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第10章 カランコロン

八月最後の週末。待ちに待った地元の夏祭りの日がやってきた。空はまだ青みが残る夕暮れ時で、遠くの山々が柔らかなオレンジに染まり始めていた。家の中の照明の下で、私は鏡の前に立っていた。母が選んでくれた淡い水色の浴衣は、白い花の模様が散らばり、まるで夏の川面を思わせる涼やかさがあった。深みのある青の帯を、母の慣れた手が後ろで丁寧に結んでくれる。

「はい、できたわ。可愛いわよ、愛子」

母の声は、いつものように優しく、穏やかな温かさを帯びていた。鏡に映る自分は、普段の制服姿とはまるで別人のようであった。髪を母が丁寧に結い上げてくれたおかげで、首筋がすっきりし、少し大人びて見える。頰が自然と緩むのを感じながら、私は感謝の言葉を口にした。

「ありがとう、お母さん」

「美緒さんと、楽しんできてね」

母の微笑みは、柔らかく、心からのものだった。先日の出来事以来、母の態度は変わっていた。あの頃の葛藤が嘘のように、今では美緒の存在を認めてくれ、むしろ私たちの関係を温かく見守ってくれている。その変化が、私の胸に静かな喜びを広げた。

「うん。行ってくる。」

下駄を履くと、カラン、コロンという軽やかな音が響き、足元に不思議なリズムを生んだ。慣れない履き心地に、歩くたび体が少し揺れるが、それさえも夏の風情を感じさせる。西の空は橙色に染まり、浮かぶ雲は淡いピンクに輝き、優しい風が頰を撫でた。浴衣の袖がふわりと舞い、心地よい涼しさが肌を包む。住宅街の静かな道を歩く中、周囲の家々の窓から漏れる明かりが、夕方の穏やかな雰囲気を強調していた。


駅へ向かう道中、心臓が少し速く鼓動を打つのを感じた。美緒との待ち合わせ。駅前はすでに人々がちらほらと集まり始め、祭りへ向かう浴衣姿の家族やカップルが、楽しげな会話を交わしていた。改札の前に立ち、周囲を見渡すと、すぐに美緒の姿が目に入った。


息を呑むような美しさだった。美緒が浴衣を着ている。ピンク色の生地に大きな花柄が華やかに咲き乱れ、帯は純白で可愛らしいリボンのように結ばれている。髪を高く結い上げ、うなじの白さが際立ち、赤い花の髪飾りがアクセントを加えていた。いつもの活発な美緒とは違う、優雅で可憐な姿。でも、間違いなく美緒だ。その存在感に、心が震えた。

美緒が私に気づき、目を輝かせて手を振った。

「愛子ー!」

下駄を履いているのに、軽やかに駆け寄ってくる姿に、思わず微笑みがこぼれた。近くで見ると、その美しさがさらに際立つ。ほんのりとした化粧が、唇を淡いピンクに染め、頰を優しく赤らめていた。自然な輝きが、彼女の魅力を引き立てる。

「愛子、可愛い! その浴衣、すごく似合ってる!」

美緒の声は弾け、目が喜びに満ちていた。私の心は温かくなり、正直な言葉が自然と口から出た。

「美緒も……すごく、綺麗。」

「ほんと? ありがとう!」

美緒の笑顔が、満開の花のように広がった。その瞬間、胸の奥で何かが溶けていくような感覚がした。二人で並んで歩き始め、駅から祭り会場までの道のりを進む。商店街を抜けていく間、周囲はすでに祭りへ向かう人々で賑わっていた。浴衣や甚平姿の家族連れ、子供たちの無邪気な笑い声が響き、夕方の空気に活気を加えていた。空は徐々に暗さを増し、街灯が優しく道を照らす。

