36.涼雨(14) 回想⑫ 退院後
涼雨は一生懸命勉強をした。余計なことをあまり考えないようにして、ひたすら勉強をした。魔道士にアドバイスを受けて、模試を受けたりもした。
入院してから三ヶ月が過ぎても、そのまま涼雨は同じ暮らしを続けていた。
結局一年以上、魔道士の家に住んだ。
大学の合格通知を受け取って初めて、涼雨はこれからの生活について考えた。
魔道士は、好きにしていいと言った。
涼雨は魔道士の家から徒歩で数分の賃貸アパートで一人暮らしすることを決めた。
諸々の費用については、魔道士は返さなくていいと言ったが、就職してからの出世払いということにした。
涼雨は大学生になった。
他の学生とは少し距離を感じたけれど、それは自分の年齢が他の一年生よりもだいぶ上、二十四歳になっていたことも大きいと、涼雨は理解していた。
アルバイトもした。食堂の皿洗い。倉庫の品出し。スーパーのレジ打ち。レストランのホールスタッフ。塾講師。うまくやれることもあれば、やれないこともあったけれど、それほど大きなトラブルはなかった。
魔道士の家への定期的な通院は、一年生の間は週に一度だった。
二年生になってからは二週間に一度、四年生になる頃には月に一度になっていた。
それ以外に、不具合を感じて突発で行くこともあった。
砂映を思わせる優しさを見せた男に危うく遊ばれかけてショックを受け、常人には見えない程度とはいえ腕に魔精の鱗が浮き出してしまったことがあった。
レストランの厨房スタッフが店長にパワハラを受けているのを目撃し、怒りで封印と制御がいくつか吹き飛んで拘束が強まり呼吸困難で倒れたこともあった。
とはいえ、魔道士が飛んでくるような緊急性の高い異変もなく、どうにかこうにか涼雨は大学を卒業して無事に教員免許を取得した。
二十八歳。採用試験に合格して、晴れて小学校教諭になった。
「たぶん私・・・・・・動揺すると思うから。万が一に備えて、その日は待機しておいて。異変を察知したらすぐ来られるようにしておいて」
四月。いつもの通院時に、涼雨は魔道士に頼み込んだ。新任の始業式で初めて子どもたちの前に立つ。実習で教壇に立ったことはあるものの、担任として一人で児童たちと向き合うのはまた別だ。三十人余りの子どもを前にして、何が起こるのか涼雨は予測がつかなかった。
「わかった」
魔道士は短く答えた。
「子どもたちに何かあったら本当に困るから。本当に。本当に」
「おまえにかかっている術は、現状かなり厳重なものになっているし、ちょっとぐらい壊れても自動修復される。おまえだって前よりは精神的に安定しているだろう。滅多なことは起こらないと思うが」
「でも。危害を加えるとかはありえないとしても。中には魔精感度の強い子だっているだろうし。私の魔物を見てトラウマになったら」
「一日や二日でそこまで術が壊れることはほぼありえないが。仮に誰かがおまえの本当の魔精を察知するレベルに術が壊れるとしたら、その前の段階でおまえの不快感は相当なものになっているはずだ。痛みが出たり気分が悪くなったりしたらすぐにその場を離れて早退しろ。無理をしなければいいだけの話だ」
「それは・・・・・・そうするけど。でも、万が一のことがあるかもしれないし。とにかくその日は、特に何もなかったとしても仕事が終わったらここに来るから。術が綻んだりしてないか、見てほしいし。ねえ、お願いだから」
「わかった」
涼雨の懇願に、魔道士は頷いた。
とはいえ、涼雨も理解はしていた。そんな風にお願いしておいたとしても、魔道士は、下手をしたら多くの犠牲者を出したり甚大な被害をもたらしかねないような「経過観察案件」を他にいくつも抱えているし、また、そういった重大な新規の緊急案件がいつ飛び込んでくるかもわからない。優先順位が下だと判断されれば、魔道士は容赦なく別の仕事に出かけていくだろう。
だが、それでもお願いはしておくに越したことはない。
後は、その日に魔道士が暇であることを祈るより他にない。
(いや、そうじゃなくて。そもそも問題が起こらないように祈らなきゃ)
とはいえ不安を少しでも払拭するために、どうしても、魔道士には待機しておいてほしかった。
そうして新任挨拶、初の始業式と学級開きを終えた涼雨は、学校を出たその足でヘロヘロと丘を登り、魔道士の小屋を訪れた。
「・・・・・・私、魔法を発動したかもしれない」
魔道士の顔を見るなり、涼雨は言った。
「ありえない」
「だって」
「縛めの術が相当に壊れなければ、そんなことは不可能だ。術は一つも、綻びすらしていない」
「だけど」
泣きそうな顔で訴える涼雨に、魔道士はとりあえず白湯を出す。
涼雨は自分を落ち着かせるように、ゴクゴクそれを飲んだ。
「・・・・・・だって、子どもたち、みんなまじめに私の話を聞いてくれて」
「よかったじゃないか」
「勝手なことする子とかもいないし」
「大抵はそうじゃないのか」
「おかしいよ。私新任だよ。こんなにうまくいくのはおかしい。催眠魔法を無意識に使ったとしか思えない」
「新任だから、しつけの行き届いたクラスをあてがわれたんじゃないのか」
「私が何か言ったら、クラス全体がひとつの生き物みたいに、ぶわっと反応するの。私が言った通りに動くのよ?」
「学校というのはそういうものじゃないのか」
「従うのが普通なの?」
「・・・・・・俺も少ししか行ったことがないから知らんが。教師の言うことには、基本的には従うものなんじゃないのか」
「それは、優秀な教師ならそうかもしれないけど。私なんかが」
「まあ、子どもにしてみれば新任だろうがベテランだろうが、教師は教師なんじゃないのか」
「おかしい。こんなうまくいくわけない」
「初日から問題が起こることの方が少ない気もするが」
「でも」
「とりあえず術は一つも緩みすらしていない。催眠魔法の発動はありえない」
「本当ね?信じるわよ?」
「俺が嘘をつく理由がないだろう」
魔道士は念のために手をかざして、術の状態を精査し始めた。
時間にして、数十分。涼雨は話したいことを話した。学年主任の先生はこんな人で、こんなアドバイスをもらった。子どもたちにこんな話をして、こんなことをしてもらって、そしたらこんな風にする子がいた。
魔道士は術をチェックしながら、たまに「ふうん」と相づちを打った。
(単に、話を聞いてほしかっただけかもしれない)
ふと涼雨は、そんな風に思ったりもした。
涼雨は小学校教諭として、一生懸命働いた。
確かに、新任なので真面目でいい子達ばかりのクラスにしてもらえたのかもしれなかった。とはいえちょっとした問題が起こることは多々あったし、とまどったり悩んだり苦労したりすることはしょっちゅうだった。毎日必死だった。
(でもきっと、これが普通だ。普通って、こんな感じだ)
二ヶ月に一度魔道士の元を訪れる時以外は、ほとんど自分の魔精体質について意識することがないぐらいになっていた。
少し調子が悪くなったり、術が多少綻ぶこともたまにあったけれど、術の自動修復の範囲内で済んでいて、定期通院以外で魔道士のところへ行くようなこともほぼなくなっていた。
「普通」になれた。
そんな気持でいた。




