第1話「Welcome to X change World」
「メルリア様が深淵を覗いた時、深淵は静かに目を逸らした」
───ロベルト・バッテン(メルリア神の側近)
春の風が制服の裾を揺らしていた。
午後四時過ぎ。空はまだ明るく、部活帰りの学生たちが笑い声を上げながら校門を出ていく中、ひとりだけ静かに歩く少年がいた。
「また……間違えられた」
彼は、制服のネクタイを緩めながらため息をついた。
身長はクラスでも一番低く、つるりとした白い肌に、黒髪の前髪が揺れる。華奢で整った顔立ちは、どう見ても“可愛い女の子”にしか見えない。
今日もまた、初対面の教師に「君、女子制服はどうしたの?」と問われ、クラスメイトの男子には「お前、ほんとに男かよ」と茶化された。
それはもう、日常茶飯事。
だけど彼の中には、誰にも言えない"秘密の願い"があった。
(……女の子になれたら、どんなに楽だろう)
夢はある。願いもある。
できることなら、魔法で――
本当に女の子になって、生きていきたい。
そんな願いを胸に抱いて、誰にも言えずに生きてきた。
「……はぁ、魔法がある世界に行けたらなあ」
家までの帰り道。
スマホをポケットにしまい、いつも通る裏道を歩いていく。信号が点滅し始めた交差点に差し掛かったとき――
――キィィィイイイッ!
鋭いブレーキ音が空気を裂いた。
(え?)
視線を上げた瞬間、トラックの車体がこちらへ迫ってきていた。
運転手の目は虚ろで、眠気と疲労に支配された顔をしていた。
思考が止まる。体が動かない。次の瞬間――
ドンッ――!
彼の視界は、真っ白に染まった。
***
――どこまでも、白かった。
空も、地面も、空気までもが、漂白されたような色をしている。
ただ一つ、そこに佇む人物だけが異質だった。
「……ん、ここ、どこ……?」
彼はぼんやりと起き上がった。確か、自分はトラックに轢かれて……死んだ?
なのに、痛みもなく、身体はどこも傷ついていない。ただ、意識は確かにある。
「おお、目覚めたか」
重厚な声が空間に響いた。
彼が顔を上げると、そこには白銀の髭をたくわえ、神々しいローブをまとった老人が立っていた。背は高く、瞳は深く澄みきっていて、ただの人間ではないと一目でわかる。
「わ、わわ……誰!? もしかして神様!? いや、この展開ってもしかして――」
「うむ、ワシは“神”じゃ。まあ、その呼び方で合っとる」
「マジか……」
彼は膝から崩れ落ちた。まるで、ゲームや小説の世界そのものだった。
「まず伝えておこう。君は本来、死ぬ運命ではなかった。あれは運命の綻び……ワシの不注意じゃ。すまんな」
「……えっ」
「本来なら蘇らせてあげたいのだが、ワシの力でも現世に戻すのは難しい。だからせめて、別の世界――魔法のある世界に“転生”させてあげようと思うのじゃ」
彼の瞳が一気に輝きを取り戻した。
「ま、魔法の世界!?」
「そうじゃ。そして……君には“望むスキル”を一つ授けよう。なんでもよい。望みを言いなさい」
その瞬間、彼の脳内は真っ白になった。
そして叫んだ。
「女体化!!女になりたい!!ずっと綺麗でかわいい理想の女になりたい!」
「えっ……あっ、ちょっ……」
神様が思わず後ずさった。
「こ、怖い……。女?本当にいいの?まあ……わかったよ……女体化、ね。はい。与えよう……ええ、もう、それで……」
どこか引きつった顔の神様が、手をかざした。光が彼を包み込み――世界が反転する。
草の香りと、優しい風が肌を撫でる。
「……ん、あれ? ここ……森?」
見知らぬ空。木々のざわめき。
鳥の声。――そして、自分の声が、明らかに高い。
