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第11章 9月のはじまり

九月一日。  二学期が始まった朝、私は目覚まし時計が鳴る少し前に、ふと目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝陽が、部屋の壁を淡いオレンジ色に染めている。夏休みの余韻がまだ体に残っていて、ベッドから起き上がるのが少し億劫だった。窓を開けると、夏の終わりを告げる涼しい風が部屋に入り込み、カーテンを揺らす。遠くから聞こえる蝉の声が、弱々しく、響いていた。日常が戻ってくる——学校、友達、授業。心のどこかで安堵しつつ、夏の自由な日々が恋しくもなる。鏡の前に立ち、制服に袖を通す。紺色のスカートと白いブラウスが、体に馴染む感触。顔を覗き込むと、頰が少し日焼けしていて、夏祭りの記憶が鮮やかによみがえる。彼女の笑顔、指先が触れ合った瞬間、すべてが甘い余熱のように心を包む。夏は終わったのに、この想いだけは、まだ熱く残っている。


朝食を済ませ、家を出る。玄関のドアを閉めると、外の空気が肌を撫でた。空は高く澄み渡り、薄い雲が白い糸のように浮かんでいる。夏の残暑と秋の気配が混ざり合った空気は、微かに湿り気を帯び、木々の葉がわずかに色づき始めていた。通学路を歩く学生たちの姿が目に入る。みんな、少し日焼けした顔で、夏の冒険を物語るように活気がある。笑い声が飛び交い、誰かが「夏休み、何した?」と問いかける声が聞こえる。私は足を速め、駅に向かった。心の中で、美緒の顔を思い浮かべる。あの明るい笑顔に会えると思うだけで、歩みが軽くなる。


駅に着くと、美緒がホームのベンチに座って待っていた。彼女の姿を見つけると、自然と笑みがこぼれる。

「愛子ー!」

美緒が立ち上がり、手を大きく振る。

「おはよう、美緒。」

私は近づき、挨拶した。

「美緒、また焼けたね」

「うん! 夏祭りの後も、ずっとバイトでさ。気づいたら、真っ黒になっちゃった」

美緒が自分の腕を差し出して見せる。確かに、肌が健康的な小麦色に焼けていて、彼女の活発さを象徴している。

似合ってる——そう思って、口に出す。

「似合ってるよ。」

「ほんと? ありがとう!」

美緒の頰が少し赤らむ。その表情が、可愛らしくて、目が離せない。二人で電車に乗り込む。車内は通学する学生で混み合い、私たちは吊り革に掴まって立った。電車の揺れに合わせて体が軽く触れ合い、心がざわつく。

「愛子、夏休みどうだった?」

「うん……まあ、普通かな。美緒は?」

「バイトばっかり。でも、楽しかったよ。お客さんと話すの、好きだし。」  

その明るさが、私の心を照らすようだった。彼女の言葉一つ一つが、夏の思い出を共有するように温かく、電車の単調な揺れさえ心地よく感じた。


学校に着き、下駄箱で靴を履き替える。廊下を歩くと、同じクラスの生徒たちの声が賑やかだ。久しぶりの再会を喜ぶ笑い声が、あちこちから聞こえてくる。教室に入ると、明美が窓際の席から手を振っていた。

「愛子! 美緒ちゃん! おはよう!」  

明美の声はいつも通り明るいが、どこか張りつめた感じがする。夏休み中、何かあったのだろうか。

席に着き、ホームルームが始まる。担任の田中先生が、二学期の予定を淡々と説明する。体育祭、試験の日程——日常の歯車が、再び回り始める音がする。

授業前の休み時間、明美が私の席に近づいてきた。

「ねえ、愛子。今日の放課後、時間ある?」

彼女の声は少し弾んでいるが、目が笑っていない。いつもより、声のトーンが高い。

「え? うん、大丈夫だけど。」

「よかった。ちょっと、恋バナしたいの。」

恋バナ? 明美の言葉に、心がざわつく。彼女の表情は明るいが、どこか無理をしている。いつもなら、美緒も誘うのに、今日は「二人で」と指定してきた。

「恋バナ?」

「うん。カフェ行こうよ。二人で。」  

その「二人で」というのが引っかかった。美緒を除外する理由は何だろう。胸に小さな不安が芽生える。

「わかった。じゃあ、放課後ね。」

「ありがとう!」  

明美が私の肩をぽんと叩き、席に戻る。その後ろ姿は、いつもより肩が落ちているように見えた。授業が始まる中、私はそのことが頭から離れなかった。


放課後、明美と一緒に駅前のカフェに向かった。美緒には「今日は明美と用事があるから」と伝えた。美緒は「そっか、じゃあまた明日ね」と笑顔で言ってくれたが、目元に少しの寂しさが浮かんでいた気がする。心が少し痛むが、明美のことが気になって仕方ない。

