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57.「俺はおかしくなっているのか?」

 次の瞬間、ぶわあ、と場が変質した、のが砂映(さえい)にもわかった。

 竜菜(りゅうな)の「深呼吸」が発動した、らしかった。


 魔道士雷夜(らいや)はその場で音もなく崩れ落ち、竜菜の足下に転がった。涼雨(りょうう)は膝に頭を落としていた。桃花(ももか)も倒れていた。魔術師(くれない)は元々倒れて意識もなさそうだったので、変化はわからない。


 確かに竜菜本人以外では、砂映だけが無事だった。砂映の体調や魔精の状態には、自覚できる変化はまったくなかった。まともな術者であれば影響が出るらしいものが、自分には出ないというのは・・・・・・どうかと思わないでもなかったが。


(とにかく、すぐ・・・・・・確か十分ぐらいしたら途季さんが来ると言っていたし・・・・・・すぐに魔躁師まそうしの『記憶消去』をやらないと)


 竜菜は倒れた雷夜の傍に、そのまま砂映にも紅たちにも背を向ける形でしゃがみこんでいる。

「竜菜ちゃん。そのまましばらく、こっち振り向かないでいてもらってもいいですか」

 念のため、砂映はそう声をかけた。

「はーいわかりましたー」

 竜菜は何も訊き返さず背を向けたまま、朗らかな声でそう返事をした。


 砂映はまず、魔術師紅に目をやる。目と口から血を流し、無残な様子で倒れているにもかかわらず、その美貌と体躯の美しさはなおも健在で――――真っ赤なマントを背に髪を乱したそのさまは、どこか絵画的だった。


 紅は、涼雨のことを魔物女だと何度も言った。涼雨のことを殺そうとした。

 今日の記憶を消す――――「少女Lが涼雨であること」という認識を消すことは、おそらく可能だろう。昨日の、砂映が強大な力を持った魔女と接触したということ――――途季魔法薬店を訪れたことそのものの記憶を消すことも、できるはずだ。だが、紅の、人間の姿をした魔物(と紅が判定した相手)への異常な執着と憎しみは、おそらく消せない。「少女L」に関して本で得た知識や調べた内容、思考も消すことはできない。長期に渡る思考や感情を伴う記憶は、容易に消し去ることはできない。


(今後、もしも涼雨さんが「少女L」だとわかったら・・・・・・また涼雨さんを殺そうとするかもしれない)

 結局のところ、今日、涼雨が殺されずに済んだのは、魔道士雷夜が来たからだ。

 雷夜が来なければ、どうなっていたかわからない。

 そうして次に同じようなことが起こった時に、また雷夜が守ってくれるかは――――守れる状況かどうかは、わからない。


(というか、他の男に守られるのをあてにしている状況って)

 砂映はもやもやと考える。


(いや、たとえ俺に守れる力があったとしたって・・・・・・二十四時間三百六十五日常に傍にいられるわけじゃないし・・・・・・)

 串虞草くしぐそうを握りしめ、魔術師紅に向けながら、考える。


(殺されるかもしれないなら。愛する人を殺されるかもしれないなら。先に殺すべきか)


 この空間で物理的な暴力はふるうことができないが、魔精生物である串虞草くしぐそうでの攻撃は有効である。魔精体の治りは肉体よりはましであるとはいえ・・・・・・通常の人間において、魔精体の傷はほぼ物理の人体へのそれと重なる。例えばここで、紅を串虞草くしぐそうでめった刺しにし、長時間治療を受けられない状態で放置すれば、死に至る可能性は極めて高い。


 砂映の手は、震えている。

 つい先程、涼雨と桃花のどちらかが死なないといけないなら迷いなく桃花を殺すのだ、と言った。実際桃花を容赦なく傷つけた。

 今、自分は、殺人を考えている。


(これは・・・・・・やっぱり俺は、おかしくなっているのか?)

 正常な判断ができない。どうしたらよいのかわからない。

 時間がないのに。

 砂映の中で、焦燥感だけが膨れ上がっていく。震えが止まらない。

 自分は今、何をしようとしているのか?


「へくしゅんっ」

 その時、竜菜がくしゃみをした。


「ここの空間って、なんかよくわかんないけど、ちょっと寒い・・・・・・?さっきの倒れてた人とか、大丈夫ですか?あ、ごめんなさい砂映さん。話しかけるのも今はよした方がいいですか」

 砂映に背を向けたまま、竜菜は言った。

竜菜の呑気な声に、砂映は我に返る。


「・・・・・・あ・・・・・・ありがとうです竜菜ちゃん」

「え?」

「ちょっと・・・・・・助かりました。ありがとうございます。で、もう少し待ってください。今からちょっと集中するので。終わったら声かけますね」

「了解でーす」

 にこやかさを載せた声で竜菜が返事をする。


 砂映は串虞草くしぐそうを握り直した。記憶消去の術の一環として、魔草に魔力を通して相手を攻撃する。魔術師紅の形のよい手の、その甲をほんの少し傷つけて、その血をつけた串虞草を握りこんで呪文を唱える。


(余計なことは考えるな)

 極端に、走るべきではない。安易に人の道を踏み外すべきではない。

 人の世界で、社会の中で、人として生きているのだ。


「普通」に、安直に、「当たり前」を当たり前として受け容れて、そうやって大多数が生きている。

 それで「日常」は成り立っている。


「普通」の枠からはずれて苦しんでいる人も大勢いるだろう。どうしようもない状態になってしまっている人も、たくさんいるだろう。それを無視してはいけないけれど。 


 でも、今かろうじて、ありがたいことに、「普通」の枠に入れている、のなら。

 それを自ら投げ捨てるような選択は、なるべくするべきではない。

(獣の世界に生きているわけではない。そうではない、と、思いたい)


 ――――ともかく記憶を消せばいいのだ。

 砂映が魔草を使って攻撃したことと、涼雨が「少女L」である、ということ。

 この二つに関わる記憶を消せばいいのだ。

 それだけを、確実に実行する。 


 術を伝授された時を除くと、少し前に明輝良あきらにかけたのが、この術を使った初めてである。慣れているとは言えない。だが、失敗は許されない。


(おそらく禁術にあたる、精神操作)

(下手をすれば廃人に)

(けど、記憶が残ることに比べたら)

(というかいっそ廃人になってくれた方が)

(だから、余計なことは考えるな!)


 先程の魔道士雷夜の説明を充分理解できているとはいえないが、「魔精の交換」と言っていたから、今砂映の魔精は、大部分が竜菜の魔精に置き換わっているのかもしれない。

 それでちゃんと術がなせるのか。その不安も少しよぎる。


(けど、魔道士雷夜もそれは見越してただろうし。魔道士が大丈夫だと言うのなら)


 ひととおり術を完了し、握りしめていた串虞草くしぐそうがぽろぽろと形を失って霧散した。

 集中しすぎて、砂映は汗をかいている。

 ふうっと息をつき、今度は桃花の方に取りかかる。

 新しい串虞草くしぐそうで、その手に少しだけ傷を付け、紅と同様にする。

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