「え……っ? な、なにこれっ!?」
水たまりに顔を映す。そこには、見覚えのない少女の顔があった。
水色のツインテール。鮮やかな青い瞳。
アホ毛がぴょこっと頭から生えていて、小柄な体つきに控えめな胸。
――見た目は完璧に、どこからどう見ても“女の子”。
「……やったぁあああああああああっっ!!」
森に響き渡る、嬉しすぎる歓声。
こうして、少女となった“元・少年”の異世界ライフが幕を開けた――。
少女となった彼は、草をかき分けながら歩いていた。背丈の低い木々、見知らぬ花々。異世界の風景に、心は躍っていたが、不安もあった。
「うう、ここ……どこなんだろ……」
ふと、茂みの向こうからかすかな気配を感じた。
そっと覗き込むと、そこにいたのは――
「……うわ……!?」
もふもふの白い毛に覆われた小さな体。長いウサギの耳がぴょこんと立っていて、二足でしっかりと立っている。
ウサ耳の子供――ラビは、彼と目が合った瞬間、びくっと身をすくめた。
「ひ、人間……!? こっち来ないでくださいっ、ボクは戦えませんからっ!」
「ちょっ、待って! 君、めっちゃ……か、かわいい……!!」
彼の目が輝いた。思わず両手で頬を押さえ、テンションが爆発する。
「なにこのもふもふ!耳すごい!ふわふわ歩いてるの最高じゃん……!」
ラビはぽかんと口を開け、数秒フリーズした。
「……えへへ、そう言われると……その……悪い気はしませんね」
どこかくすぐったそうに耳をぴくぴく動かしながら、ラビは小さく笑った。最初の警戒はどこへやら、今ではすっかり調子が戻っている。
「で、あなた……名前は? どこから来たの?」
「えっと……どこからっていうか、その……ずっと夢だった女体化が叶って……いや違うの! あ、いや違わないけど!」
慌てて口を押さえる。顔が真っ赤になる。
「今のナシ!聞かなかったことにして!元男が女になりたがってたなんて、変だよね!?ごめんね変だよね!?」
彼の表情はみるみる曇っていく。
「……どうしたんですか?」
ラビが首を傾げる。
彼は思い出していた。
淡い記憶の中の放課後――夕焼けに照らされた公園のブランコ。
小学生のころ、トガシ君という仲のいい友達がいた。
いつも一緒に遊んでて、すごく楽しくて、この子なら、僕のことを理解してくれるかもしれないと、そう思っていた。
その横に座るトガシ君に、幼い彼は勇気を振り絞って打ち明けた。
「実はね……僕、女体化するのが夢なんだ」
「それに……ちょっと変かもしれないけど、叩かれたり、するのも……好きなんだ」
その瞬間、空気が凍りついた。
トガシ君は眉をしかめて、立ち上がり、顔をしかめながらこう言った。
「は?気持ち悪っ!お前のことを理解してくれる奴なんか、この世に一人もいねーよ!」
心に突き刺さるような声だった。
その一言で、彼の世界は音を立てて崩れた。
回想から戻り、彼は小さく息を吐く。
ラビはきょとんとしたまま彼を見つめていたが――ふっと、優しく微笑んだ。
「……なりたい自分になれて、良かったですね」
「……え?」
「なりたい自分になれた。夢を叶えたんですね。恥ずかしい事なんかじゃないです」
その言葉に、彼の胸がじんわりとあたたかくなった。
ここは見知らぬ世界。でも、こんな風に優しく言ってくれる存在がいるなら――きっと、大丈夫。
「……ありがとう、ラビくん」
「ラビでいいですよ」
もふもふの手をそっと差し出すラビ。
彼はそれを握り返した。
異世界の朝が、ほんの少しだけ明るく見えた。
「……この土地には、神様がいるんです」
ラビがぽつりと呟いた。