カフェに入ると、冷房の空気が冷たく感じた。窓際の席に座り、アイスコーヒーを注文する。ガラスの向こうに、夕方の街並みが広がり、行き交う人々が忙しげだ。

「愛子、聞いて聞いて!」

明美が目を輝かせて話し始めた。その表情は、興奮で満ちていて、どこか必死さを感じる。

「実はね、好きな人できたの!」  

その言葉に、私は驚いて目を丸くした。

「え、本当に?」

「うん! 夏休み中にね、バイト先で出会ったの。」

明美の顔がぱっと明るくなる。頰が赤らみ、瞳が輝く——まさに恋する乙女の顔だ。

「どんな人?」

「名前は健太郎。二十二歳で、大学四年生。すっごくカッコよくて、優しくて、大人で。」  

明美が惚気るように語る。その声は甘く、幸せに満ちている。

「なれそめは?」

「バイト先のカフェに、よく来るお客さんだったの。最初は普通に接客してたんだけど、ある日、話しかけてくれて。」

明美が目を細め、その時の記憶を追うようにする。彼女の指が、テーブルで軽くドラムを叩く。

「『いつも笑顔が素敵ですね』って言われて、ドキッとしちゃった。」

「それで?」

「それから、よく話すようになって。LINEも交換して。デートもしたんだよ。」

明美の声が弾む。

「デート、どこ行ったの?」

「映画とか、ご飯とか。あ、でもね。」  

明美が少し声のトーンを落とす。表情に影が差す。

「健太郎、実家が厳しくてお金ないらしくて。だから、デートはいつも割り勘。というか、私が多めに出すこと多いかも。」

その言葉に、私は胸がざわついた。おかしい——直感がそう告げる。

「それって……大丈夫なの?」

「大丈夫だよ! 健太郎、ちゃんと『ごめんね、今度奢るから』って言ってくれるし。」

「でも……」

「愛子、心配性だなあ。」  

明美が笑うが、その笑顔は少し歪んでいる。無理をしているのがわかる。

「健太郎は、ちゃんといい人だよ。優しいし、大人だし」

明美が、自分に言い聞かせるように続ける。

「ちょっとお金に困ってるだけで……実家が厳しいって言ってたし……」

言葉が、少しずつトーンダウンしていく。まるで、自分でも疑問を感じているのに、それを認めたくないかのように。

「明美……他にも、何かあるんじゃない?」

優しく、聞く。

明美の笑顔が、崩れる。

「……わかる?」

「うん。明美の顔、見ればわかるよ」

明美が、小さくため息をつく。

「実はね……この前、ちょっとお金貸してって言われて」

「え?」  

私の声が大きくなり、周囲の視線を感じる。 「どれくらい?」

「最初は一万円。それから、また三万円。あ、先週も五万円。」

「明美……それって……」  

言葉が詰まる。心配が、確信に変わる。その人は、明美を利用しているんじゃないか。

「大丈夫だよ。健太郎、ちゃんと返すって言ってくれてるから。」  

明美の声が防衛的になる。彼女の瞳に、動揺が浮かぶ。

「でも、明美。それって、おかしくない?」

「おかしくないよ。恋人同士なんだから、助け合うの当然でしょ?」  

その言葉に、私は何も言えなくなった。明美は本当に幸せそうで、その幸せを壊したくない。胸が痛む。

「そっか……」  

私は曖昧に頷く。明美がまた笑顔になるが、それは仮面のように見えた。 「愛子も、好きな人できたら教えてね!」  

その言葉に、美緒の顔が脳裏に浮かび、胸がチクリとした。


それから、数日が経った。

学校での明美の様子は、明らかに変わっていた。いつもの明るさが影を潜め、代わりに疲労感が増していった。頰に薄く塗られたファンデーションの下で、赤みが透けて見える——きっと、昨夜も泣いていたのだろう。授業中、彼女は窓の外をぼんやりと見つめ続け、黒板の文字も先生の声も届いていないようだった。クラスメイトの視線が集まるたび、明美は小さく肩をすくめて俯く。その姿を見るたびに、私の胸がざわついた。休み時間、私はそっと彼女の席に近づいた。