「楽しみだね!」

美緒の声は明るく、弾むように響いた。私の心も同じく高鳴り、ただ頷くだけで精一杯だった。

「うん。」

美緒と二人で夏祭りに行く。それだけで、世界が輝いて見える。商店街を抜けると、祭り会場が視界に広がった。無数の提灯がずらりと並び、赤、黄色、白の灯りが夕暮れの空に温かな光を投げかけていた。屋台の列が続き、人々が溢れ、焼きそばの香ばしい煙、たこ焼きの甘辛い匂い、りんご飴の甘酸っぱい香りが混ざり合い、鼻をくすぐる。遠くから聞こえる祭り囃子の太鼓と笛の音が、空気を震わせ、心をワクワクさせた。

「わあ……すごい!」

美緒の感嘆の声に、私も目を見張った。

「本当だね。」

人混みの中へ踏み込むと、熱気と興奮が体を包んだ。屋台を一つずつ見て回る中、焼きそばの鉄板でジュージューと音を立てる様子、たこ焼きの丸い形が転がる光景、かき氷の色鮮やかなシロップが、どれも魅力的だった。私の心は、美緒の存在でさらに彩りを増す。

「ねえ、まず何食べる?」

美緒が、私の目を覗き込んで聞いた。その視線に、ドキッとする。

「うーん……りんご飴とか?」

「いいね! じゃあ、それ買おう!」

りんご飴の屋台へ向かい、真っ赤な飴に包まれたりんごがつやつやと光る様子に、食欲がそそられた。

「二つください。」

美緒が財布を出し、笑顔で言う。

「私も出すよ。」

「いいよいいよ、今日は私が奢る!」

その言葉に、押し切られる。美緒の笑顔が、優しくて、拒めない。

「でも……」

「いいから! 愛子と一緒だから、楽しいんだもん。」

その一言が、胸の奥を温かく溶かした。りんご飴を受け取り、二人で歩きながらかじる。パリッとした音が響き、甘い飴と酸っぱいりんごの対比が、口いっぱいに広がる。

「じゃあ、食べよっか。」

美緒が先に一口かじり、目を細めて喜ぶ。

「美味しい!」

その無邪気な笑顔に、私も真似してかじる。

「本当だ、美味しい。」

「でしょ?」

二人で顔を見合わせて笑い合う。その瞬間、祭りの喧騒が遠く感じ、ただ美緒との時間が永遠に続けばいいと思った。

次は金魚すくいへ。水槽に赤い金魚が優雅に泳ぎ、ポイの薄い紙が水面に映る光景が、懐かしい夏の記憶を呼び起こす。

「愛子、やってみる?」

「うん、やってみたい。」

ポイを買って挑戦するが、金魚の素早さに翻弄される。

「あ、逃げた!」

美緒の笑い声が響く。何度か試して、ようやく一匹すくえた。

「やった! 愛子、すごい!」

美緒の拍手に、心が弾む。

「美緒も、やってみて。」

「うーん、難しそう……」

美緒が挑戦するが、ポイがすぐに破れてしまう。

「あー、ダメだった!」

悔しそうな笑顔が、可愛らしくて、胸がキュンとする。金魚を袋に入れてもらい、次の屋台へ。輪投げの輪が飛ぶ音、綿あめの甘い匂いが、次々と刺激を与える。一つ一つの体験が、美緒と共有する喜びを増幅させた。笑いが自然に溢れ、時間はあっという間に過ぎていく。そんな幸せな時間が、永遠に続けばいいのに――そう思っていた矢先だった。


小さな泣き声が、耳に届いた。混雑する人々の合間から、かすかな嗚咽が聞こえる。

「ん?」

美緒が足を止め、周囲を見回す。私も耳を澄ますと、確かに誰かが泣いている。屋台の陰に、五歳くらいの女の子が一人で座り込み、肩を震わせていた。ピンク色の浴衣に黄色い帯、髪に花の飾りが可愛らしいのに、顔は涙でぐしゃぐしゃだ。ママを呼ぶ小さな声が、心を締めつけた。

