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第1章 桜色の予感

桜の花びらが、春の柔らかな風に舞い散っていた。

淡いピンクの花弁が、ゆっくりと回転しながら地面に降り積もり、校庭の地面を薄く染めていく。私立桜華学園の校庭に植えられた桜並木は、毎年この時期になると一斉に満開を迎え、学校全体を優しい色で包み込む。春休みが終わり、新学期の始まりを告げるこの景色は、毎年胸をざわつかせた。期待と不安が混じり合った、甘く切ない匂いがする。

私、水原愛子は、昇降口の石段を上りながら、少しだけ息を詰めた。

今日から二年生。

去年の今頃を思い出すと、胸がきゅっと締まる。新入生としてこの校舎に初めて足を踏み入れた日。新しい制服のリボンを何度も結び直し、革靴の硬さが足に食い込んで痛かった。誰とも目を合わせられず、ただ下を向いて歩いた。

でも、あの一年が終わった。今は少しだけ違う。

親友の明美ができた。図書室という、誰にも邪魔されない居場所も見つけた。

今年は、もう少し前に進めるかもしれない。そんな淡い希望を、胸の奥にそっと抱いていた。

上履きに履き替える手が、少し震えていた。

鞄の肩紐が肩に食い込む感触が、妙に鮮明だ。廊下の床はまだ冷たく、足の裏にその冷気が伝わってくる。誰もいないこの時間帯が、好きだった。自分の呼吸の音だけが響く静けさの中で、心を整えられる。

「愛子! おはよー!」

後ろから、弾んだ声が響いた。

振り返ると、佐藤明美が満面の笑みで手を振っていた。彼女の髪が朝の光に透けて、ふわっと揺れている。去年の入学式の日、隣の席になったのがきっかけで、それ以来ずっと一緒にいる。明るくて社交的で、私とは正反対の明美のおかげで、私は何とかこの一年を乗り切ることができた。

「おはよう、明美」

「久しぶり! 春休み、どうだった?」

「特に何も……本読んでただけ」

「やっぱり。愛子らしいね」

明美は屈託なく笑う。その笑顔が、いつも私の緊張を少しだけ溶かしてくれる。私たちは並んで廊下を歩き始めた。階段を上る足音が、二人分重なる。

「今年のクラス替え、一緒だったらいいね」

「絶対一緒がいい! 神様お願いします!」

明美が両手を合わせて拝む仕草をする。私も、心の中で同じように祈った。

中学時代、私はいじめられていた。

きっかけは本当に些細なことだった。図書委員をしていて、本が好きで、テストの点数が良かった。それだけで「ガリ勉」「真面目ぶってる」と陰で言われ始めた。無視、悪口、持ち物を隠される。エスカレートしていく嫌がらせに、誰にも相談できなかった。親に心配をかけたくなかった。先生に言ったら、余計にひどくなると思った。