彼はその言葉に、思わず顔を上げた。
鳥のさえずりと木々のざわめきの中、ラビの声は不思議な静けさをまとっていた。
「神様……?」
「うん。その神様の名前は、メルリア様です。“なりたいものになれる”力を持った、特別な神様なのです」
ラビの青白い瞳が空を見上げる。どこか、遠くにいる誰かを思うような目だった。
彼の胸が、少し締め付けられる。
「……ラビにも、なりたい自分ってあるの?」
ラビは、ふっと寂しそうに笑った。
「ボク達、霊獣族はね……瞳と心臓が高く売れるんです。希少種ってやつです。だから、人間には狙われてばかりで」
声のトーンが少し低くなる。
「親も、友達も、仲間も……みんな殺された。ボクが最後の生き残りなんです」
彼は言葉を失った。ラビの幼い見た目と、しっかりとした語り口が痛ましく重なる。
「だからね。強い自分、幸せな自分を……想像するんです。せめて、心の中では」
その言葉に、彼の目が潤む。なりたい自分。望む未来。――自分と同じだった。
だが、その静けさは一瞬で破られる。
「――いたぞ」
低く、鋭い声が森の中を裂いた。
次の瞬間、黒衣の影が風のように現れる。
フードを被った大柄な男が、地を蹴って瞬時にラビとの距離を詰めた。
「ラビっ!」
そう叫ぶ間もなく、男の足が唸りを上げて振り抜かれる。
ドンッ――!
凄まじい衝撃音とともに、ラビの小さな体が宙を舞い、木に激しく叩きつけられた。
「ラビ……っ!!」
思わず駆け寄ろうとするその前に、大柄な男が仁王立ちする。
フードの奥から、大きく見開いた目が彼を射抜いた。
「見つけたぜ、霊獣族のガキだ」
男はゆっくりと一歩、朔へと近づく。
「そこの女――そのウサギを俺によこせ」
圧倒的な威圧感に、息を呑んだ。
目の前の黒衣の男は、まるで死を連れて歩くような存在だった。
だが、震える脚を無理やり前に出し、大柄な男の前に立ちふさがる。
「絶対に……ラビは渡さない!」
その瞳に、確かな意思の火が灯っていた。
「ほぉ……そのウサギ、ラビって名前があんのか」
大柄な男が笑みを浮かべて口を開いた。
その声は低く、どこか意地の悪さを滲ませていた。
「俺にも“ウィドウ”って名前がある。名前ってのは大事だ。名前が無けりゃ、相手を呼ぶことも、書くことも出来ないからな? そうだろ?」
ウィドウの前に、ラビを庇うように立ち、鋭い目で睨み返した。
「……なにが言いたい」
「区別するためだよ。例えば、ウサギを2匹飼ってたとする。どっちか片方だけを呼びたい時、どうする?『ウサギ』って呼んだって、ウサギからすりゃ、どっちがどっちなんだか、分かんねぇだろ?同じ呼び方はしちゃならねぇ。だから名前が必要だ。でもな――」
ウィドウはにやりと嗤った。影が歪むほどの悪意を孕んで。
「そこのウサギは、もうこの森に残ってんのは1匹だけ。分かるか?……要らねぇだろ!?名前なんかよぉ!」
「……お前が殺したのか?この子の仲間を!」
声が震える。
「殺したさぁ!」
ウィドウは嬉々とした様子で言い放った。地面に唾を吐きながら、続ける。
「どれも高く売れたぜぇ!こいつら、俺に殺される寸前に祈ってやがった!『メルリア様、助けて』ってよ。いるかも分かんねぇ神の名前を口にして……あぁ、笑えたぜぇ!」
その言葉に、視界が赤く染まる。
ラビは地面に横たわり、小さく呻いている。無力さと怒りが胸を灼く。
「人はなぁ、産まれたままの姿で生きてくしかねぇのさ。できもしない夢を見て、やれもしない妄想に縋って……そういう奴らは気持ち悪くて反吐が出るぜ!」
ウィドウは高らかに笑い、堂々と踏み出した。