「ママ…ママ…」

美緒が即座に駆け寄り、膝をついて目線を合わせた。その素早い行動に、美緒の優しさが溢れていた。

「どうしたの?」

声は穏やかで、柔らかく、女の子を安心させるものだった。女の子が大きな目で美緒を見上げ、涙に濡れた睫毛が震える。

「ママが…いないの…」

その言葉に、また涙が溢れ出す。美緒の表情が優しくなり、頭をそっと撫でた。

「大丈夫だよ。お姉ちゃんたちが、ママ探してあげるから。」

女の子が小さく頷く。私も近づき、優しく声をかけた。

「名前、教えてくれる?」

「…ゆい。」

小さな声が、か細く響く。

「ゆいちゃんね。何歳?」

「ご、ごさい…」

指を五本広げて見せ、その仕草が愛らしい。

「五歳なんだね。えらいね。」

美緒の笑顔が、ゆいちゃんの緊張を少し和らげたようであった。

「愛子、警備員さん探してきて。私、ここでゆいちゃんと待ってる」

美緒の指示に、頷いて行動する。美緒の頼もしさに、心が安堵した。

「わかった。」

人混みを掻き分けるたび、周囲の喧騒が耳を塞ぐように響いた。下駄の鼻緒が踵に食い込み、脱げそうになるのを必死で無視した。息が上がる。心臓が胸を叩くように激しく鳴り、額に汗が浮かぶ。ようやく祭りの本部らしきテントが見えた。青い制服の警備員が数人立っているのが、ぼんやりとした視界に映った。

私は駆け寄り、息を切らしながら声を張った。

「すみません! 迷子の子がいるんです! 五歳くらいの女の子で、ピンクの浴衣を着てて……」

言葉が乱れ、説明が飛び飛びになる。警備員の一人が無線を耳に当て、すぐに頷いた。

「わかりました。場所はどこですか? すぐにいきますから」

彼の落ち着いた声に、少しだけ安堵が広がる。迷子を預かった美緒の顔が脳裏に浮かび、急ぎ足で引き返す。

射的の屋台の所で美緒とゆいちゃんの姿が目に入った。美緒はしゃがみ込み、ゆいちゃんの小さな手を握りしめ、景品棚を指さしていた。色とりどりのぬいぐるみが並ぶ棚は、赤や青のライトでキラキラと輝き、祭りの魔法のような雰囲気を醸し出している。

「ほら、ゆいちゃん。あそこのうさぎさん、ふわふわで可愛いよ。耳がピョンピョンしてるみたいでしょ?」

美緒の声は優しく、ゆいちゃんの涙を拭うような温かさがあった。ゆいちゃんの目が、さっきの不安を忘れたように輝き始める。

「うさぎさん、欲しい! ゆいが持って帰りたい……」

小さな声が、期待に満ちて弾む。

「じゃあ、お姉ちゃんが取ってあげるね。きっと当たるよ、一緒に頑張ろう」

美緒の言葉に、ゆいちゃんがこくりと頷く。その小さな仕草に、私の胸がじんわりと温かくなる。

私が近づくと、ゆいちゃんがぱっと顔を上げ、目を輝かせた。

「あ、もう一人のお姉ちゃんも来た! 早く早く、一緒に遊ぼう!」

その無邪気な喜びに、心の緊張が和らいだ。美緒が振り返り、ほっとしたような笑顔を浮かべる。彼女の瞳に、安堵が混じっているのがわかった。

「愛子、お帰り。警備員さんに知らせてきてくれたんだね。ゆいちゃん、もう泣き止んだよ。強い子だよね」

「よかった……。ゆいちゃん、えらかったね」

私は膝をつき、ゆいちゃんの目線に合わせる。彼女の頰はまだ少し赤く、涙の跡が残っていたが、今は好奇心でいっぱいだ。ゆいちゃんが恥ずかしそうに頷き、視線を少し逸らす。その小さな羞恥心が、愛おしく感じられた。