だから、放課後になると図書室に逃げ込んだ。誰もいない静かな空間で、本の世界に没頭した。物語の中なら、私は傷つかない。誰にも否定されない。安全な場所だった。

高校受験を機に、母は「環境を変えましょう」とこの桜華学園を勧めてくれた。女子校で、穏やかな校風で知られる私立。

「ここなら、新しいあなたになれるわ」

母の言葉を信じて、私はここに入学した。

そして、明美と出会った。彼女は私の過去を知らない。知らないまま、普通に接してくれた。それが、どれだけ嬉しかったか。

でも、心のどこかでいつも怖かった。

また同じことが起きるんじゃないか。本当の私を知られたら、嫌われるんじゃないか。

だから今も、私は図書室に通っている。本は裏切らない。いつだって、そこにいてくれる。

「愛子? また考え事?」

「あ、ごめん。行こう」

私たちは三階へ向かった。階段の踊り場から見える桜並木が、風に揺れて花びらを散らしている。まるで、私の不安を優しく払おうとしているみたいだった。

昇降口に張り出されたクラス分けの紙の前に、生徒たちが殺到していた。興奮した声と、ため息が混じり合う。

私と明美も、人混みをかき分けて掲示板に近づいた。紙の端が少しめくれていて、誰かが指で押さえている。

「二年一組……愛子、あった! 水原愛子!」

「本当? 明美は?」

「えっとね……あ、佐藤明美! 一緒だ、やったー!」

明美が小さく飛び跳ねて喜ぶ。私も、心の底から安堵した。知ってる人が一人もいないクラスだったら、またあの孤独な一年が始まるところだった。胸の奥が、ふっと軽くなる。

「よかったね、愛子。これで安心だね」

「うん、本当によかった」

私たちは笑顔で教室へ向かった。

二年一組の教室は、三階の一番奥。大きな窓からは校庭の桜並木が一望でき、朝の光が机の上を優しく照らしている。すでに何人かのクラスメートが席についていて、去年同じクラスだった子もちらほら。軽く挨拶を交わして、私は窓際の席に座った。明美はその隣。

「なんか、いいクラスになりそうじゃない?」

「そうだね」

穏やかな空気。話し声も控えめで、笑い声も柔らかい。これなら、今年も無事に過ごせそうだと思った。

始業式のチャイムが鳴り、全校放送が始まった。

校長先生の挨拶、新年度の抱負。

私は窓の外の桜を眺めながら、ぼんやりと聞いていた。花びらが一枚、また一枚と舞い落ちる様子が、なんだか自分の心みたいだった。

始業式が終わり、ホームルームの時間になった。

担任の先生が入ってくる。足音が静かに響く。

「おはようございます。今年一年、二年一組の担任を務めます、田中恵子です」

田中先生。去年も学年にいた国語の先生だ。優しそうな人で、安心した。

先生が名簿を開き、出席を取っていく。

「相沢美咲さん」

「はい」

「井上結衣さん」

「はーい」

名前が呼ばれるたびに、返事が返ってくる。

「水原愛子さん」

「はい」

私の番が来て、返事をする。声が少し震えたけど、誰も気づかない。

田中先生が名簿をめくる。

「それから、今日からこのクラスに転校生が一人加わります」

転校生。

教室がざわついた。二年生から転校してくる子なんて、珍しい。

「桐谷美緒さん、入ってください」

田中先生が教室の扉に向かって声をかけた。

扉がゆっくり開く。

「はーい!」

クラスメートたちが一斉に息を飲む。私も、驚いてその子を見た。

金髪。

まず目に入ったのは、それだった。

ピアス穴が光り、スカートは膝上。ブレザーの下のカーディガンは、指定のものじゃない。

典型的な、ギャル。

教室の空気が、一瞬で変わった。

「桐谷さん、その髪は……」

「あ、これ地毛なんです! ハーフなんで!」

美緒の声は明るく、弾むように響いた。

教室の後ろの方で、誰かが小さく「へえ……」と呟く。

先生は名簿をもう一度確認しながら、ゆっくりと言った。

「ハーフ……本当ですか?」

「はい! お母さんがアメリカ人で! だから金髪なんです。染めてないです」

私は心の中で、すぐに否定した。

嘘だ。

メッシュの入り方が不自然だし、眉毛の色も明らかに調整されている。でも、美緒は堂々と胸を張って答えている。田中先生も、それ以上追及するのを諦めたように、軽く咳払いをした。