その姿が、かつてのトガシ君と重なる。あの日、心を否定され、夢を嘲られたあの瞬間。
ぽつりと呟いた。
「……同じだ」
「はぁ?」
ウィドウが眉をひそめる。
顔を上げた。怒りでも悲しみでもない、ただ静かに――自分の内にあるものを告げるように。
「理想を語るだけ。夢を見るだけ。絶対に不可能で、その方法すら存在しない。だから、そこに向かおうと足掻くことも出来なかった。……似てるんだ、とても」
風が彼の髪を揺らす。
その眼差しには、確かな決意が宿っていた。
「……でも、僕は運良く叶えてしまった。あまりにも僕の理想は遠すぎて、叶った後にどうなりたいかなんて、考えたことも無かった」
視線を落とす。足元には、傷ついた小さなラビがいる。
ラビは、自分の夢を笑わなかった。そんなラビの夢が、傷つけられ、壊されようとしている。
「――決まったよ。この子の夢を、叶えたい」
声が、強くなる。
「この土地の神が救わないなら、僕が代わりに神になる。この子の望んだ“メルリア”になる。名前ってのは大事なんだろ?だったら教えてやるよ――」
その瞳は真っ直ぐにウィドウを捉え、凛として響く。
「僕の名前は、“メルリア”だ」
森の風がざわめいた。
まるで、この場に新たな“神”の名が刻まれた瞬間のように。
黒いローブを揺らし、ウィドウは不気味な笑みを浮かべていた。木々がざわめき、森の空気が張りつめる。ラビはメルリアの背後に身を潜め、震えている。
ウィドウは鼻で笑った。
「神になるだと?随分大きく出たが、しかし現実はどうだ? お前、身体も小せえよな?力だって、俺よりも無いだろう?そんな雑魚が、どうやってそこのウサギを守るんだ?」
挑発するようににじり寄るその巨体を前にしても、メルリアは一歩も退かなかった。彼女の澄んだ瞳が、静かにウィドウを見据えている。
「違う。方法はどうでも良い。それに、そこは大して重要じゃない。」
その声はか細くも、はっきりと意志を持っていた。
「理由や方法が思いつかなくても、友達を助けようとする想いは間違いじゃない筈だ。お前がラビを手に入れる為には、僕を殴ったり蹴ったりするしかない。さぁ! 叩いてみろよ!」
ウィドウの顔が歪む。次の瞬間、彼の拳が振り抜かれ、メルリアの頬を強く打った。小さな体が宙を舞い、地面に転がる。
「クク……無様だな」
しかし——。
「……っ!」
メルリアは立ち上がった。ぐらつく足で、口の端から血をにじませながら、それでも。
「はは……気合だけは一人前かよ!」
ウィドウが今度は蹴りを放つ。メルリアの細い腹に直撃する。呼吸が詰まり、地面に倒れる。
それでも——また、立ち上がる。
「僕は……今、喜んでいる」
ぼろぼろになりながらも、メルリアは微笑んだ。
「女の姿になれたし、理解してくれる友達に会えた。……そして、この痛み。元の世界では一生手に入らないと思っていたものが、ここにはある!」
その言葉は、痛みによる狂気か、あるいは純粋な歓喜か——。
ウィドウの背筋を、ぞわりと悪寒が駆け抜けた。目の前の少女が、まるで別の存在に見える。
この少女は、どこかが……おかしい。
けれど同時に、その狂気こそが、本物の“覚悟”だと、ウィドウの直感が告げていた。
森に沈む空気が、さらに重さを増した。
ウィドウは大きく肩をすくめながら、吐き捨てるように言った。
「随分と諦めが悪いな? 強がりか、鈍いだけか、それとも……頭がおかしいのか?」
メルリアは黙っていた。返す言葉はない。ただその双眸が、真っ直ぐにウィドウを射抜いている。血の滲んだ唇、よろけそうな足元、それでも崩れ落ちない身体。意志だけが、彼女を支えていた。