「ねえねえ、お姉ちゃんたちも射的やって! ゆいね、うさぎさんが欲しいの。みんなで取ろうよ!」

ゆいちゃんが突然、私たちの手を両方掴んで引っ張る。思わず美緒と顔を見合わせる。お互いの目が、言葉なく「仕方ないね」と微笑んでいる。

美緒が優しく笑い、ゆいちゃんの頭を撫でた。

「じゃあ、三人でやろっか。ゆいちゃんのうさぎさん、絶対取ろうね。どっちかが当てるよ、きっと」

「うん! 楽しみ!」

屋台のおじさんが、皺だらけの顔を綻ばせて三丁のコルク銃を差し出してくれる。

「はい、頑張ってね。お嬢ちゃんは初めてかな?」

「うん! 初めてだけど、ゆい、がんばる!」

ゆいちゃんの元気な返事に、おじさんがくすくす笑う。軽い銃をゆいちゃんに渡し、優しく説明を加える。

「これなら、お嬢ちゃんでも持てるよ。危なくないようにね」

私たちは射的台の前に並んだ。真ん中にゆいちゃん、右に美緒、左に私。周辺の空気が、射的のコルクの匂いと煙で少しむっとする。

ゆいちゃんが銃を持ち上げようとするが、腕が重さに負けて震える。

「重い……ゆい、持てないかも……」

その小さな嘆きに、心が痛む。

「大丈夫、お姉ちゃんが支えてあげるよ。一緒に持とう」

美緒がしゃがみ込み、ゆいちゃんの手に自分の手を重ねる。銃をゆっくり持ち上げ、狙いを定める姿勢を整える。美緒の指がゆいちゃんの小さな指を包み込む様子が、母のような優しさを感じさせた。

「ほら、こうやって……こっちの目で的を見て。あそこのうさぎさんを狙うの。息を止めて、ゆっくり引くよ」

「こう? お姉ちゃんみたいに?」

ゆいちゃんの声が真剣で、少し舌足らずなのが可愛い。

「うん、上手上手。ゆいちゃん、射的の天才かもね」

そのやりとりを眺めているだけで、私は自然と微笑んでいた。美緒の優しい声、ゆいちゃんの集中した横顔――この温かい光景に、胸が満たされる。祭りの喧騒が遠く感じ、まるで三人だけの世界にいるようだった。

「愛子も一緒に狙ってよ」

美緒が私を見上げて言う。その目が優しく笑っていて、私の心をくすぐる。

「うん、もちろんだよ」

私もしゃがみ込み、ゆいちゃんの反対側から銃を支える。小さな手の上に美緒の手が、その上に私の手が重なる。三人の体温が混じり合い、奇妙な一体感が生まれる。

「わあ、お姉ちゃんたちの手、あったかい」

ゆいちゃんが嬉しそうに言う。彼女の瞳が、信頼で輝いている。

「ゆいちゃんの手も、あったかいよ。みんな一緒だね」

美緒が優しく答え、私も小さく頷く。

「じゃあ、せーので撃つよ。せーの……」

パン!

コルクが飛び出し、的の横をかすめて外れる。軽い音が夜気に溶ける。

「あー、惜しい! もうちょっとだったのに!」

美緒が悔しそうに声を上げ、ゆいちゃんも残念そうに唇を尖らせる。でもすぐに笑顔に戻る。

「でも、楽しかった! またやりたい!」

その前向きさに、胸が軽くなる。

「よし、じゃあ次は美緒お姉ちゃんが本気で狙うね。見てて、ゆいちゃん」

美緒が立ち上がり、銃を構える。真剣な表情で片目を閉じ、息を整える。その横顔が凛々しく、祭りの灯りに照らされて美しく見惚れてしまう。彼女の集中力が、私の心を静かに揺らす。

パン!