「明美、大丈夫?」

明美は一瞬、びくりと肩を震わせてから、私の方を向いた。

「え? うん、大丈夫。」

無理に作った笑顔が、すぐに崩れる。唇の端が引きつり、声はかすかに震えていた。いつもなら、すぐに冗談を返してくるのに、今日はそれすら出ない。

「何かあった?」

「ううん、何もないよ。ちょっと寝不足なだけ。」

嘘だった。明美の瞳が、わずかに逸らされる。彼女がこんな風に目を逸らすのは、初めて見た気がした。でも、私はそれ以上踏み込めなかった。無理に聞き出そうとすれば、彼女はもっと心を閉ざしてしまうかもしれない——そんな予感がした。


放課後、私は美緒と一緒に帰る約束をしていたのに、結局、明美のことが頭から離れず、美緒にLINEで伝えた。

「ごめん、今日も明美と用事があるから。」

すぐに既読がつき、返事が来た。

「そっか……明美ちゃん、大丈夫? なんか元気なさそうだったけど。」

美緒も気づいていた。彼女の言葉に、胸が温かくなる。ちゃんと周りを見ている美緒の優しさが、ありがたくてたまらない。

「うん……ちょっと、話聞いてくる。」

「そっか。愛子、優しいね♡」

最後に添えられた小さなハートマークが、画面越しに彼女の微笑みを伝えてくるようだった。その笑顔を想像するだけで、少しだけ心が軽くなる。

ほとんどの生徒が帰ってしまい、静まり返った教室に、明美が一人で残っていた。窓際の席に座り、夕陽が彼女の横顔を赤く染めている。

「明美。」

声をかけると、明美はゆっくりと振り返った。

「愛子……」

その声は、ひどく弱々しかった。まるで、言葉を出すこと自体が苦痛であるかのようであった。

「帰ろう。」

「うん……」

私たちは並んで教室を出た。廊下を抜け、階段を下り、校門をくぐる。風が、私たちの足元を掠めていく。空はもう薄紫に色づき始めていて、遠くの校舎の窓に、オレンジ色の光が反射していた。

突然、明美が足を止めた。

「愛子、今から時間ある?」

私はすぐに頷いた。

「うん、大丈夫。」

明美の瞳が、わずかに揺れる。唇が震え、言葉を押し出すようにして、彼女は続けた。

「じゃあ……カフェ、行ってもいい?」

声が、かすかに震えていた。目尻に、涙が溜まりそうになっているのがわかる。彼女は必死にそれを堪えているようだった。

私は、迷わず答えた。

「もちろん。」

その一言で、明美の肩から力が抜けたように見えた。彼女は小さく息を吐き、初めてほんの少しだけ、安心したような表情を浮かべた。

私たちは並んで歩き始めた。夕暮れの街路樹が、長い影を落としていた。


カフェに着き、いつもの窓際の席に腰を下ろした。明美は何も注文せず、ただテーブルに両肘をついて俯いたまま動かない。長い髪が顔を覆い、彼女の表情を隠してしまう。店内の空気が、急に重く淀んだように感じた。