ウィドウは舌打ちし、内心で焦りを募らせる。
——こいつ、まだ立つ気か。
長引くのはマズい。そもそも、この霊獣族の住む森のことを知っているのは自分だけだった。だからこそ、密猟にはもってこいの狩場だったのだ。だが、近頃耳にした噂が引っかかっていた。
“ブライガル盗賊団が、この森で霊獣族が捕れるとの情報を掴んだ”
あの連中と鉢合わせるなど、まっぴらだ。
本来なら、今日はラビをさっさと仕留めて、森を離れるつもりだった。だが、目の前の少女に、想定以上に時間を奪われている。無駄に暴れてこの場を長引かせていれば、奴らに気づかれる恐れすらある。
ウィドウの顔から、いつもの余裕が消える。目を細め、静かに呼吸を整えた。
「仕方ねぇ。これはやりたくなかったが、もう四の五の言ってられねぇ」
肩を回し、ゆっくりと数歩、後ろに下がる。距離を取るその動きに、ただならぬ殺気が帯びていた。
「一撃で決める。ウサギを視界から見失わないこの距離で、一撃で仕留めてやるよ」
ラビは小さく息を呑み、メルリアの背中に手を伸ばしかける。
だが、メルリアは静かに、それを制した。
風が吹き抜ける。葉が鳴り、枝がしなり、森の鼓動が、戦慄を告げていた。
ウィドウは静かに、手のひらを前へと突き出した。
その掌に、淡く光が灯る。瞬間、空気がざわめいた。光はゆっくりと収束し、やがてカード状の物体へと姿を変える。大きさはトランプほど。重厚な金属のような質感を持ち、その中央には複雑な魔法紋様が刻まれていた。
——嫌な予感がする。
ラビの耳がぴくりと動いたかと思うと、目を見開いて叫んだ。
「メルリア様!駄目です!ボクはいいから逃げて!」
その声に、メルリアはわずかに目を細める。苦しさを押し隠すように、微笑を浮かべた。
「逃げないよ。僕の夢は、もう叶ってる。……次は、僕の夢を理解してくれた、君の夢を叶える番だ」
ラビの顔が、くしゃりと歪んだ。
「その攻撃だけは受けちゃいけません! ヤツは恐らく、スキルが使えます!」
「スキル……?」
メルリアがぽつりと呟くと、ウィドウは急に吹き出した。
「なんだお前、スキルも知らねぇのか? どういう人生送ってたら、スキルも知らずに生きられるんだ?」
ウィドウは皮肉げに笑いながら、カードを弄ぶようにひらつかせた。
「スキルカードさえ出せば、てっきりビビって逃げ出すと思ったが……知らねぇんじゃ意味ねぇよなぁ。仕方ねぇ、教えてやるよ」
ウィドウの声が、どこまでも傲慢に響く。
「生まれついて特別な力を持つ者は『スキル使い』と呼ばれてる!俺のような、ごく少数の選ばれし存在が、スキルを心の力で動かせる!スキルの無い雑魚は、スキル持ちよりも立場が下なんだよ。ビビったか?ビビったなら、とっとと逃げ出せよ、ホラ!」
その言葉に、メルリアはふと小さく呟いた。
「そういえば……あの神様も、そんなこと言ってたような……」
「メルリア様!」
焦燥した声で、ラビが叫んだ。
「スキルを持つ者は、念じるだけで手のひらからスキルカードを出せるんです!そしてさらに強く念じると、スキルカードに紋様が描かれる……!紋様が描かれてしまったら、それはもう発動の合図なんです!」
ラビの叫びを聞いたウィドウの表情が、途端に険しく変わった。
「……チッ、もういい」
低く呟いたその声に、冷気すら帯びていた。
「スキル《風刃斬》——痛がる間もなく死んじまえ!」
ウィドウはスキルカードを両手で掴むと、勢いよく真っ二つに引き裂いた。
次の瞬間、周囲の空気が悲鳴を上げるような風切り音を立てる。
まるで見えない刃が駆け抜けたかのように、メルリアの腹部を鋭く切り裂いた。