「そう、ですか……後で生徒指導の先生と確認しますから。では、自己紹介をお願いします」

「はーい!」

美緒は教壇の前に立った。

背筋を伸ばし、クラス全員を見回す。

その瞳が、朝の光を受けて透明に輝いている。少しだけ、緊張で潤んでいるように見えた。

「桐谷美緒です! 前は都内の公立に通ってました。趣味は読書とメイクです! よろしくお願いしまーす!」

明るい声。

人懐っこい笑顔。

でも、その笑顔の奥に、ほんのわずかな影が差した気がした。

気のせいかもしれない。でも、私はそれを見逃さなかった。

中学の頃、自分が教室の真ん中で笑顔を作らなければならなかったときの、あの感覚。

本当は怖くて、胸が痛くて、でも笑わなければいけなかった、あの表情。

田中先生が教室を見回す。

空席を探して、視線が私の斜め前の席に止まった。

「では、桐谷さんの席は……あそこですね。お願いします」

「はーい」

美緒は軽い足取りで教室を横切り、私の斜め前の席に座った。

鞄を机の横にかけると、くるりと後ろを振り向いて、私をまっすぐ見た。

距離が近い。

彼女の甘い香水の匂いが、ふわりと漂ってきた。

「よろしくね!」

にっこり笑って、そう言った。

私は反射的に、声が上ずりながら答えた。

「よ、よろしく……」

美緒は満足そうに頷いて、前を向いた。

心臓が、ばくばくと音を立てている。

明美が小声で「あの子、すごいね」と囁いてきたけど、私は答えられなかった。

ただ、胸の奥で何かがざわついていた。

なぜ、私に話しかけてきたんだろう。

なぜ、あんなに自然に笑いかけてくるんだろう。

ホームルームが続く中、田中先生の声が遠くに聞こえる。

クラス委員、風紀委員、保健委員……次々と決まっていく。

私はぼんやりと窓の外を見ていた。桜の花びらが、まだ舞っている。

「では、図書委員を決めます。立候補する人はいますか?」

私は迷わず手を挙げた。

去年も図書委員だった。本が好きだし、何より図書室は私の居場所だ。

誰も手を挙げない。

いつものこと。図書委員は地味で、仕事も多い。人気がない。

「水原さんですね。他にいますか?」

沈黙が続く。

田中先生が名簿に目を落とそうとしたその瞬間。

「はい!」

大きな声が響いた。

美緒が手を挙げていた。

教室が、再びざわついた。

「桐谷さん? 図書委員ですか?」

「はい! 本、好きなんです!」

嘘でしょ、と私は思った。

どう見ても、本を読むタイプじゃない。

ギャルが図書委員? 冗談としか思えない。

でも、美緒の目は本気だった。きらきらしていて、どこか必死に見えた。

「そうですか。では、水原さんと桐谷さんで決定です」

拍手が起こる。

美緒が振り返って、私に向かってウインクした。

私は、何も言えなかった。

ただ、胸の奥が、熱く疼くのを感じた。


ホームルームが終わり、最初の休み時間が訪れた。

教室の空気が少し緩み、クラスメートたちの話し声がぽつぽつと広がっていく。窓の外では桜の花びらがまだ舞い続け、風がカーテンを軽く揺らす。机の木目が朝の光に温かく照らされ、私のノートに小さな影を落としている。