コルクが的の端に当たり、カランと小さな音がする。景品が揺れるが、倒れない。

「うわー、また惜しい! なんでー!」

美緒が頭を抱え、悔しそうに身をよじる。その仕草があまりに可愛らしくて、つい笑いがこみ上げる。

「美緒、惜しかったね。もう少しで当たってたよ」

「愛子、笑わないでよー。悔しいんだから!」

「ごめん。でも、可愛かったから。悔しがってる顔が、なんか……」

つい本音が漏れてしまう。美緒が一瞬、驚いたように目を見開き、それから頰を赤らめた。

「もう……愛子の意地悪。褒めてるのか、からかってるのかわからないよ」

「お姉ちゃんたち、仲良しだね」

ゆいちゃんが澄んだ目で私たちを見上げる。その純粋な言葉に、一瞬、言葉に詰まる。胸の奥が甘く疼く。

「そう……かな? 美緒お姉ちゃんとは、いつもこんな感じだけど」

美緒が照れたように答え、視線を少し逸らす。

「うん! ママとパパみたいに、ケンカしてもすぐ笑ってるもん」

ゆいちゃんの無邪気な言葉に、胸がドキリとする。美緒と目が合ってしまい、お互いに慌てて視線を逸らした。心臓の音が、祭りの太鼓より大きく聞こえる気がした。

「じゃ、じゃあ、次は愛子お姉ちゃんの番だよ! ゆいちゃんのうさぎさん、取って!」

美緒が慌てて話題を変える。その声が少し上ずっているのが、なんだか愛おしい。

「え、私? プレッシャーだな……」

「うん! ゆいちゃんのために、うさぎさん取ってあげて!」

ゆいちゃんも期待の眼差しで私を見つめてくる。その純粋な瞳に、背筋が伸びる。私は銃を手に取り、慎重に狙いを定める。うさぎのぬいぐるみが、棚の上でふわふわと揺れている。絶対に取ってあげたい――その思いが、指先に集中力を与える。

「頑張れ、愛子。愛子ならできるよ」

美緒の小さな声が、すぐ隣から聞こえる。励ましの言葉が、胸を温かくする。彼女の存在が、こんなに心強いなんて、改めて思う。

息を整え、引き金を引く。

パン!

コルクが真っ直ぐ飛び、うさぎに命中。カタンと景品が倒れる音が、勝利の合図のように響く。

「やった!」

「すごい! 愛子お姉ちゃん、すごいよ! 」

ゆいちゃんが飛び跳ねて喜び、美緒も拍手をして嬉しそうに笑う。彼女の笑顔が、眩しかった。

「愛子、さすが! かっこよかったよ」

「たまたまだよ……。でも、よかった」

照れくさくて俯いてしまう。おじさんがうさぎのぬいぐるみを棚から取り、ゆいちゃんに手渡す。

「はい、お嬢ちゃん。よく当たったね」

「わあ! ありがとう! ふわふわだよ、ゆいのうさぎさん」

ゆいちゃんがぬいぐるみを抱きしめ、幸せそうに頰ずりする。その笑顔を見て、私も美緒も自然と微笑む。胸の奥が、満ち足りた温かさでいっぱいになる。

「ねえねえ、お姉ちゃんたち、二人で一緒に撃ってみてよ! もっとすごいのが見たい!」

ゆいちゃんが突然、そんな提案をする。

「え? 二人で? 一つの銃を?」

「うん! 一つの銃を二人で持って。ゆいね、ママとパパがそうやって遊んでるの見たことあるの。息ぴったりで、当たるんだよ!」

その無垢な言葉に、美緒と顔を見合わせる。美緒の頰が、ほんのり赤い。私の胸も、なぜかざわつく。

「や、やってみる? 面白そうかも……」

「う、うん……。ゆいちゃんが言うなら、ね」

私たちはもう一度、おじさんに銃を借りる。美緒が先に銃を持ち、私がその後ろから手を重ねる。美緒の体温が指先から伝わり、鼓動が速くなる。彼女の背中が、こんなに近く感じるのは初めてかもしれない。

「ゆいちゃん、どれがいい? 次はどんなの取ろうか」

美緒の声が少し上ずっている。緊張しているのがわかる。

ゆいちゃんが棚を指さす。棚の上段に、キラキラと光るハート型のペンダントがいくつも吊り下げられていた。ピンクや紫、水色に変わるLEDの光が、夜の闇の中で宝石のように輝いている。

「あの光るハート!キラキラしてて綺麗だし!」

「わかった。じゃあ、愛子、一緒に狙おう。息を合わせて……」

「うん」

二人で銃を構え、狙いを定める。美緒の髪から、シャンプーの甘い香りが漂う。距離が近すぎて、心臓が破裂しそう。彼女の息遣いが、微かに感じられる。

「せーので撃つよ。せーの……」

パン!