「明美……」

そっと声をかけると、明美はゆっくりと顔を上げた。目が真っ赤に腫れていて、涙で縁取られた瞳が揺れている。まつ毛に溜まった涙が、瞬きするたびにこぼれ落ちそうになる。

「愛子……」

声が震え、掠れている。喉の奥から絞り出すような、弱々しい響きだった。

「健太郎に……振られた。というか、騙されてた。」

その一言で、私の心臓が一瞬、止まったような気がした。息が詰まる。

「え……」

明美の唇が震え、言葉を続ける。

「健太郎……既婚者だったの。」

目から大粒の涙が溢れ、頰を伝ってテーブルにぽたりと落ちた。

「それで、私から借りたお金……合計十五万円……返してくれないまま、連絡が取れなくなった。」

言葉が途切れ途切れにこぼれ落ちる。明美の肩が小刻みに震え、指先がテーブルの縁を強く握りしめているのが見えた。

「昨日、健太郎のスマホに電話があって。画面に『奥さん』って出てて……」

明美は両手で顔を覆った。指の隙間から、くぐもった嗚咽が漏れる。

「それで、問い詰めたら……『ごめん、実は結婚してる』って。」

肩の震えが激しくなる。彼女の体全体が、まるで冷たい風にさらされたように縮こまっている。

「お金のことも聞いたら、『返せない。ごめん』って……それだけ言って、連絡が途切れた。」

声が嗚咽に変わり、言葉にならない泣き声が混じる。カフェの他の客が、ちらりとこちらに視線を向ける。でも、今はそんなこと、どうでもよかった。

「私……バカだよね……なんで気づかなかったんだろう……」

カフェに着き、いつもの窓際の席に腰を下ろした。外はもう夕暮れが迫っていて、街灯がぽつぽつと灯り始め、ガラス越しに柔らかな橙色の光が店内に差し込んでいる。明美は何も注文せず、ただテーブルに両肘をついて俯いたまま動かない。長い髪が顔を覆い、彼女の表情を隠してしまう。店内の空気が、急に重く淀んだように感じた。BGMのピアノの音色が、遠くで静かに流れているのに、耳にはほとんど届かない。

「明美……」

そっと声をかけると、明美はゆっくりと顔を上げた。目が真っ赤に腫れていて、涙で縁取られた瞳が揺れている。まつ毛に溜まった涙が、瞬きするたびにこぼれ落ちそうになる。

「愛子……」

声が震え、掠れている。喉の奥から絞り出すような、弱々しい響きだった。

「健太郎に……振られた。というか、騙されてた。」

その一言で、私の心臓が一瞬、止まったような気がした。息が詰まる。

「え……」

明美の唇が震え、言葉を続ける。

「健太郎……既婚者だったの。」

目から大粒の涙が溢れ、頰を伝ってテーブルにぽたりと落ちた。透明な雫が、木目のテーブルに小さな染みを作る。

「それで、私から借りたお金……合計十五万円……返してくれないまま、連絡が取れなくなった。」

言葉が途切れ途切れにこぼれ落ちる。明美の肩が小刻みに震え、指先がテーブルの縁を強く握りしめているのが見えた。

「昨日、健太郎のスマホに電話があって。画面に『奥さん』って出てて……」

明美は両手で顔を覆った。指の隙間から、くぐもった嗚咽が漏れる。

「それで、問い詰めたら……『ごめん、実は結婚してる』って。」

肩の震えが激しくなる。彼女の体全体が、まるで冷たい風にさらされたように縮こまっている。

「お金のことも聞いたら、『返せない。ごめん』って……それだけ言って、連絡が途切れた。」

声が嗚咽に変わり、言葉にならない泣き声が混じる。カフェの他の客が、ちらりとこちらに視線を向ける。でも、今はそんなこと、どうでもよかった。

「私……バカだよね……なんで気づかなかったんだろう……」

自分を責める声が、鋭く胸を刺す。明美の瞳は、自分自身を許せないという色で濁っていた。私は何も言えずに、ただ彼女の冷たい手をそっと握った。指先が氷のように冷えていて、心が痛んだ。

「明美。」

「うん……」

「明美は、悪くない。」

その言葉に、明美がゆっくりと顔を上げた。涙で濡れた瞳が、私をまっすぐに見つめる。

「悪いのは、あの男だよ。健太郎が、100%悪い。」

「でも……私、すぐ人を信じちゃって……」

「それは、明美の優しさだよ。悪いことじゃない。」

「でも……」

「明美。」

私は彼女の手を、もっと強く握った。少しずつ、彼女の指に温もりが戻ってくるのを感じる。

「明美は、何も悪くない。騙した方が、悪いんだよ。」

その言葉が届いた瞬間、明美の目からまた涙が溢れた。でも、今度の涙は、先ほどまでとは少し違っていた。自分を責めるだけの涙ではなく、誰かに受け止めてもらえた安堵が混じった、柔らかい涙のように見えた。