明美が「トイレ行こう」と誘ってきたので、私は席を立とうとした。

その瞬間。

「ねえねえ!」

美緒の声が、明るく響いた。

彼女が私の机に両手をついて、身を乗り出してきた。

距離が近い。すごく近い。

彼女の息が頰にかかり、甘い香水の匂いが鼻をくすぐる。金髪が少し揺れて、光を反射する。

私は一瞬、息を止めた。

「図書委員、一緒だね! よろしく!」

「あ、うん……よろしく」

私はどもりながら答える。声が少し上ずって、恥ずかしい。美緒の瞳が、間近で輝いている。きらきらしていて、まるで小さな星を閉じ込めたみたいだ。

「あのさ、図書室ってどこにあるの? 案内してほしいんだけど」

「え、あ……三階の奥に」

「じゃあ放課後、一緒に行こ! ね、お願い!」

美緒はきらきらした目で、私を見つめてくる。

その視線に、圧倒される。断る理由がない。というか、断れる雰囲気じゃない。

彼女の熱意が、胸に直接伝わってくるようだった。胸の奥が、ざわつく。

「う、うん……いいよ」

「やったー! ありがと! じゃあ放課後ね!」

美緒は満面の笑みで自分の席に戻った。

私はその場に立ち尽くしていた。

明美が心配そうに声をかけてくる。

「愛子、大丈夫?」

「う、うん……何か、すごい子だね」

「ほんとだね。でも、なんか面白そうじゃない?」

「そう……かな」

私は自信がなかった。

中学のときのことが、頭をよぎる。

ギャルっぽい子たちのグループ。私を見下す視線。聞こえるように言う悪口。

あのときの冷たい空気、胸の痛み。

美緒は、そういう子とは違う……のかな。

でも、わからない。

人は簡単に裏切る。優しい顔をしていても、裏では何を考えているかわからない。

私は、また傷つきたくない。

だから、距離を置こう。

図書室を案内したら、それで終わり。深く関わらないようにしよう。

そう、心に決めた。

でも、胸の奥で小さな声が囁いていた。

もしかしたら、この子は違うのかもしれない。

もしかしたら、この子となら……。

私は頭を振って、その考えを振り払った。

まだ、わからない。

まだ、怖い。

授業が始まった。

一時間目は数学。

黒板に書かれた二次方程式の式が、先生のチョークの音とともに増えていく。二年生になって内容が少し難しくなったけど、私は得意な科目なので、問題なくノートを取ることができた。ペンの先が紙に擦れる感触が、心地よいリズムを生む。

美緒は……というと、ノートに落書きをしていた。

先生の説明を聞いている様子はない。ペンでハートマークや星を描いて、時折スマホをちらちら見ている。机の下で指が動くのが、斜め後ろから見える。

案の定、先生に注意された。

「桐谷さん、授業中にスマホは禁止です」

「はーい、すみませーん」

美緒は軽く謝って、スマホをしまう。でもすぐにまた取り出して、机の下で操作している。

やっぱり、真面目じゃない子なんだ。

私の予想通り。

でも、何だろう。

少しだけ、気になる。

美緒は授業中、時々私の方を見る。そして、目が合うとにっこり笑う。

その笑顔が、何だか眩しい。

中学のときの子たちは、私を見て笑うときは必ず馬鹿にしていた。でも、美緒の笑顔は違う気がする。

純粋に、嬉しそうに笑っている。

気のせいかもしれないけど。

胸の奥が、温かくなるような、ざわつくような、不思議な感覚。

二時間目は英語。

教科書の単語が並ぶページをめくり、先生の読み上げに合わせて発音を繰り返す。教室の空気が少し重く感じる。美緒は英語も得意じゃなさそうで、教科書を開いてもいない。ぼんやりと窓の外を見ている姿が、鏡のように映る。