コルクが飛び出し、真っ直ぐに飛んでハートのペンダントに命中した。カタン、と小さな音がして、紐が揺れ、ペンダントがゆっくりと倒れる。

「やったー! お姉ちゃんたち、すごい! 本当に息ぴったりだね!」

美緒が振り返り、私と目が合った。至近距離の笑顔が、眩しくて胸が苦しくなる。彼女の瞳に、何か特別なものが映っている気がした。

「やったね、愛子!」

「うん……やったね。なんか、嬉しい」

おじさんが棚からピンクの光るハートペンダントをそっと取り外し、ゆいちゃんの方へ差し出す。小さな指で紐を掴み、すぐに首にかけてみた。ハートが胸元でチカチカと光り始め、ゆいちゃんの小さな顔を優しく照らす。光が彼女の頰に淡いピンクの影を落とし、浴衣の柄がより鮮やかに浮かび上がった。

「わあ……キラキラ! きれい! 光ってるよ、お姉ちゃんたち見て見て!」

ゆいちゃんがくるくる回って見せてくれる。

私と美緒は自然と顔を見合わせ、互いに微笑む。

警備員が声をかけてきたのは、その直後だった。無線を片手に、穏やかな表情で近づいてくる。

「迷子の保護、ありがとうございます。おかげで早く見つかりそうです」

美緒が顔を上げ、ゆいちゃんを紹介する。

「あ、はい。この子、ゆいちゃんっていいます。五歳だって」

「ありがとうございます。すぐに親御さんを探しますね。アナウンスしますよ」

彼が無線で連絡し、会場にアナウンスが流れる。

「迷子のお知らせです。ゆいちゃん、五歳の女の子をお預かりしています。ピンクの浴衣を着て、ツインテールの髪型です。射的の屋台近くの本部テントまでお越しください……」

