットで公開している作品を、私たちも読んだ。
「うん」
遥が小さく頷く。長い睫毛が、影を落とす。
「先月、出版社から連絡が来て」
「え!」
美緒の声が跳ねる。
「とうとうデビュー!?」
「担当さんがついた。今、ネーム描いてる」
「すごいじゃん! プロじゃん!」
美緒が興奮して椅子を揺らす。
遥の表情は動かない。
「でも……全然、通らない」
「通らない?」
「ネームを出しても、出しても、『これじゃダメ』って返される。もう五回」
遥が机に額を押しつける。長い黒髪が流れて、顔を覆い隠す。
「『キャラクターに深みがない』『展開が読める』『感情の動きが浅い』。毎回、同じことを言われる」
声が震える。
「楽しかったはずの漫画が、苦しい。ネットで描いてたときは、好きに描けたのに」
「遥……」
「プロは違う。私の『好き』だけじゃ、通用しない」
肩が小刻みに揺れている。図書室の静けさの中で、遥の呼吸だけが聞こえる。窓の外で木の葉が風に揺れ、陽の光が床に落ちて、影が長く伸びている。
美緒が遥の肩に手を置いた。
「どっか遊びに行かない?」
「締め切りが……」
「だからこそだよ。このまま描いても、また『ダメ』って言われるんでしょ?」
美緒の言葉に、遥が顔を上げる。目が充血している。
「一回、リフレッシュしよ。気分転換」
「気分転換……」
美緒の声が図書室に響く。司書の山田先生がちらりとこちらを見て、また本に視線を戻す。
「でも、私……」
「よくわかんないけど、煮詰まったときって、一回離れた方がいいと思うんだよね」
美緒の声が真剣になる。
私も頷く。
「遥、美緒の言う通りかも。少し休んだ方がいい」
遥が唇を噛む。迷っている。
「……じゃあ、お言葉に甘えようかしら」
「決まり!」
美緒が満面の笑みを浮かべる。
「じゃあ、今度の日曜日、原宿行こう」
「原宿?」
「うん。竹下通りとか、めっちゃ楽しいよ。プリクラも撮れるし、可愛いものいっぱいあるし」
遥が小さく笑う。その日、初めて見せる笑顔であった。
「原宿か……行ったことないな」
「マジで!? じゃあ絶対行こう。愛子も一緒だよね?」
「う、うん。私も行く」
私も頷く。
「じゃあ決まり。日曜日、十時に原宿駅集合ね」
美緒が嬉しそうに拳を握る。
遥の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
日曜日。
朝十時。原宿駅の改札前。
私は少し早めに着いていた。白いブラウスに紺色のスカート。鏡の前で何度も確認した。いつもより丁寧にアイロンをかけた服。袖口のボタンを留めて、外して、また留める。
「愛子ー!」
美緒の声がした。
振り返ると、美緒が手を振りながら走ってくる。ピンク色のパーカー、白いショートパンツ。金髪をポニーテールにしている。太陽の光を反射して、髪が揺れるたびにキラキラと光る。
「おはよう」
「おはよう、美緒」
「遥はまだ?」
「うん」
そう言った瞬間、遥が現れた。黒いワンピースにベージュのカーディガン。髪を後ろで一つに結んでいる。木曜日とは違う。目の下のクマが薄くなっている。
「おはよう、二人とも」
「おはよう、遥! 可愛い服」
美緒が駆け寄る。
「ありがとう……美緒も、似合ってる」
「えへへ、ありがと」
三人で竹下通りへ向かう。
人の波。カラフルな看板。EDMの低音が店から漏れてくる。甘い匂い、油の匂い、香水の匂いが混ざり合って、空気が濃密になる。
「うわ、すごい人……」
私が呟く。
「でしょ。これが原宿だよ」
美緒が嬉しそうに笑う。
竹下通りの入口。大きなアーチ型の看板。その前で美緒がスマホを取り出す。
「はい、まず記念撮影」
自撮り棒を伸ばして、三人で並ぶ。
「チーズ」
パシャリ。
画面の中で、三人が笑っている。
「映えるね」
美緒が満足そうに頷く。
「じゃあ、行こう」
人混みの中を歩き始める。
通りの角で、甘い匂いが鼻をくすぐった。