三時間目の古典で、先生が音読を指名した。

古文のページが、黄色く古びた紙のように感じる。

「桐谷さん、次の段落を読んでください」

「え? あ、はい……えっと……」

美緒は慌てて教科書を開く。どこを読むのかもわかっていない様子。指がページを急いでめくり、迷う。

隣の子が小声で「ここだよ」と教えている。

「あ、ありがと……えっと……『つれづれなるまゝに……』」

たどたどしい音読。発音も間違っている。

クラスメートの何人かが、くすくすと笑った。

その笑い声が、教室の空気に小さな波紋を広げる。美緒の顔が、少し赤くなった。頰が熱を帯びて、耳まで染まっているのが見える。

私は、胸が痛んだ。

笑われる気持ち、わかる。すごくわかる。

私も中学のとき、何度も笑われた。音楽の授業で歌を歌ったとき、体育で失敗したとき、些細なことで。

笑われると、自分が否定された気がする。自分はダメな人間なんだと思ってしまう。

美緒は、今、そう思ってるのかな。

音読が終わって、美緒は小さく「ありがとうございました」と言って座った。

先生は何も言わず、次に進んだ。

私は、美緒の横顔を見た。

いつもの明るい表情じゃなくて、少しだけ、寂しそうだった。

肩がわずかに落ち、視線が机に落ちている。

気のせい、かもしれないけど。

胸の奥が、ざわついたまま、授業が続いた。

お昼休み。

教室の空気が一気に賑やかになり、弁当箱の蓋を開ける音や、箸の触れ合う音が響く。私は明美と一緒に、窓際の席で弁当を広げた。卵焼きの甘い匂いがふわりと広がる。

美緒は、数人のクラスメートと一緒にいた。自己紹介をしたり、笑いあったり。すぐに打ち解けている。彼女の声が、明るく教室に響く。

やっぱり社交的な子なんだ。

私とは違う世界の人。

明美が箸を止めて、小声で聞いてくる。

「愛子、今日の放課後、美緒ちゃんと図書室行くんでしょ?」

「うん……そうだけど」

「楽しそうじゃん。私も行っていい?」

「別にいいけど……」

明美は好奇心旺盛だから、美緒のことが気になるんだろう。

でも私は、正直あまり乗り気じゃなかった。

美緒と関わると、何か面倒なことになりそうな予感がする。胸の奥に、ぼんやりとした不安が広がる。

昼休みが終わって、午後の授業が始まった。

四時間目は体育。体育館の床がゴムのように弾み、バスケットボールの跳ねる音が響く。空気が少し汗ばんだ匂いで満ちてくる。

私は運動が苦手で、いつも消極的にプレーする。ボールが来ないように、目立たないように、隅の方で待つ。

美緒は……意外にも、すごく動いていた。

身軽で、シュートも決めて、チームメイトと声をかけ合っている。汗が額に光り、金髪が揺れる。

運動神経、いいんだ。

そのとき、ボールが私の方に飛んできた。

咄嗟にキャッチしようとしたけど、手が滑って落としてしまった。ボールが床に弾む音が、大きく響く。

「あ……ごめん」

私は慌てて拾おうとした。

「大丈夫、大丈夫!」

美緒が走ってきて、ボールを拾った。

彼女の息が少し乱れ、笑顔が汗で輝いている。

「ナイスキャッチ! 次、パスするね!」

そう言って、笑顔で走っていった。

ナイスキャッチ……落としたのに?