会場に響く声に、ゆいちゃんが急に不安げな表情になる。小さな手が、私の浴衣の袖をぎゅっと握る。指先が冷たく、震えているのが伝わってきた。

「ママ……来てくれるかな……ゆい、怖いよ……」

その震える声に、私と美緒は顔を見合わせる。美緒が優しく頷き、私も頷き返す。そして二人で、ゆいちゃんを挟むようにしゃがみ込む。

「大丈夫だよ。絶対、来てくれるから。ママもゆいちゃんを探してるはずだよ」

美緒が片方の手を握り、優しく撫でる。

「ゆいちゃんは、ちゃんと待っててえらかったもん。ママも、すぐわかるよ。アナウンス聞いたら、飛んでくるよ」

私がもう片方の手を握る。ゆいちゃんの小さな手が、私たちの温かさを求めて締まる。

ゆいちゃんが、私たちの顔を交互に見上げた。瞳に涙が少し溜まっている。

「お姉ちゃんたち……優しいね。ゆい、一人じゃなかったよ」

「ゆいちゃんも、とってもいい子だよ。強いよ、ゆいちゃんは」

美緒が微笑み、私も頷く。

「ね。一緒に待とう。ママが来るまで、ずっとここにいるよ」

ゆいちゃんの両手を、私たちが握ったまま、三人で待った。


十分ほど経って、女性が慌てて走ってきた。

「ゆい! ゆい!」

「ママ!」

ゆいちゃんが駆け出し、母親に抱きつく。涙の再会に、私の目にも熱いものが浮かんだ。

「ゆい! よかった……心配したのよ!」

「ごめんなさい、ママ……」

母親が私たちに気づき、感謝を述べる。

「あの……この子を保護してくださったのは……」

「はい。ゆいちゃん、一人で泣いてたので。」

「本当にありがとうございました!」

頭を深く下げる母親に、美緒が笑顔で応じる。

「ねえねえ、お姉ちゃんたち、結婚するの?」

ゆいちゃんの無邪気な質問に、言葉に詰まる。

「え…あ…」

「ゆい! 失礼なこと聞いちゃダメでしょ!」

でも、ゆいちゃんは続ける。

「だって、二人ともすっごく仲良しだもん。それに、お姉ちゃんたち、お似合いだよ。」

その言葉が、胸に染みる。

「あはは……ありがとう、ゆいちゃん。」

美緒が笑ってごまかすが、頰は赤い。

「本当にありがとうございました」

母親とゆいちゃんが去り、ゆいちゃんが何度も手を振る。私たちも振り返す。二人が人混みに消えると、静けさが訪れた。周囲の賑わいが、遠く感じる。

「あはは……びっくりしたね。」

美緒の照れくさそうな笑いに、頷く。

「うん……」

カップル、結婚。その言葉が頭を巡る。

「でも、ゆいちゃん可愛かったね。」

「うん。美緒、すごく優しくしてたね。」

「そう?」

「うん。まるで、本当のお姉ちゃんみたいだった。」

美緒が少し照れる。

「子供、好きなんだ。将来、保育士になりたいなって思ってたこともあるくらい。」

「そうなんだ……」

美緒の知らなかった一面に、心が温まる。

「愛子は? 子供、好き?」

「うん……好き。」

「いつか、欲しいな。子供。」

美緒の遠くを見る目が、大人っぽい。私も小さく呟く。

「私も……」

美緒との未来を想像する。女同士でも、もしそんな世界があれば。胸が熱くなる。

「あ、そろそろ花火の時間だ!」

美緒が時計を見て言う。

「本当だ。」

「いい場所、探そう!」

美緒が私の手を引く。その温かさに、心が溶ける。

人混みを掻き分け、河川敷の空きスペースを見つける。

「ここ、いいんじゃない?」

「うん。」

芝生に座ると、夜露の湿り気が浴衣に染みる。肩が触れ合う距離。空は暗く、星がちらりと見える。

ドーン!

花火が打ち上がり、夜空を赤く染めた。次々に炸裂する大輪が、青や金、紫と色を変えながら広がり、闇を一瞬の華で埋め尽くす。轟く音が胸に響き、心臓の鼓動がそのリズムにぴたりと重なる。

「わあ……」

美緒の感嘆に、私も見上げるが、視線は美緒の横顔へ。花火の光に照らされ、輝く目と柔らかい笑顔。花火より、美緒が美しい。

「愛子。」

美緒が私を見る。目が合う。瞳に花火が映る。

「今日、ありがとう。一緒に来てくれて。」

その優しい声に、胸がいっぱいになる。


河川敷のあちこちで、拍手と歓声が次第に収まり、人々がそれぞれ満足げな足取りで帰り始める。提灯の赤い灯りが遠ざかり、地面に落ちた影が長く伸びていく。夜風が少し冷たくなり、浴衣の袖口から肌を撫でる感触が、夏の終わりを静かに、しかし確実に告げていた。

私たちは、しばらくその場に座ったままだった。手を繋いだ指先が、まだ互いの体温を伝え合っている。言葉は必要なかった。ただ、隣にいるという事実が、胸の奥を温かく満たしていた。

美緒が、ふっと息を吐く。

「帰ろうか」

声は柔らかく、少し疲れを帯びていて、それなのに優しい響きがあった。

「うん」

私は頷き、ゆっくり立ち上がる。浴衣の裾に絡まった草の欠片を丁寧に払い、下駄の鼻緒を指で整えた。美緒も同じように身支度を整え、並んで歩き始める。足元でカラン、コロンと下駄が鳴る。二人のリズムが、微妙に重なり合い、ひとつの音になる。

人混みはまだ残っているが、行きとは違う。みんな少し緩んだ表情で、家族連れの子供が母親の背中に眠そうにしがみつき、カップルが肩を寄せ合って小さな笑い声を漏らす。遠くの屋台の明かりがまばらに残り、甘い綿あめの匂いや焼きそばの香ばしい煙が、夜風に混じって漂ってくる。