「愛子……ありがとう……」

明美が席を立ち、私の方へよろよろと近づいてきた。そして、勢いよく抱きついてくる。彼女の体温、震え、濡れた頰の感触、すべてが一気に伝わってきた。シャツの肩が、彼女の涙でじんわりと湿る。

「ありがとう……愛子がいてくれて……本当に良かった……」

声を上げて泣く明美の背中を、私はそっと撫で続けた。細い肩が、泣くたびに波打つ。カフェのBGMが、遠くで優しく流れている。


どれくらい時間が経っただろう。

明美の泣き声が、徐々に小さくなっていく。肩の震えが収まり、彼女はゆっくりと顔を上げた。目はまだ真っ赤に腫れ、頰には涙の跡が乾き始めている。それでも、先ほどまでの激しい感情の波は、少し引いていた。

「ごめんね、愛子。こんな……みっともない姿で。」

明美の声は、まだ掠れている。でも、言葉の端に、恥ずかしさが混じっていた。

「ううん、いいよ。いつでも、泣いていいから。」

私は静かにそう言って、微笑んだ。明美が、ふっと小さく笑う。涙で濡れた唇が、わずかに弧を描く。

「愛子、優しいね。」

「明美も、優しいよ。」

ティッシュを一枚抜いて渡す。明美はそれを受け取り、ゆっくりと頰を拭った。

「恥ずかしい……こんな姿、見せちゃって。」

「全然。友達でしょ。」

その一言に、明美の目がまた潤む。唇を噛んで、涙を堪えようとするけれど、結局、こぼれてしまう。

「ありがとう……」

しばらく、二人とも言葉を失った。カフェの外から、車の走る音や、通りを歩く人々の話し声が、静かなBGMのように聞こえてくる。店内の照明が、柔らかく私たちを包み、時間がゆっくりと流れていることを教えてくれる。

「ねえ、愛子。」

明美が、ぽつりと口を開いた。

「うん?」

「愛子は……好きな人、いる?」

その質問が、突然胸に突き刺さった。心臓が、大きく跳ねる。脳裏に、美緒の笑顔が鮮やかに浮かぶ。

「え……」

言葉が出てこない。頰が熱くなるのを感じた。

「いるでしょ? わかるよ。」

明美が、少しだけ微笑む。腫れた目元が、優しく細くなる。

「最近、愛子、すごく幸せそうだもん。目が、キラキラしてる。」

「そう……かな。」

私は曖昧に答える。声が、かすかに震えていた。

「うん、無理に言わなくていいよ。」

「ごめん……」

「ううん、いいの。」

明美が、私の手をそっと握った。さっきまで冷たかった指が、今は温かい。彼女の掌から、静かな力が伝わってくる。

「でも、愛子。」

声が、真剣になる。瞳が、私をまっすぐ捉える。

「私みたいに、後悔しないで。」

その言葉が、胸の奥深くに刺さった。息が、止まる。

「ちゃんと相手を見て。ちゃんと、気持ちを伝えて。」

「明美……」

「愛子の好きな人は、きっといい人だと思う。だって、愛子が選んだ人だもん。愛子が、そんなに大切に想う人なんだから。」

明美の言葉が、心を溶かしていく。温かな波が、胸いっぱいに広がる。

「だから、逃さないで。タイミングを逃したら、後悔するよ。私みたいに。」

その瞬間、涙が溢れた。私も、泣いていた。頰を伝う熱い雫が、止まらない。

「ありがとう、明美。」

「どういたしまして。」

二人で、泣きながら笑った。涙が混ざり合い、頰を濡らした。


家に帰り、部屋に入る。ベッドに腰を下ろし、スマホを手に取る。画面に、美緒からのメッセージが届いていた。

「愛子、明日こそ一緒に帰ろうね♡」

ハートマークが、画面越しに優しく光る。胸が、温かくなる。

私はすぐに返信を打った。

「うん。楽しみにしてる。」

送信ボタンを押した後、ベッドに仰向けに倒れ込む。天井を見上げると、窓の外から秋の虫の声が聞こえてくる。弱々しく、けれど確かに鳴いている。

夏が終わり、季節が変わっていく。

そして、私の心も、少しずつ、確実に変わり始めていた。

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