「っ——!」
血が、弧を描いて宙に舞う。地面に倒れ込むその身体から、鮮烈な赤が溢れ出す。
ラビの叫びが、森に響き渡った。
腹部から溢れ出す大量の血液が、メルリアの細い脚を赤く染めていく。
ウィドウは、その光景を見て勝利を確信した。
これで終わりだ——そう思った。
だが。
「……ッ!」
メルリアは倒れない。
ぐらりと体が揺れ、今にも崩れ落ちそうなほど弱々しい。それでも、彼女は立っていた。足を震わせながら、顔を上げる。青い双眸に、静かな光を宿して。
そして、メルリアは——笑った。
血に濡れ、痛みに苛まれているはずのその顔に、確かに笑みが浮かんでいた。
ウィドウの顔に、明らかな困惑が走る。
「な、何故だぁ……!?」
怒鳴るような叫びが、森の中に響き渡った。
「テメーはもう、完全に致命傷だ!生きていたとして、痛みで立っていられる筈がねぇ!それなのに、何故倒れない!何故笑っていやがる!?どうしてそこまでするッ!?」
幸運は三つあった。
一つ目は——痛覚への興味。
幼い頃から、叩かれることに奇妙な興味を抱いてしまう精神性を持っていた。女体化した今、その感覚はさらに増幅され、未知への興奮とともに脳内にドーパミンを溢れさせた。
激痛を感じるはずの今、メルリアの脳は痛みを快楽へと変換し、意識を保ち続けていた。
二つ目は——スキルに関する情報。
ウィドウは、自らの優越感に酔い、"スキルとは何か"を得意げに語った。
スキル《風刃斬》の詳細そのものは伏せていたが、そもそもスキルの事それ自体を語るべきではなかった。その無駄なマウンティングの癖が仇となり、メルリアに一つの重大な事実を思い出させた。
——"望むスキルは何か"と問われ、"女体化"と答えたことを。
つまり、自分のこの姿は、スキルによるもの。
生まれ持った魔力を無意識に操り、自らの姿を理想に保つために、スキルを常時発動させ続けていたのだ。
"ずっと綺麗で"と続けて願ったが故に、不死ではないものの、不老を維持し、傷痕を残さず、生命力を緩やかに回復する体質を得ていた。即死しなかった事が幸いし、そのダメージは少しずつ治りはじめている。
そして三つ目——守りたいものがある、その覚悟。
ラビという友を守ること。
夢を、願いを、捨てないこと。
それが、メルリアの心を支えていた。
命が燃え尽きようとも、足を止める理由にはならない。
「……僕は、諦めないよ」
ぽつりと、メルリアが呟いた。
その声はか細いのに、風を切る刃よりも鋭く、強かった。
「諦めないだと!?どうやって耐えたのか知らねぇが、満身創痍には違いねぇ!もうお前は——ここで終わりだぁ!!」
怒声とともに、ウィドウがメルリアへ拳を振りかぶる。
しかし、メルリアは一歩も引かない。
「本当にそうかな?」
静かに、そして冷たく、告げた。
「君はもう、その《ウィンドカッター》で攻撃できないだろ?」
ウィドウの拳が、空中でピタリと止まった。
ぐしょぐしょに濡れた額から、冷たい汗が一筋、頬を伝う。
「な、なんでそんなことが……分かる……?」
震える声。
それに、メルリアは微笑を浮かべたまま答えた。
「使えるなら、お前はもう……何発も撃ってるはずだからね」
スキルの仕様。それは、人によって違う。
魔力の多い者なら、何度もスキルカードを出し、連続してスキルを叩き込める。
だが、ウィドウの魔力はそこまで豊かではなかった。
一度スキルを発動させれば、次にスキルカードを出現できるようになるまで、三時間。
三時間もの間、彼はスキルを封じられる。
その隙に盗賊団に襲われたらどうなるか?