でも、美緒は本当にそう思っているようだった。

嫌味じゃなくて、本気で励ましてくれている。

なんだろう、この子。

よくわからない。

胸の奥が、温かくなるような、ざわつくような、不思議な感覚が広がった。

放課後。

チャイムが鳴り、教室の空気が一気に緩む。私は明美と一緒に、図書室へ向かった。廊下の床が少し埃っぽく、足音が響く。

美緒はまだ教室にいる。荷物をまとめている。

「先に行ってるね」

私はそう声をかけようとしたけど、美緒の方が先に気づいた。

「あ、愛子! 待って待って!」

美緒が走ってくる。

金髪が揺れ、鞄が肩にぶつかる音がする。

「一緒に行こ! 約束したじゃん!」

「あ、うん……」

私たちは三人で図書室に向かった。

廊下を歩きながら、美緒がいろいろ話しかけてくる。

彼女の声が、明るく響く。

「ねえねえ、愛子ってどんな本が好きなの?」

「え……小説、かな」

「小説! 私も好き! 恋愛系とか!」

「そうなんだ……」

意外。美緒が本を読むなんて思わなかった。

「愛子のおすすめ、教えてよ!」

「う、うん……じゃあ、図書室で」

三階の奥にある図書室。扉を開けると、静かな空間が広がっている。

放課後の図書室は、いつもこんなふうに静か。数人の生徒が自習していたり、本を読んでいたりするだけ。紙の匂いがふわりと漂い、棚の影が長く伸びる。

私の、安全な場所。

「わあ、広い!」

美緒が目を輝かせる。

「これ、全部読めるの?」

「うん。借りられるよ」

「すごーい! 私、ここ気に入った!」

美緒は本棚の間を歩き回る。明美も一緒について行く。

私は司書の先生に挨拶をして、図書委員の腕章を受け取った。

山田先生の眼鏡が光り、優しい声が響く。

「水原さん、今年もよろしくね」

「はい、よろしくお願いします」

司書の山田先生は優しい人だ。去年も、いろいろと助けてもらった。

「新しい図書委員さんも来たのね」

「はい……桐谷さんっていう、転校生です」

「転校生? 大変ね、慣れない環境で」

山田先生は優しく微笑む。

美緒が戻ってきた。

「先生、初めまして! 桐谷美緒です! よろしくお願いします!」

「はい、よろしく。桐谷さん、本は好き?」

「はい! 大好きです!」

本当かな、と私は疑っていた。

でも美緒は本当に嬉しそうで、本棚を見回している。瞳がきらきらと輝く。

「ねえ愛子、おすすめ教えてよ!」

「え……うん」

私は小説のコーナーに案内した。

棚の木目が指先に触れ、埃の匂いがする。

「恋愛系が好きなら……これとか」

一冊、軽めのラブストーリーを手に取る。表紙のイラストが柔らかく、ページの端が少し曲がっている。

「わあ、表紙かわいい! 借りていい?」

「うん、もちろん」

美緒は嬉しそうに本を抱きしめた。

その姿が、何だか子どもみたいで、可愛いと思った。

可愛い……?

私、今何を考えてるんだろう。

胸の奥が、ざわついた。

図書室での時間は、意外と楽しかった。

美緒はいろんな本を手に取って、「これ面白そう!」「これも読みたい!」と興奮している。ページをめくる音が、静かな空間に響く。明美も一緒になって、本を探している。笑い声が小さく漏れる。

私は二人の様子を見ながら、少しだけ、緊張がほぐれていくのを感じた。

もしかして、美緒は悪い子じゃないのかもしれない。

ただ、派手で、明るくて、私とは違うだけで。

胸の奥に、温かいものが広がる。

「愛子、ありがとね! すごく楽しかった!」

帰り際、美緒がそう言った。

夕陽が窓から差し込み、彼女の金髪を赤く染める。

「また明日も来ていい?」

「え……うん、図書室はいつでも開いてるから」

「やった! じゃあまた明日ね!」

美緒は笑顔で手を振って、昇降口へ向かった。

でも、その背中が、どこか寂しそうに見えた。

肩が少し落ち、足取りが重い。

転校生。

新しい環境。

知らない人ばかり。

美緒も、孤独なのかもしれない。

明美が私の肩を叩く。

「愛子、よかったじゃん。美緒ちゃん、いい子そうだよ」

「うん……そうだね」

私はそう答えたけど、心の中ではまだ迷っていた。

本当に、この子と仲良くなっていいのかな。

また、裏切られたりしないかな。

また、傷つけられたりしないかな。

でも。

美緒の笑顔を思い出すと、少しだけ、期待してしまう自分がいた。

もしかしたら、この子となら。

友達に、なれるかもしれない。

家に帰って、夕食を食べながら、母に今日のことを話した。

キッチンの匂いが、煮物の温かい香りで満ちる。母のエプロンが、夕陽の残光に優しく照らされる。

「新しいクラスメート、どうだった?」

「うん……転校生が来て」

「転校生?」

「金髪で、ギャルっぽい子。でも、本が好きみたいで」

母は少し眉をひそめた。

その表情に、胸がざわつく。

「愛子、変な子とは付き合わないようにね」

「え……」

「あなた、また中学みたいになったら困るでしょ。ちゃんとした子と仲良くしなさい」

母の言葉が、胸に刺さった。

ちゃんとした子。

美緒は、ちゃんとしてない子なの?

見た目が派手だから? 金髪だから?

でも、美緒は優しかった。私に笑いかけてくれたし、本を楽しそうに選んでいた。

「うん……わかった」

私は曖昧に答えて、自分の部屋に戻った。

机に座って、宿題を始める。

でも、頭の中は美緒のことでいっぱいだった。

美緒の笑顔。

美緒の声。

美緒の、キラキラした目。

何だろう、この気持ち。

気になる、というだけじゃない。

もっと、何か……。

私は頭を振って、考えるのをやめた。

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