見ると、店頭に巨大なクレープの写真が並んでいる。長い行列ができていて、店員が次々とクレープを包んでいく。生クリームとチョコの香りが風に乗って漂ってくる。
「ねえ、まずクレープ食べよ」
美緒が列に並ぶ。
「遥、愛子、何食べる?」
「私……チョコバナナかな」
遥がメニューを覗き込む。
「私は、いちごミルク。愛子は?」
「え、私も……チョコバナナで」
三人で注文して待つ。前の客が写真を撮っている。フラッシュが光る。また光る。店員が少し困った顔をしている。
十分ほど待って、クレープが出てきた。
生クリームが山盛り。バナナとチョコがたっぷり。紙コップに入れられたクレープが、重い。
「うわ、でかい……」
私が受け取る。片手では持てない。
遥も目を丸くしている。
「でしょ。これが原宿のクレープ」
美緒が嬉しそうに受け取る。
三人でクレープを片手に歩く。
「美味しい……」
遥が呟く。唇にクリームがついている。
その笑顔を見て、私と美緒は顔を見合わせる。
「でしょ。原宿、最高じゃん」
美緒が生クリームを頬につけながら笑う。
「美緒、クリームついてるよ」
私が指摘する。
「え、マジで」
美緒が慌てて指で拭く。でもクリームが広がるだけ。私がティッシュを取り出して、美緒の頬を拭く。柔らかい肌。少し熱い。
「ありがと」
美緒が笑う。
遥がそれを見て、小さく笑っている。木曜日の沈んだ顔が嘘のようであった。
さらに進むと、また香ばしい匂い。
チーズの溶けた匂いに誘われて、美緒が足を止める。店頭で揚げたてのハットグを持った人たちが、チーズを長く伸ばして写真を撮っている。
「これも食べよ」
待っている間、美緒がスマホで写真を撮りまくる。
「はい、愛子と遥、並んで」
言われるがままに並ぶ。
パシャリ。
「可愛い。これ、インスタに上げていい?」
「う、うん……」
私は少し恥ずかしい。遥も照れている。
チーズハットグを受け取って、三人で食べる。チーズが伸びる。美緒がそれを引っ張って写真を撮る。
「これ、絶対映える」
遥も小さく笑っている。
「美緒、楽しそうだね」
「うん。だって楽しいもん」
美緒の明るさが、二人を包む。
通りの奥へ進むと、虹色の綿あめを持った人たちが行き交っている。
店頭にカラフルな綿あめがふわふわと並び、風に揺れて光を反射している。甘い砂糖の匂いが、通り全体に広がっていた。
「可愛い……」
遥が呟く。目が輝いている。
「買おう買おう」
美緒がすぐに店に入る。
三人でそれぞれ違う色の綿あめを買った。美緒はピンク、私は水色、遥は紫。
「はい、また写真」
美緒が綿あめを持って自撮り。三人の綿あめがカラフルに映る。
「可愛い」
美緒が満足そうに頷く。
綿あめを食べながら歩く。甘い。口の中でふわりと溶ける。舌に砂糖の粒が残って、それがゆっくりと溶けていく。
「ねえ、次プリクラ行こう」
美緒が提案する。
「プリクラ?」
遥が戸惑う。
「撮ったことない?」
「……ない」
「マジで。じゃあ絶対撮ろう」
美緒が遥の手を引く。
プリクラの専門店。中に入ると、色とりどりの機械が並んでいる。ネオンが点滅している。BGMが大音量で流れている。若い女の子たちの笑い声。
「どれにする?」
美緒があちこち見回す。
「これがいいんじゃない。盛れるやつ」
美緒が一台を指さす。
「盛れる……?」
私が首を傾げる。
「目が大きくなったり、肌が白くなったりするの」
「へえ……」
三人で機械の中に入る。
狭い。体が触れ合う。美緒の体温が伝わってくる。パーカーの生地越しに、肩の骨の形がわかる。遥の髪が私の頬にかかる。シャンプーの匂いが香った。
「はい、じゃあ撮るよ」
美緒がポーズを決める。私と遥も真似する。
フラッシュが光る。何枚も、何枚も。ピース、変顔、笑顔。気づけば三人とも笑っていた。
「楽しい……」
遥が呟く。
「でしょ」
美緒が嬉しそうに笑う。
撮影が終わって、落書きタイム。画面にさっき撮った写真が並ぶ。
「うわ、めっちゃ盛れてる……」
私が驚く。目が大きくなって、肌がツルツル。これ、本当に私?
