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50.桃花の誘惑 砂映の反撃

 砂映(さえい)が奥歯を噛みしめ考え込んでいると、目の前に立っていた小柄な桃花(ももか)がつっと手を伸ばしてきて、宝石のような爪の人さし指の腹でふいに砂映の唇に触れた。


 驚いている砂映に、桃花は微笑みながら語りかける。

「さっきから、ずいぶんと難しい顔してるわね砂映さん」

「だ、だって」

「状況はとてもシンプルなのに」

「シンプル?」


「ええ。あなたはここでは無力。なにもできない。そうですよね(くれない)様?」


「そのとおり。砂映くん、君は魔精面を開いていないよね?別に馬鹿にしているわけじゃない。白魔術の術者なら必ずしも必要なことではないし、それに君の場合はその方が賢明だと僕も思うよ。君が魔精面を開いたって、その魔力の弱さではまともな黒魔術など使えないだろうからね。その身を危険に晒すだけだ」


 魔術師(くれない)は優雅に言う。


 砂映は少し前にも「魔精空間」に入る機会があったし、その法則はよく理解している。


 この「魔精空間」は、「魔精面」への干渉のみが有効な空間である。よって「魔精面」を開いていない人間は基本的に何もできないし、何もされない。言ってみれば、中にいても「蚊帳の外」、単なる見物客のような存在となる。


「魔精空間」では黒魔術か黒魔法、そして魔物による魔精面への攻撃しか効力が発揮されないし、黒魔術や黒魔法は「魔精面」を開いていないと発動できない。


 そのかわり、「魔精面」を開いていない人間は、この「魔精空間」ではダメージを受けることも一切ない。黒魔術、黒魔法、そして魔物による攻撃いずれも、「魔精空間」では、「魔精面」を開いていない人間には作用しない。


「あなたはここでは何もできない。だけどあなたはここでは傷つけられることもない。だから安心して、私たちに委ねたらいいの」

「委ねる?」

「そう、委ねて。大丈夫。すべてがいい方向に行くわ。素直になっていいのよ」


 話しながら、桃花は砂映に過剰に接近する。相手はまだ、とまどいの段階だ。接近されると思わず後ずさる。それを利用して、涼雨(りょうう)から徐々に引き離していく。巧みに身体を動かして、桃花は相手を望みの方向に誘導する。


「素直・・・・・・」


「ええ。余計なことなんて考える必要ないわ。素直に自分の心に従って、目の前の、本当に魅力的だと思うものを愛していいのよ。その魔物女が本来の醜い姿を晒して紅様に討たれるさまを見れば、きっと催眠魔法も完全に解ける」


「・・・・・・だから・・・・・・彼女は魔物じゃないし、俺は操られているわけじゃないし、どんなことがあっても俺は」


「必死で自分の彼女を守ろうとする砂映さんって、本当に素敵だなって思う。通常空間だったら、きっと男らしく紅様に殴りかかったりしたのかなって。だけど残念だけど、この魔精空間では、あなたは何もできない。仕方のないことよ。誰もあなたを責めないわ」


「そういう問題じゃなくて」


「ほら、また難しい顔をしてる・・・・・・」


 優しい笑みを浮かべてみせながら、桃花は自然な仕草でそっと砂映の手をとり、自身の膨らんだ胸元にその手を持っていこうとする。砂映は焦った表情で、ほとんど振り払う勢いですぐさま手をひっこめたが、それも桃花の想定内だ。潤んだ目をあえて砂映に向け、傷ついた顔を見せつける。砂映の顔に、わずかに申し訳なさそうな色がよぎるのを、桃花は見逃さない。優しい男は罪悪感を植えつけるに限る。そこから徐々に食い込んでいけば、落とすのは簡単だ。


「私も紅様も、あなたを救いたいと思っているのよ」

「いや、救うって・・・・・・俺は」

「あなたは騙されている。砂映さん。あなたは、この女に騙されているの。どうしてわかってくれないの?」


 うるうると目を潤ませて、桃花は懸命に訴える。男の大きな身体に対して、あまりに小柄で非力なのに挑発する姿勢を忘れない魅惑的な女の肉体。その肉体を惜しげもなく差し出すようにして、本能から、男を揺さぶる。協会所属の正規の術者には認めない者が多いが、魔術と違って魔女の使う魔法というのは、発動の線引きが曖昧な場合がある。男を籠絡する際の自身の手管にどこまで「魔法」が関わっているのか、桃花自身も把握しきれてはいない。


「だから・・・・・・俺は」

「自分では気づけないようにされてるのよ。だからあなたが悪いわけじゃない。ただ、私たちを信じてくれたらいいの。信じて、私を」


 もはや砂映から、怒りと反発は完全に消えている。 

 砂映の目が、否応なく自分に釘付けになっていることを桃花は確認する。男の全神経が自分に向けられている快感を、桃花は感じる。巧みな誘導で、涼雨から少し離れた場所に砂映を連れてくることもできた。ここで自分が砂映に寄り添いながら、魔物女が魔術師(くれない)に退治されるさまを見物する。ベストポジション。紅様に、後からたくさん褒めてもらえそうだ。


「こんなに。こんなにあなたのことを想っているのに。それでもわかってくれないの?砂映さん」

 すべてがうまくいったことを確信しつつ、あえてダメ押しで桃花は問う。


 男の答えは一択である。「そんなことないよ」。続く言葉は「ありがとう」「君の気持は受け取ったよ」といったところか。


「そんなことない・・・・・・です。ありがとう、ございます」

 砂映は答えた。

 落ちた。

 桃花は内心ほくそえむ。誰よりも有能で誰よりも魅力的な自分自身を誇りに思う。


 だが、砂映は続けて言った。

「だけど・・・・・・ごめんなさい。桃花さん」

(え?)

 桃花は目を見開いた。

 予想外の言葉――――だけではなかった。


 激痛で息が詰まった。自身の喉を刺し貫いた、脈打つような光を湛えた濃い緑色の植物の茎のようなものを、桃花は視界の底で確認した。信じられない思いのまま、けれど驚きは声にはならず、かわりに桃花は血を吐いた。


 次の瞬間、刺された喉から全身にかけ、電気のような衝撃が走った。

 くずおれかけたその身体を、冷ややかな顔をして、砂映は片手で脇から支えた。

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かっ……かっこいい、砂映さん。
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