それを恐れ、彼は「これだけはやりたくなかった」と繰り返していたのだ。
ウィドウの心に、疑念と恐怖が芽吹き、急速に広がっていく。
止まった拳。
その一瞬の隙を、メルリアは見逃さない。
血に濡れたまま、彼は手をかざした。
スキルカードを出現させる必要はない。
なぜなら、常時発動しているスキルなのだから。
メルリアは、優雅に、だがはっきりと宣言した。
「スキル《女体化》!」
眩い光がウィドウを包み込む。
「な、なにっ——!?」
叫びも掻き消されるように、ウィドウの身体はぐにゃりと形を変えた。
筋肉質だった腕が細くなり、荒々しかった体格が縮み、小さな少女の姿へと変わっていく。
金色の髪、幼く可憐な顔立ち、か細い手足。
そこに立っていたのは、もはや威圧感もなにもない、ただの幼い女の子だった。
「な、なんだこれぇ……!」
ウィドウ——いや、今やウィドウだったものは、甲高い声で混乱しながら、自分の小さな体を抱きかかえるように震えた。
メルリアは、にっこりと微笑んだ。
「これで、お前はもう、僕たちに手出しできないね」
「うわあああん!なんでこんな姿にっ! もどせ!もどせぇ!!」
ウィドウが小さな拳で地面を叩きながら、泣き叫んだ。
それに対して、メルリアはきょとんとした顔をしながら、素直に告げる。
「ごめん、戻し方わかんない」
「そ、そんなっ……!俺は一生このままだってのかっ!?」
絶望に染まるウィドウの叫びに、メルリアは目を輝かせて興奮気味に言った。
「すごい!女体化漫画で聞いたことある台詞だ!良かったね、女体化できて!」
「良いわけあるかあああっ!!殺す!殺してやるぅぅ!!」
涙目のまま、突進してくるウィドウ。
しかし、メルリアは血だらけの服をなびかせながら、涼しい顔で問い返した。
「……どうやって?」
「え?」
動きが止まる。
メルリアはにっこりと微笑む。
「お前は『か弱い女』に変えた。スキルもしばらく使えないし、力でも僕に劣ってる。これでもまだ、ラビを狙う?」
静かな問いに、ウィドウはギリリと歯を噛みしめ、悔しそうに叫んだ。
「くそっ!覚えていやがれ!!」
捨て台詞を残して、ウィドウはその小さな体で森の奥へと逃げ去っていった。
静寂が戻った夜の森。
その中で、ラビが駆け寄ってくる。
「ありがとう、メルリア様っ!」
ラビは小さな体で、思いっきりメルリアに抱きついた。
メルリアはふわりと微笑み、ラビの頭をぽんぽんと撫でる。
だが——その直後だった。
メルリアの身体が、ふらりと傾いだ。
「——あれ?」
どさり、と地面に崩れ落ちる。
「メルリア様!?」
ラビが慌てて駆け寄る。
見ると、メルリアの傷口はすべて塞がり、肌も綺麗に回復している。
だが、出血で失った血液はまだ戻っておらず、戦いの興奮が冷めた今、体が追いつかなくなったのだ。
メルリアは地面に寝転びながら、情けない声をあげた。
「ら、ラビィ〜……なんか、身体に力が入らないよぉ〜……。気つけに何発か、僕のこと殴ってぇ〜……!」
頼られたラビは、ため息まじりに肩をすくめた。
「やれやれ……マゾで女体化趣味の困った神様ですね。……このままじゃ、僕たちの旅は、バッドエンドですね」
二人は、顔を見合わせて、くすりと笑った。
こうして、メルリアとラビの旅、その最初の戦いは幕を閉じた。
――第1話・完。