美緒が、そっと私の手を握ってきた。指先が少し冷たくて、でも温かくて、その感触が胸に染み入る。

「はぐれないように」

彼女はそう言って、悪戯っぽく笑った。街灯の光が、彼女の頰を淡く照らす。笑顔の端に、名残惜しさが滲んでいるように見えた。

「うん」

私は強く握り返す。掌に伝わる美緒の鼓動が、ほんの少し速い。私の心臓も、同じように鳴っていた。

駅までの道は、行きよりも長く感じられた。商店街のシャッターがほとんど閉まり、残った明かりが寂しげに点っている。遠くで、祭りの太鼓の音が最後の余韻のようにかすかに響き、すぐに消えた。

駅に着くと、ホームは帰宅する人々で混み合っていた。電車が滑り込み、ドアが開く。私たちは自然と手を繋いだまま乗り込み、幸運にも空いた二人掛けの座席に並んで腰を下ろした。

座った瞬間、疲れが一気に体を覆う。足の裏がじんじんと熱を持ち、肩が重く沈む。美緒が小さくあくびをする。口を手で覆う仕草が、どこか子供っぽくて愛おしい。

「疲れた?」

「うん、ちょっとね」

美緒はそう言って、柔らかく微笑んだ。次の瞬間、彼女の頭がゆっくりと私の肩に寄りかかってくる。その重みが、心地よくて、温かくて、胸の奥がじんわりと温もりに満ちていくようだった。浴衣の生地越しに伝わる体温。すべてが、今日という一日を優しく締めくくっている。

電車が揺れ始める。規則的な振動が体を優しく揺らし、窓の外を流れる夜の景色がぼんやりと過ぎていく。美緒の呼吸が、だんだん深くなり、規則正しくなる。肩にかかる重みが、少しずつ増していく。

眠ってしまったんだ。

私は、できるだけ動かないように、背筋を伸ばしたままじっとしていた。美緒の寝顔を、そっと見下ろす。長い睫毛が静かに伏せられ、頰がわずかに緩んでいる。口がほんの少し開いていて、無防備で、守りたくなるような表情。花火の光に輝いていたあの瞳は、今は穏やかな眠りに閉じられている。

こんなに近くで、美緒の寝顔を見るのは初めてだった。心臓が静かに、でも強く鳴る。美緒が、こんなにも無防備に私の肩を預けてくれることが、信じられないくらい幸せで、怖いくらい愛おしい。

電車がカーブを曲がるたび、美緒の体が少し揺れる。私はそっと手を伸ばし、彼女の肩を支えるようにした。

やがて、電車が私たちの駅に近づく。アナウンスが静かに流れる。

「美緒、着いたよ」

私は小さな声で、優しく呼びかける。

美緒の睫毛が、ぴくりと動く。ゆっくり目を開け、ぼんやりとした視線が私に向く。寝起きの甘い掠れ声。

「あ……ごめん、寝ちゃった?」

「ちょっとだけ」

「ごめんね……」

「ううん、いいよ。気持ちよさそうだったから」

美緒が照れたように笑う。その笑顔に、また胸が熱くなる。

電車が停まり、ドアが開く。私たちは立ち上がり、手を繋いだままホームへ降りる。改札を出ると、夜の空気がさらに冷たくなっていた。街灯の白い光が、アスファルトを淡く照らす。遠くで、車のエンジン音が低く響く。

駅前で、立ち止まる。

「じゃあ、また」

美緒が、軽く手を振る。笑顔は明るいのに、瞳の奥に小さな寂しさが揺れている。

「うん、また」

私も手を振り返す。

美緒の背中が、夜の道にゆっくり溶けていく。ピンクの浴衣が街灯の下で淡く光り、髪飾りの赤い花が一瞬だけ揺れる。足音が遠ざかり、下駄の音が小さくなっていく。カラン……コロン……。

私は、その背中をじっと見つめていた。

夜風が頰を撫で、浴衣の袖を優しく揺らす。遠くで、祭りの最後の花火の残響のような音が、かすかに聞こえた気がした。


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