「でしょ。プリクラすごいよね」
美緒がペンで落書きを始める。ハート、星、キラキラ。カラフルなデコレーション。
遥も少し慣れてきたのか、笑顔でスタンプを押している。
「楽しい……こんなの、初めて」
遥の言葉。
何回か撮った後、プリクラ屋を出ると、もう午後だった。
「ねえ、最後にコスしよ」
「コス?」
遥が目を丸くする。
「うん。東京Kawaiiスタジオっていうところが原宿にあってさ。可愛い衣装がいっぱいあって、写真撮れるの」
「へえ……」
遥が興味深そうに頷く。
「行ってみたい、かも」
「やった。じゃあ行こう」
三人でスタジオへ向かう。
ビルの三階。扉を開けると、色とりどりの衣装が並んでいた。ロリータ、メイド、アイドル、制服。すべてキラキラしている。レースが光を反射して、ビーズが小さく輝いている。
「わあ……」
私が圧倒される。
「すごい……」
遥も目を輝かせている。
「じゃあ、それぞれ好きなの選ぼう」
美緒が衣装を物色し始める。
私は淡いピンクのロリータドレスを選んだ。美緒は白いメイド服。遥は黒いゴシックロリータ。
三人で更衣室で着替える。鏡の前で、見慣れない自分の姿。レースのついた袖、広がるスカート、リボンのついたヘッドドレス。
「うわ、愛子、めっちゃ似合ってる」
美緒が目を輝かせる。
「そ、そう?」
顔が熱い。
「うん。可愛い」
遥もゴシックロリータが似合っている。いつもの落ち着いた雰囲気が、より際立つ。黒いドレスが彼女の白い肌を際立たせている。
「遥も、すごく似合ってる」
「ありがとう……」
遥が少し照れる。
スタジオのセットで写真を撮る。カメラマンがポーズを指示してくれる。
「はい、三人で手を繋いで」
「もっと笑顔で」
「そう、いいですね」
何枚も、何枚も。気づけば三人とも笑っていた。遥の笑顔、美緒の笑顔、私の笑顔。シャッター音が心地よく響く。
「いいですね。最高です」
カメラマンが嬉しそうに言う。
撮影が終わって更衣室に戻る。
「楽しかったね」
美緒が満足そうに言う。
「うん……本当に、楽しかった」
遥が静かに微笑む。その笑顔が朝とは全然違っていた。
夕方。
原宿駅で三人で別れる。
「今日、すごく楽しかった」
遥が静かに微笑む。
「でしょ。気分転換になった?」
美緒が嬉しそうに聞く。
「うん……なった。すごく」
遥が私たちを見る。
「二人とも、ありがとう」
「ううん、こちらこそ」
美緒が笑う。
「愛子、美緒」
遥が真剣な顔で言う。
「今日、気づいたことがある」
「え?」
「私、頭でっかちになってた」
遥の言葉に、私たちは黙って聞く。
「漫画を描くことばかり考えて、生きた体験をしてなかった」
遥が空を見上げる。夕暮れの空がオレンジ色に染まっている。電線に鳩が止まっている。駅のアナウンスが遠くで聞こえる。
「でも、今日、二人と一緒に遊んで、笑って、楽しんで」
遥が私たちを見る。
「この気持ち、この体験。これが漫画に必要なものなんだって、わかった」
遥の目が輝いている。
「キャラクターに深みがないって言われたのは、私自身に深みがなかったからかもしれない」
「遥……」
「生きた体験。生の感情。それを漫画に込めないと、読者には届かない」
遥が小さく笑う。
「今日、教えてくれて、ありがとう。生きた体験をさせてくれて、ありがとう」
「ううん、私たちこそ、楽しかったよ」
美緒が遥の肩を抱く。
「また遊ぼうね」
「うん、ぜひ」
三人で笑い合った。
それぞれの電車に乗る。
「じゃあ、また学校でね」
「うん、また」
手を振り合って別れた。
その夜。
遥は自分の部屋で机に向かっていた。スケッチブックを開く。ペンを手に取る。
今日の記憶が蘇る。美緒の笑顔、愛子の照れた顔、三人で笑い合った時間。プリクラの中の狭い空間、触れ合った体温、クレープの甘さ、竹下通りの喧騒。
すべてが生きた体験であった。
遥はペンを走らせ始めた。
主人公が友達と遊ぶシーン。笑い合うシーン。触れ合うシーン。今日の体験がそのまま漫画に流れ込んでいく。キャラクターが生き生きと動き出す。感情が溢れ出す。
ペンを持つ手が止まらない。夜が更けていく。遥は描き続けた。部屋の明かりだけが彼女を照らしている。
机の上には今日撮ったプリクラが並んでいる。三人の笑顔。それを見るたびに、ペンが走る。
朝まで、遥は描き続けた。




